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【九月の宗像礼司と伏見猿比古】

暦の上では秋であっても、まだ暫くは引きそうのない暑さにうんざりとしながら、伏見は事件の報告のため、宗像の執務室へと足を運んでいた。

そして辿り着いた部屋の扉をいつも通りノックしようと、拳を作る。
しかし、扉に音を刻もうとした瞬間、それよりも早く目の前が開かれた。

「あ、伏見君。お疲れ様」
「お疲れ様です」

今まさにノックをし、開こうとしていた扉から現れたのは名前であった。
互いに挨拶を交わし、名前が開けてくれている扉から中に入る。

「失礼します。昨日の南管区での報告書、確認お願いします」
「ご苦労様です、伏見君」

執務室の机に着いていた宗像に用件を述べている間、扉の閉まる音が聞こえた。
医務に関することはほぼ彼女に任せられており、この部屋に来ることは珍しいと、伏見は名前が退室していった扉をちらりと見る。

「見られてしまいましたね、逢引を」
「冗談言ってないで、報告書を見てください」

伏見の視線の先に気付いたのか、宗像が笑みを含んだ声音で言った。
その内容に煩わしさを感じながら、伏見は持参した報告書を彼の机の上に置く。

「たまたま廊下で会ったので、お茶を点てて差し上げただけですよ。この前の健康診断でまた視力が落ちていたので、今度一緒に眼鏡を選んでもらうことになりました」

名前がこの部屋にいた理由を伝えたあと、取り付けた約束を聞かれてもいないのに口にする宗像。
その表情はどこか嬉しさを滲ませており、職務中に何をやっているのかと伏見は苛立ちを覚える。

「……付き合ってるんですか」
「いいえ。だいぶ前になりますが、私の気持ちは彼女に伝えました。とは言っても交際の申し込みではなく、気持ちを知ってもらっただけです」

宗像が名前に好意を寄せていることを知っている伏見は、あれから二人の関係性はどうなったのかと何気なく問い掛けた。
けれどその告白は、返事を聞かなかったものだと言われ顔を顰める。

「気持ちを伝えただけって、随分身勝手ですね」

二人の間にどのような会話がなされたのか、詳しくは知らないし聞こうとも思わない。
だが一方的ともとれる宗像のやり方に、伏見は率直に意見した。

「……そう、ですね。私が王でなければ、彼女に振り向いてもらえるように行動していたとは思いますが」

困ったように笑いながら、宗像が胸中を紡ぐ。

宗像が王ではなく、ただ一人の青年であれば、名前に想い人がいても、努力次第でその未来を変えられるかもしれない。
しかし、彼が王であるという事実は、変えることの出来ない天命である。

命を賭して、この世界の秩序を守る青の王としての立場が、彼女を幸せに出来るとは言い切れない。
そう思う宗像の、普段の自信に満ちた姿とは掛け離れた様子に、伏見は呆れたように溜め息を漏らした。

「告白してきた相手が王だろうが何だろうが、答えを出すのは名字先生ですよ。先生の話を聞かずに一人で結論付けて、それで満足ですか」

少なからず、名前のことを気に掛けているが故に出た言葉だった。そう言ってから伏見は、らしくないことをしたと思わず舌打ちをする。
それは、宗像が意外だとばかりに、些か驚いた面持ちで伏見を見ていたからだ。

「……まさか、君に諭される日が来るとは」

言い聞かせるようなその言葉に、宗像は次第に表情を和らげながら呟いた。
伏見なりに気にしてくれているのかと解釈し、口許に笑みを浮かべて問い掛ける。

「私のことを心配してくれているのですか?」
「俺が心配してるのは、面倒くさい上司に好かれた名字先生の方です」
「おや、手厳しい」

そう言って笑うと、早く報告書に目を通せと伏見に促される。
いい部下を持ったものだと思いながら、宗像は書類へと手を伸ばした。





【十月の宗像礼司と名字名前】

セプター4室長の執務室に青いバラのプリザーブドフラワーが飾られてから、一年。
ガラスドームの中に収められているその花は、今もなお凛とした姿で鮮やかに輝いている。

その日、宗像は二十五歳の誕生日を迎えた。

今日は午前中のみ執務を行い、午後からプライベートで外出する予定となっている。
先月約束した通り、名前に新しい眼鏡を選んでもらう日だ。私服に着替え、屯所の門扉で待ち合わせをする。

「名字先生、今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。では行きましょうか」

今日は名前が行先を決めてくれるということで、宗像は彼女に着いていく形となった。

目的地へと向かう間、十月一日は『眼鏡の日』であるなど他愛ない話をする名前の楽し気な様子を見て、宗像は思う。
それぞれ制服と白衣を脱いだ二人は、周りからどのように見えているのだろうか。

王権者ではなく、その臣下でもなく、どこにでもいるような友人、あるいは恋人同士のように見えているのかもしれない。
僅かな時間ではあるが、王ではない一個人として、宗像は彼女の隣を歩きながら小さな幸せに浸っていた。

「室長、まずは診察を受けてもらいます」
「診察、ですか?」

しかし、名前から見た今の自分たちは友人や恋人同士ではなく、患者と医師だったらしい。
てっきり、一般的な眼鏡屋に行くのかと思っていた宗像が連れてこられたのは、眼科であった。

