マカロフ未完成


 

視界がぐわんぐわんと揺れた、まるで船の上に乗っているような気分で頭の中も視界も身体も全てが何処か地上から足を離れて浮かされているようだ

「ずっと傍にいて欲しいと、そう思うのが愛なら俺はお前を愛しているのだろう」

そんな女が望む言葉を本心から告げたのはきっとこれが初めてだと感じながらもあらゆる匂いが混じりあったこの部屋の中ではその言葉さえ甘いものではなく、嘔吐物のようにドロドロと汚く気持ち悪いもののように感じるのは彼に対しての感情が変わったからなのか、今自分の頭が狂ってしまっているからなのか分からなかった。

―――

マカロフとの出会いは数年前だった、上場企業の総合受付の事務員として雇われていた平社員の彼女に声をかけた彼を見た時、どこか不思議な魅力の男だと感じたのだ
隣に座っていた女性社員はロシア人なんて珍しいと楽しそうに話をして来たがなんとなく流したのは特に興味を抱かなかったからだ

「何か探してます?」

ランチタイムになりお弁当を片手に歩いていた際、ちょうどアポを終えたらしい彼が何かを探すように視線をさ迷わせていた事に自然と声をかければ喫煙所を探していると言われ、廊下の突き当たりを右にと言えば「スパシーバ」というロシア人でなくとも聞いたことはある単語を発して言ってしまった彼の背中に同じ言葉をオウム返しをした時点で彼の術中にハマっていたのかもしれない。

そうして気付けばマカロフと恋人としての時間を過ごすようになり彼の本心が分からないながらも一年二年と交際を続ける中で彼が本当に自分を愛しているのだと彼女は気付いたのは彼が自分の仕事を隠すこと無かったからだ
いつからかデートには第三者の送迎が付き、個室のVIP専用のレストランで食事を取り、何かがあれば銃を持つ男がそばに居た

「早くしてくれ、恋人を待たせてるんだ」

そう自然と告げるマカロフの前では椅子に縛り付けられた血だらけの男が一人、後ろから見ていても分かるほどの拷問を受ける姿に思わず顔を背けるものの誰も彼女を気にしなかった
骨の折れる音、炙られる皮膚の匂い、絶叫に、許しを乞う声、まるでフィクションの世界が目の前にはあるのだ、スクリーンの中の映像と違うのは音も匂いもそこにある全てが現実だと思い知らせることだ

遂にマカロフの望む情報を吐き出した男は解放される訳もなく、簡単に頭に銃弾を受けて絶命した、白いハンカチで手を拭いてナマエの前にやってきたマカロフは何も無かった表情をしてはレストランの話をするものだからナマエは自分が可笑しくなるように感じた
気付けば彼の隣にいて、様々な世界を見せられては元の職場もやめて彼が与える仕事をこなす度に正式な報酬を受け取りつつもその金が酷く血で汚れていることも理解している。

「こんなことを言うのは気恥しいが他人に対してここまで感じるのは初めてだ」

照れくさそうに告げるマカロフの言葉が本心か建前かは理解できなかったしする気もなかったナマエはベッドの中で愛される度に彼のくるくると変わるその顔に背筋が震えた

マカロフと過ごす中で気が休まったことは一度もなかった、ふとベッドの中で目を覚ませば彼は大抵腰かけて携帯で誰かと連絡を取るその表情はまるで現実から遠く離れたもののようで、その冷たい眼差しがいつ自分に向けられるのか恐ろしくてたまらなかった

聞きたくない言葉がいくつも聞こえた
薬、人身売買、児童買春、政治家への揺さぶり、武器の調達、民間人、殺せ
いくつも聞いてきたことのある単語が普通になってきてしまえば気が狂ってしまうのも無理は無い
そんなある日マカロフは何も言わずにどこかに行った、よくある事でまた数ヵ月後には帰ってくると思っていたが彼は帰ってこず飽きて捨てられたのだと彼女は考えてその家を後にした。

