グィス


 

ふと目覚めた時、外はまだ暗く月明かりだけが部屋の中を照らしていた、縁側の彼は基盤の前で座っては深く眺めており、そこに何が見えるのかと問いかけたかった。
片側に少しだけ体温を残した布団の中から抜け出して、彼の向かいに腰掛けて基盤を眺めては何も置かない彼に手を伸ばして黒の碁石を基盤に置いた、指先から視線を上げた彼の深い常闇の瞳が月夜の灯りに照らされた彼は立ち上がりその場を後にした、彼の鍛錬の邪魔でもしてしまったかと思いつつ小さな欠伸をすれば足音も立てずに戻ってきたらしい彼に包むように羽織を掛けられる。

「そのままだと風邪を引くから着てろ」

そういった彼は上半身には何も身にまとっておらず、脂肪の全くない肉体美ともいえる身体のまま向かいに腰をかけた、確かに彼女は自分の身なりを思うと下着姿であった為素直に彼に羽織らせた羽織を深く被った。
白い碁石は一向に置かれる様子はなく、まだ何かを言いたいのかと見つめれば彼は基盤を眺めて告げる。

「ハンディだ、三子で」
「私が勝った時困るのは貴方なのに」

だって私が勝てば貴方は私と一緒にまた布団に戻らなければならないと先程まで共に熱を分かちあっていた布団に視線をやれば彼は同じく視線を向けたあと、黒い石が三つ並んだ基盤の上で白を彩るように置いた。

「困るな」

まるで夜話でも聞かせるように静かな彼の声が聞こえる頃、縁側に飾ってある風鈴が小さな音を立てて揺れた、何が困るのかと聞こうかと思いつつもう一度黒い石を置けば男は微かにも明るい声でいう。

「負けたくなる」

どうせ出来ないくせにと思いつつもその言葉に口角を上げてもう一度白が負けじと流れるように置かれる。
始まったばかりであれど彼に勝つことなど彼女には出来なかった、それは単純に目の前の男の腕がアマチュアではなく、プロでもなく、素人でもないからで、人は彼を鬼や神と呼ぶ。

アタリ

そう短い宣告と共に終局したゲームにまぁ当然の結果だと思いつつ負けたことを悔やむフリをした言葉を吐きつつ基盤の上の白黒を片していく、布団の中にいた頃の熱はもうとっくに無くなって、対局による身体の熱だけが上がっていた、彼と比べたら小指ほどの強さしかないけれど女はいつも彼との対局を楽しんだのはかつての彼が師と仰ぐ男を感じるからで、打ち方は違えどやはり何処かあの男の香りをさせる。

夜は孤独と淋しさを募らせるものでほんの少し考えてしまったことから彼女は何処かセンチメンタルな気持ちを感じた、風が微かに吹いて二人を撫でて彼女が片し終えては立ち上がろうとする前に彼が静かに傍によっては横になり彼女の足に頭を置いた。
勝者の報酬なのだと理解する彼女は彼の少しだけ硬い髪を撫でる、また少し長くなったから切ってやらねばならないと古い髪切りハサミの手入れをすることを考えると向きを変えた彼が見つめた。

「ナマエ」

口数の少ない彼がそう名を呼ぶことをいつもくすぐったく心地よいと感じる女はそれが合図だと理解していた。
髪を耳にかけて女は彼の唇に顔を寄せた、対局の熱が交わり広がり合うと彼の手が頬を撫でる、夜は二人をいつだってどこか寂しくさせながらも二人で分かち合う熱の心地良さを覚えた二人は静かに布団に戻るのだった。

「どこかに行くなら私も連れて行ってね」

勝手に居なくなって独りにさせるだなんて、そんなに辛いこともうないから。と彼女がいうように彼の身体に頬を擦り寄せると彼はその胸に強く抱き締めた。

「好きよグィス」

そうして神様を男に落とすことこそ、寂しがり屋の彼女にとって最大級の快楽だった。

◇◆◇

「女は好きか?」

二歩先を歩く男の言葉に少年は不思議そうな顔をした、家から飛び出しソウルへとやって来た少年に振り向いた男は煙草に火を付けて少年の顔を見るなりケラケラと何が楽しいかも分からずに笑う。

「女も知らねぇガキだったな」

苛立つことは無い、当たり前のことを言われたからで少年は未だに何処に行くのかも分からずにただ只管男についてきていた、この男に着いてきたこと自体は正解なのかも分からなかったがそれでも本能はこの男に着いていくべきだと告げていた。
荒い山道を上がる男は息のひとつも乱れもせずに煙草の煙を燻らせつつ少年に目的地に同い歳ほどの少女がいるが下手な事をしたら山に埋めてやる。と告げた為彼は男の娘なのかと察した。