名前の話によると、視力が低下してきた場合、眼鏡を変えることで見えるようになればいいと考えるのは間違いだという。
近視や遠視、乱視といった目の屈折異常が生じているのか、それとは別に目の病気が隠れているのか。そういった点を専門医に診てもらうことが大切なのだと。

そして今日訪れた眼科は、名前が信頼する腕のいい医師が院長を務めているということだった。
非番であっても医師という職業から離れられない名前の姿勢に、宗像は心の内で苦笑を漏らす。

だが折角の機会だからと、彼女に付き添われて目の診察を受け、特に病気は確認されなかったことから、今の視力に合うよう眼鏡を新調することになった。

「仕事で使うとなると……これなんてどうですか?」

宗像から眼鏡選びを任された名前は、数あるフレームの中から、スクエア型のノンリムタイプを選択した。
プライベート用であればイメージチェンジを狙ってもいいと思うが、公的な機関に所属する宗像には、現在彼が使用しているものと似たタイプがいいだろうとの判断だ。

そしてレンズも含めて、素材は耐久性に優れ、軽く、長時間掛けていても負担が掛からないものにした。
宗像は今まで掛けていた眼鏡を外し、名前から手渡されたサンプルを掛け直す。

「掛け心地がいいですね。どうですか?」
「はい、格好いいと思います」

度の入っていない眼鏡を掛けているため、名前の顔ははっきりと見えていなかったが、彼女が微笑んでいるのは分かった。
述べられた感想に、宗像は自分の鼓動が逸るのを感じる。

何とも単純なものだと、彼は思った。
名前は上司への世辞として、そう言ったのかもしれない。けれど、好意を寄せる相手から「格好いい」と言われただけで、こんなにも心臓がうるさくなるとは。

『王だろうが何だろうが、答えを出すのは名字先生ですよ』

彼女に気持ちを伝えた当初より、その想いが確実に膨らんでいるのを感じた宗像は、先日の伏見の言葉を思い出した。
もし今、あの時と同じようにこの胸中を伝えて答えを求めたら、名前はどのような返事をするのだろう。

こんなにも誰かを愛しいと思ったのは、初めてだった。
それ故に、恐怖心が生まれる。彼女に拒絶をされはしないか。もし想いが通じ合ったとしても、青の王という立場が彼女を不幸にしてしまわないか。

このような話をすれば、また伏見に何か言われるかもしれない。
自嘲めいた笑みを内心浮かべながら、宗像は掛けていた眼鏡を一度外した。

「では、これにします」
「他に試してみなくていいんですか?」
「ええ。名字先生が選んでくれた、これがいいです」

せめて、彼女との繋がりを作るように、宗像は名前に選んでもらった眼鏡を選択した。
彼の心情など知らなかった名前は、自分の案が採用されたことに、嬉しそうに目を細める。

在庫はあるということで、即時作ることが可能と聞いた二人は、眼鏡が出来る間、休憩を挟むことにした。なお、会計は眼鏡の完成後となるらしい。
近くのカフェに入り暫く雑談をしていたところ、名前のタンマツに一本の電話があり、彼女は宗像に断りを入れて席を外す。

仕事の電話だろうか。しかし自分の所には、何も連絡が入っていない。
手持ち無沙汰となった宗像は、人が行き交う窓の外を眺めながら、名前が戻ってくるのを待った。

「誕生日おめでとうございます、室長」

名前が席を離れて十数分後、宗像のもとへと戻ってきた彼女は、祝いの句と共に一つの箱を差し出した。
予期していなかった名前の行動に、宗像は些か驚いたような視線を向けたが、自分の誕生日を祝ってくれる彼女に思わず表情を和らげる。

「……ありがとうございます。覚えていてくれたのですか」
「はい、昨年教えてもらったので」

プレゼントだろうか。ラッピングの施された箱を受け取りながら、宗像は感謝の言葉を口にする。
そして名前に許可をもらい、その場で箱を開封することにした。

「すみません。視力の健診結果を見た時から、これが実用的かと思ったので……」

箱の中に収められていたのは、先程選んだ眼鏡であった。宗像の視力に合わせた度付きのレンズもはめられている。
どうやら彼女は、病院から電話を受けてこれを取りに行っていたらしい。

「まさか先生からこれを頂けるとは……嬉しいです。大切に使いますね」

早速とばかりに、宗像は新しい眼鏡を掛けた。
古い方の眼鏡は、やはり度が合っていなかったのだろう。新たな視界には、名前の顔が鮮明に映った。

互いの視線が重なり、どちらからともなく自然と微笑み合う。

「少し眼鏡を掛けて過ごしてみて、あとで角度の調整に行きましょう」
「はい。本当にありがとうございます」

改めて礼を口にした宗像は、名前への温かな気持ちから、普段誰にも見せないような笑みを浮かべた。



『なるほど。どうやら青の王にとって、あの女性は特別な存在のようです』

そんな二人を、向かいのビルから見つめる一羽のオウムがいた。

『実験です。彼女に干渉した時、青の王はどのように揺さぶられるのか』

緑の羽を持つそのオウムの瞳は、和やかに笑い合う宗像と名前の姿を捉えていたが、やがてそのフォーカスが名前の方へと向けられる。

『会えるのを楽しみにしています。名字名前さん』

焼き付けるように名前を見つめたあと、オウムはビルから羽ばたいてその姿を消す。

御柱タワーが異能集団により襲撃を受けたのは、それから数日後のことであった。 


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