―――

新しい土地、新しい仕事、新しい人間関係
全てが順調だった、懐かしさすら感じる小さな会社の事務員をして、朝9時から夕方17時までの仕事は随分と楽で、不穏な話はひとつも聞かない
時折誰かの不倫の話を聞く程度で誰かを傷つけることや誰かを殺すことなど聞くはずのないものだった
約一年ほど働いているその職場の定時の時計が鳴り全員が帰ろうとする際に一人の男に声を掛けられたナマエは夕食への誘いを受けた、誠実そうな優しい普段とはタイプが違う相手は好みでは無いものの悪い気は無いと二つ返事の了承をしては週末の夜の食事相手として時間を過ごした

「(凄く優しい人だった、あんな人だったなんて…また誘ってくれるかしら)」

食事が済めば早々に改札まで送られ下心もなくさよならの挨拶を告げるその相手に自分だけがはしたないように感じてはもう若くないのに。と苦笑いをして自宅のアパートの階段を昇った
冷たい風が頬をくすぐり先程飲んだアルコールの酔いを覚ますようである、その浮かれた気分で鍵を挿すよりも先にドアノブに手をかければドアが開いた事に鍵を閉め忘れたのかと疑問を抱きつつ部屋に入った途端にその異常な空気感に思わず身を固めつつリビングにいけば暗い部屋の中には数名の人が見えた、身に覚えのある男はスーツに身を包みソファに腰かけては彼女を見て

「おかえりナマエ」

といったのだ
紛れもなく彼はマカロフであり、ナマエは悪夢のようだった
それまで足を浮かせるほど機嫌よくさせていたアルコールが簡単に抜けてしまいどうすればいいのかも分からずにいたものの「ただいまマカロフ」と声を掛ければ彼は笑みを浮かべた
窓際には二人の銃を手にした男がおり、彼らはナマエをみてはなんの反応も示さなかったが彼女は彼らを見た事はあった、マカロフが特に信用する部下たちだということだ

「来るなら来るって連絡くらいしてくれてよかったのに、お茶でも入れましょうか?っていってもインスタントだし客人用なんてないけど」

カバンとジャケットを置いて狭い1LDKの部屋のカウンターキッチンで人数分のマグカップにコーヒーを入れて頭の中で必死に考えていればふと背後に彼が立っていることに気がついてしまう

「連絡を入れようにも以前の携帯は捨てていただろ」
「…そ、そうね、ごめんなさい」
「コーヒーの分量は覚えてるようで何よりだ、随分遅かったらしいがどこに行っていた?」

定時は17時だしいつもは遅くとも19時には帰宅してる。という彼にそこまでの情報を知っているのかと感じ嘘をついても仕方ない為会社の人に食事に誘われてたのだと素直に告げれば彼は相手の名前や住所を告げる為背中に汗が伝う

「抱かれたのか?」
「いいえ」
「抱かれたかったんだろう?ぐっしょりと濡れてるぞ」
「そんなこと…ッ」
「俺がいない間、誰とも"浮気"していなかっただろうな?」

背後から臀部を強く掴まれたナマエは思わず痛みに顔を歪めるものの必死に首を縦に振ればマカロフは満足気に喉を鳴らしては彼女の髪を掴み寝室に連れ込んではベッドに投げつけた
ベッドフレームに身体が当たり嫌な音がし痛みナマエは思わず立ち上がろうとするがマカロフは彼の背後からやってきた部下に何も言わずに手を差し出せば細い何かが手渡され、ナマエの腕を簡単に頭上のベッドフレームの柵に固定すれば先程受けとった細い何か…いや結束バンドで彼女の手首を縛り付けた

「マカロフ!やめて!なにするの!!」
「俺がいない間に逃げ出したことへの罰を与えねばならん、お前は俺とずっと共に居たんだから分かるだろう?」
「ねぇ嘘よね…マカロフ待って、嘘…いや、殺さないで」
「おかしなことを言わないでくれ、俺はお前を心から愛してる、殺しはしない…殺しはな」