雲ひとつない快晴はまるで少年への門出を告げる様な天気であり、それまでソウルの中心部にいた彼は人混みや建物の空気から解放されて心地よい自然の香りを胸に吸い込んでいた。
一人飛び出してきたものの外の世界は弱者は淘汰されるだけであるということを理解した彼にとって生きる為には強くならねばならないのだと目標を得て痛み始めた足を必死に動かし辿り着いた錆び付いた寺で信心深く手を合わせて挨拶をする男を眺めた。

その頃、丁度鈴の鳴るような声が二人に掛けられればそこには少女がひとりいた、細い手足に白い靴下と紺色の膝丈のスカートに白いシャツにエプロンをした三、四つ年上の少女を見た時、彼は思わず身体を強ばらせた。

「ナマエ客人だ。しばらく世話をしてやってくれ」
「ええ畏まりました、それでは夜は豚でも焼きましょうか」
「チキンにしてやってくれ、もちろん甘辛で揚げてくれ」

男の雰囲気はそれまでとは異なる柔らかなものであり、彼女の白い靴下を履いた足がゆっくりと近付き、少年の前で足を止めた、細くて碁石のような黒い髪が揺れて優しく微笑んで挨拶をすれば少年は小さく頭を下げるだけだった。

「破傷風になるからしたらダメだよ」

数ヶ月の月日が流れ、男は少年を連れて下山すると告げた時、少女の目には少年は以前とは異なる修羅の目を密かに宿していた。
血濡れた指を治療してやってくれと言われ投げつけられた彼女は自分と変わらぬ少年の手を取り消毒をしてやり包むように包帯を巻いてやった、少年は静かに彼女を眺めるがやはり無口で何を思っているのかなど何も分からなかった、両親に捨てられ賭けの代金代わりに見売られた彼女にとってこの場所が家で、先生と名を呼ぶ男こそが実の父のようであった。
そんな男が連れてきた少年はまるで弟のようであり、なにかに燃え上がる彼を眺めてはいつも不安を感じた、幼いながらに男という生き物が生き方を曲げぬ頑固な生き物だと知っていた彼女は彼らに何かを言う訳では無いが、それでも彼女が生きてきた中で必要となることは教えてやっていたつもりであった。

「下山するんでしょ?その前に一局しない?」

折角だから賭けよう。という彼女にそれまで伏せていた少年のおもてが上がり目の前の彼女をその深い海の底のような色合いの瞳に捕えた。
物言いたげな彼の眼にそんなに大したものを賭ける訳ではないと告げた、反対に少年が勝てばどんな些細な頼み事でも聞いてあげようというものだから、彼は暫し悩んだ末に昼食に桃を食べたいと告げた、その言葉に彼女はクスクスと笑って案外彼は目敏く冷蔵庫を見ていたのだと知って、勝てたら師匠に内緒で食べさせてあげるといった。

「そんなに桃が食べたかった?」

小さな声でトドメを打つ彼にからかうように笑っては立ち上がり腰布の紐を閉め直しては冷やした桃を切るために台所へ赴くとまるで雛のごとく少年は彼女の背後を数歩後ろから着いて来た。
その姿が余計に面白可笑しく思っていたものの少年は「ナマエとしばらく食べられなくなる」と言うものだから、彼女は笑みを止めて彼を見つめた。

年端の変わらぬ少年は独り子であった彼女にとってはなんとも言えぬ愛らしさだった、感情は乏しく口数は多くは無いものの目は口ほどに物を言うと云うように彼はいつも彼女に目で語りかける。
それがまた不器用な可愛げを感じて胸辺りを綿毛で擽られるような感覚であると感じられた。

「私はここにいるから、寂しくなったら帰っておいで、ここが貴方の家なんだから」

そういって彼女は氷水で冷やした桃の薄皮をゆるりと剥いで、綺麗に割った桃を一口大にして彼の薄い唇に押付けた、ひそやかに開かれた彼の口の中に滲んだ白色の桃が滑り込み小さな歯が咀嚼し薄い喉が動いたことに彼女は夢中で彼にもう一口と差し出した、まるで雛に餌をやる気分であると感じる頃、からかう大人の声に振り返った。
基盤を聖堂に戻してちゃんと片せと呆れていう声に少年は行ってしまい、彼女は僅かに残念に感じつつ伏せた目を男に向けると彼は彼女に向けて足を進めて桃を眺めた。

「俺には食わせてくれないのか」
「先生ったら甘えん坊さんなんですね」
「やめろよくすぐったい、あいつに惚れたか?」
「そんなわけ⋯」

弟みたいな感覚です。と告げた彼女に弟や兄弟などといった感覚は分かりやしなかった、それでも彼に向けての感覚はきっとそういうものなのだといえば桃を盗み食った男は自分の服で手を拭って彼女の頭を撫でてすぐに帰ってくると安心させるように告げた。
煙草とお香の匂いの混じった男にいつも置いていかれると口先を尖らせつつも寂しくなるからあまり外遊びに夢中にならないでください。と親に甘えるように胸に抱き着けば男はくすぐったい顔をして微笑んだ、少年も少女も男にとってはかわいい子供であったのだ。


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