ハデス
冥界──その薄暗い不気味な世界を支配する冥王ハデスは執務室内で思わず目の前の書類を相手に渋い顔をして眉間に手を添えた。
静寂と凍えるような冷たさのある冥界の彼の部屋の中はいつも微かなアンバーとムスクの香りに心地よい紅茶の香りがしていた。
午後十五時前、ちょうど執務室の開いたドアを通ってきたのは一人の黒いカソックを着た男──蝿の王ベルゼブブであった。彼は普段傍に控えているはずのメイドを連れてこずに一人でいつもの様に報告に来た様子でハデスが書類から目の前にやってきた彼を見上げた。
「今月の研究室の方の請求書関連です」
「なんだ藪から棒にお前から来るとは」
この程度のことであればと言いたくもなるがベルゼブブが何故このような些事で現れるのかハデスは知っていた。というよりもそうなるのは当然でもあり、ハデスはすっかりと呆れたように苦笑いをしつつも請求書やまとめられた報告書を受け取っては軽く目を通すがこの書類に関してはハデスが見ずとも承認印を押しても問題はないことを知っているため、見たフリをして判を押しつつ向かいに座ったベルゼブブのことを気にせずハデスが職務に励んでいれば「ナマエ」と彼は小さくつぶやくなりハデスの肩が揺れた。
「なんだ」
「いえ、なにも...その様子だと”まだ”なんだなと」
その言葉の真意をハデスは知っている。
この目の前の今や友人であり、かつては微笑ましい恋愛をしていた蝿の王はいまや立派な男として一人の女を愛するほどに成長を遂げた。
ベルゼブブとの関係もそれなりに長くなったものだとハデスは内心思いつつも、値踏みするような視線を向ける彼に気付かないフリをしていたがベルゼブブがなにかを言いたそうにする頃、ハデスの執務室に小さなノック音と共に一人のメイドが他に控えたメイドとは違う装いで十五時のお茶の時間に合わせてティーセットをカートに乗せながら現れた。
ハデスの居城に控えるメイドたちはみな厳格なクラシカルなメイド服を身に纏っており、物静かに佇むものだが、そのメイドだけは違った。他のメイドとは違う下着がみえそうなほどに短い丈をしたボリュームたっぷりのパニエに、大きく開いたデコルテのラインは双丘の谷間を見せるほどで、短いスカートから覗く健康的で肉付きよくも細い足は黒いレースとフリルのガーターベルトに編み上げのレザーブーツはどこか挑発的で強気であった。
「ハデスおじさまお茶のお時間です...ってあれ?パパ!!」
ハデスおじさま...と呼んだそのメイドは執務室の客人用の椅子に座っていたベルゼブブをみるなり、執務室の入口に控えるメイドたちとは正反対に満面の笑みを浮かべては押してきたカートも無視して両手を広げてベルゼブブに飛び込んだ。
「久しぶりに来てくれた!私今日もすごく頑張っておじさまにご奉仕してるの、お茶のお時間だからパパにも淹れてあげるね」
「いや、僕はいいよ、ちょっと仕事の話をしにきただけだから、元気そうでなによりだ」
「そう?おじさまにはすぐ紅茶淹れてあげますからね」
「ありがとうナマエ、だが砂糖は控えめ...っあ、まぁいい」
ナマエと呼ばれた彼女は一人で騒がしくも丁寧に完璧な作法で紅茶をハデスの愛用しているティーカップに注いではミルクをたっぷりと砂糖を三つ、雫が飛び跳ねてしまうのも気にせずに投げ入れてはハデスに嬉しそうに差し出すためハデスは感謝をしながらティースプーンでカップの中をくるくると回すと三つの砂糖はころころと転がっていく。
「パパがいるけど私今日は忙しいんです、淋しいですけどおじさまも頑張ってくださいね」
「...あぁ」
そういって彼女は席に座ったハデスの後ろから彼の肩に手を添えると、そっと顔を寄せてその頬に唇を触れさせるなり嬉しそうにベルゼブブにまた挨拶をして去っていき、残されたハデスはティーカップとソーサーを持ちながら目の前の男をみれなかった。
「あそこまで覚醒してるのに”まだ”なんですね」
「当たり前であろう、アレはお前の娘だぞ」
「でも彼女の娘でもありますよ」