部下から手渡された軍用のしっかりとしたアーミーナイフを手に持ったマカロフがナマエの黒いストッキング越しに足を撫でた、じたばたと暴れる彼女は彼が人を簡単に殺す相手だと理解しておりそれならいっそ銃でと願うものの彼は嘲り笑った
まるで自分の愛を信じていないのかと問いかけるような彼に自然と涙を零すナマエは「ごめんなさい…ごめんなさいウラジミール」と必死に声を上げた、その言葉を聞いてはナイフを足から離したマカロフは彼女の顔を覗き込み眉尻を下げて微笑んだ

「構わないさナマエ」

まるで遅刻をした恋人に対する優しい声のようだが背中はゾクゾクしていた、嫌な予感が脳裏を離れないのだ
実際マカロフの手は彼女の足から離れずに太ももから膝へ、膝から足首へ、足首からアキレス腱を撫でる

「お前が俺の側から逃げ出したことはいい、しかしだ…情報を与えたな?」

彼の絶対零度の声に思わず涙が止まる、それは彼女には身に覚えがあったからだ。
マカロフから逃げ出して半年後ある日彼女の家に見知らぬ男が二人現れたのだ、名前はプライスとソープであり、彼らはマカロフの居場所を知りたいと言った、マカロフからそれまで一切離れなかった女が逃げ出したとなれば放置できる訳でもない彼ら拷問にかけてでも情報を引き出すと告げられれば彼女はしがない民間人であるため命の為に自身が知り得る情報を彼らに提供したのだ
実際彼女が教えた本来の居場所にはその頃マカロフはいなかったのだから何も問題は無いと判断をしたものの彼からしてみれば違った、愛する恋人の裏切りも自分のいぬ間に荒らされた場所も全てが彼の腸を煮えくり返すような苛立ちを感じさせるには十分だった。

「もう一度私を愛せるか?」
「…ッ」
「愛していると言っていただろう?」
「こんな人だと…思わなかった…」

普通の人だと思っていた。と泣きながら告げるナマエにマカロフは目を丸くしたあと背後にいる部下に目を向けては声を出して笑った

「どんな相手だと思ったんだ、お前を幸せにする王子様だと?」

幸せにしてやった、金に困ることは無かったし、傷つけもしなかった、ただ隣に居て見届けるだけで許してやっていたんだぞ。という彼に軍人でもないナマエはどれだけ言われても彼らに協力できるような事がないのだから当然だと感じられた

「どうして私なの、役立つならもっとほかにもいたでしょう」
「初めは誰でもよかった、だから君にした…だけどこの気持ちは本物だ」

本物だから追いかけるんだ。と蛇のような声を耳元で囁く彼はまた「愛せるか?」と言った、そんなことは出来ない、愛など彼にわかるわけが無いとナマエは感じていたのだ
マカロフは自分など見ていなかったとさえ感じた、だから広い邸宅に彼女を飼い殺し悲惨な世界を見せ続けたのだと信じた
その返答に無表情のマカロフはアーミーナイフを握り直しては彼女のアキレス腱に向ける、本気なのだと言わんばかりのどす黒いその目に彼女は彼を思い出しては必死に声を上げた

「嘘!!愛してるッ!愛しているわウラジミールッ、お願いだから許してもう二度とあなたから逃げ出さない!誓います!」

まるで祈りを捧げるようにそう叫ぶ彼女にマカロフは気分よく言葉を聞き頷いた

「よかった、なら誓いを示さなきゃな」
「へ……っあ"あ"あ"ぁ"いっ""あ"!!」

ベッドのスプリングや手首を繋がれたフレームが激しい音を立てた、暴れる彼女を傍に居た側近の男が押さえつけるものの彼女の声は誰も抑えず部屋の中…いや外にまで彼女の悲鳴は響いていただろう
切れ味のいいアーミーナイフは彼女のアキレス腱を簡単に引き裂き、骨まで届く程深く傷付ければ出血は激しくベッドの上を汚した

「シーッ、シーッ、まだ片方残ってるだろう?」

そういって笑ったマカロフの言葉などもう何も入っては来なかった

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