去り際にベルゼブブは確かに自分の娘であるナマエの頭に山羊のような角が現れ、黄金色の浩みが更に深くハチミツのようにどろりとしているのがみえたことに感心した。進化をしているという点は彼の研究者としての好奇心を刺激するが、ハデスはうんざりとしたような顔をしてティーカップの中の紅茶を誤魔化すように口にした。
「甘くないんですか」
「...甘すぎる」
じゃりっと音がしたことに砂糖がまだ溶けていないのかとハデスは思いつつ呆れ返る、その甘さはまるで毒でありながらも、逃れらぬ蜜でもあるとも感じながら。
◇◆◇
それは数百年前のこと。
冥界には似つかわしくない初心な愛と混沌が存在した。
一人は冥王ハデスの友人であり蠅の王ベルゼブブ、もう一人はハデスの友人の娘であり彼のメイドであった黒山羊の悪魔の血を継ぐバーモット。
呪いと苦しみを抱えた二人は互いに似た性質を持ち、互いを主従として生きていく中に小さな恋を芽生えさせ、そして結ばれた。
黒山羊の悪魔バフォメット、それは冥王ハデスでさえ時に苦しめ(頭痛的な意味)時に震えさせ(胃痛からくるもの)時に泣かせて(始末書などで)するような、まさに混沌を運びし悪魔(神)であった。
バフォメットは混沌と静寂、死と生、全ての相反する混沌を好む存在であり、天界・冥界をあわせた神界屈指の頭脳と能力を持ちながらも厄災のような存在であった。
歩くだけで人々を狂わせ、狂わされた者たちは性と愛を求めるカオスを愛する存在となり、そんな悪魔の友人という名の後処理をさせられ続けたハデスは神々からも尊敬されるような神界の長男とも言われていながらも、あの存在にだけは自分などんな地位も肩書きも意味をなさずに振り回される人生であった。
そんな悪魔バフォメットが落ち着いたのは真実の愛をみつけたからだった。
ある日地上界でみつけた人間の女性に恋をしたバフォメットはすべての愛をその者に捧げ、かつての混沌を抑えたバフォメットはその人間との間に美しい一人娘を設けた。
目に入れても痛くない(物理)としてかわいがった一人娘バーモットは父の多大なる教育を受けた結果、規律こそが全て、シスターやメイドという存在こそが至高であるという考えに至り、バフォメットの血を引く身でありながら冥王ハデスに仕えるメイドとなった。
そして月日は流れ、現れたベルゼブブという死にたがりの神に手を焼いたハデスは死にたくても死ねず、愛するものを傷つけるサタンの能力を持つベルゼブブと、生と創造をもつバフォメットの能力を持つバーモットを引き合わせ、二人は自然と恋に落ち、そして深く静かに愛し合った、それはもう長い年月を掛けてもので、バフォメットを知るハデスからしてみればそれは永遠にも感じるほどに長く初々しく初心な愛の創造であり、微笑ましく感じた。
そんな二人が時間を重ね、主人とメイドであり恋人という関係からさらに一歩を進めてついに夫婦となり、さらに数百年の月日を流した。
バーモットの父であり相当な親バカバフォメットは常々子供はまだかと落ち着き無くしているのをハデスは「二人の歩みなんだ急かすな」といって、二人の幸せを見守り続けていた頃、ある日ハデスの王座の前にベルゼブブとバーモットは手を取りやってきた。
「それで?なんの用だ、態々この場に来るというのであればなにか特別な頼みでもあるのだろう」
なにか新たな実験でも始めたいのだろうかとハデスは思った頃、ベルゼブブはかつての絶望と死だけを望んだ瞳ではなく、希望と未来を小さく抱いた瞳でハデスに頼んだ。
「僕らに”創造の承認”を頂けませんか」
”創造の承認”
それは天界・冥界において神々が新たな生命を宿す時の承認書であり、それを発行出来るものは主神のみ。近年人類が進化をしてきたように神々も進化を続けた、神というのは人の信仰から生まれる者や神々が創造して生まれる者がいた。
しかし近年地上界における人間の増え方同様に神もまた増えており、ハデスたちが全盛期の頃のような自由を続ければ神界は神でさらに溢れかえり、地上界は混乱を招くとされており、数万前より承認式になったのであった。
もちろん、それ相応の理由やその者自身の評価などを含め、主神が評価をして許可をするがハデスは王座で深い色をしたワインを飲みながらベルゼブブに笑った。
「あれほど死にたがっていた者が創造の許可を求めるか」
「ハデス様...私からもどうかお願い申し上げます」
「バーモット...お前もあれほどその血に苦しんでいたというのに残したいと願うのか」
ベルゼブブは自分の死を望み。
バーモットはその血に苦しみ。
二人は自分たちの遺伝子を残したがらないとしても不思議ではないとしていたが、反対に望むということを聞いたハデスはグラスを置いては微笑んだ。
「当然許可しよう、申請書はあるのだろう?」
「はい、ここに」
「ふむ、理由も妥当だな...まぁお前たちであればなんでもいいのだがな、まぁ精々あのオヤジ(バフォメット)に邪魔されないように励むがいい」
防音が必要なら用意させようというハデスに二人は少しだけ頬を赤く染めながらも、結婚後ハデスの城の中に建てた小さな家の中で愛し合い、そしてバーモットは見事に懐妊し、そして娘を宿した。
「あぁなんと愛らしいんだ」
ハデスはバフォメットの娘として幼い頃から知っていたバーモットが母になったことを心から喜び、ベルゼブブや彼女の父バフォメット同様に過保護に接して守ってやり、そして十月十日の日を過ごした後、予定通りに生まれた赤子に会いに来て欲しいと頼まれ、大量のプレゼントを用意しながら会いに行った。
赤子はバーモットの腕に抱かれ、妻バーモットを守るようにベルゼブブは彼女の肩に手を置いてすっかりと父親の顔をして娘を抱いていることにハデスがすぐに天界一の画家を呼んでは三人を描かせ、写真家に撮らせてとしつくした。
そんなハデスは二人にとって恩人であり、なにようにも代えがたい存在であり、バーモットはハデスに娘を抱いて欲しいと頼み差し出した。
「ナマエでございます、ほらナマエ、ハデス様ですよ」
「懐かしいな、最後に赤子を抱いたのはいつぶりか...ゼウスを思い出す」
長兄として数多の子供の面倒を見てきたハデスだが、今ではもうすっかりと冥王として職務をこなしており、このような小さな命を抱くのはいつぶりだかと思えた。
二人の娘ナマエはとても愛らしく、ベルゼブブの黒い髪や白い肌を引き継ぎつつもバーモットのような愛らしさも持っていた。ほどよいミルクの香りのする赤子は眠っており、ハデスはあまり抱き続けるのも悪いとその腕から返してやり、ナマエの頬をもう一度だけ撫でようとする頃、ハデスの指を赤子はとても小さな手で握った。
「ナマエもハデスさんが好きなんだね」
「やめてくれベルゼブブ、嬉しくなってしまうではないか」
「ふふっこんなに指を握っちゃって、きっとナマエもハデス様が好きなんですわ...あら、目が開きましたわね」
微笑ましく大人三人が微笑む時、赤子の閉じた瞳が開くなりじっと静かにハデスをみつめた。
その瞳を三人はよく知っていた、黄金のその瞳はまるでハチミツのようにドロリとした色を宿し、ハデスをみつめるその瞳孔がぐにゃりと歪み山羊のような横長の瞳孔になろうとしたとき、ベルゼブブはそっと娘の目を閉じた。そしてハデスとベルゼブブは顔を見合わせた。
「ハデスさん指を離しください」
「いや、離したいんだが、力が強くてだな」
「そんなわけ...ッなんだこの力、ナマエ離すんだ、ハデスさんの指が壊死しそうだ」
「ベルゼブブ様、ハデス様...ナマエに角が」
赤子の力とは思えぬほどの力でハデスの指を握るナマエにベルゼブブが慌てれば、赤子を抱くバーモットは娘の柔らかな父親似の黒髪から小さく山羊の角が伸びているのがわかり。
三人は絶句してしまう、それはまごうことなきバフォメットの血を継ぐ者であるという象徴。三人はそれぞれ顔を見合わせた後、腕の中の赤子を見ると彼女はハデスをみて無邪気に笑った。それはまるで獲物をみつけたかのように、黒山羊の悪魔の愛を宿したように。
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