次の日の朝。
 瑠黄は昨日の仕事上がりに古書店で漁った法学書3冊と、昼食の弁当を手に、自分の城へやって来た。朝一番、黄河には霧が立ち込めていて、対岸は白の向こうだ。仙人の世界へ迷い込んだような気分になる。
 昨日満寵に貰った鍵を手に扉の前へ立ち、錠前を確認する。なるほど、錠前が新しくなっている。これを満寵が作ったというのか。錠前は鋳型が無ければ作ることができないのでは。考えれば考えるほど満寵が何者なのか分からない。とても不思議だ。彼は本当に軍師なのだろうか。どきどきしながら錠前に鍵を差し込んで回す。錆びつきの無い同士はすんなりとかみ合って回った。なんだか感動する。
 家に入って扉を閉める。内側にある閂も新しい木になっていたし、木を支える鉄製金具も新品だ。古い家に対して、そこだけ真新しいピカピカの加工木材に、赤い錆びつきのないツヤツヤの鉄。これも満寵が削って、折り曲げて、と、作業をしたのか。ありがたいと思い手を合わせてから閂を掛けた。錆による凹凸が無い分、今までよりすんなりと木の棒が収まった。

 これは何かお礼をしなければいけない。
 相変わらず満寵が持ち込んだ作業台の上は散らかっていて、竹紙や竹簡やいくつかの太さの筆やかよく分からない工具で山が出来ている。比喩ではない、本当に山が、なぜか出来ているのだ。それと、まんべんなく木の切りくずが散らばっている。壁際にある満寵持ち込みの棚に、よく分からない模型……多分罠の模型と思われるものがあるので、それを創った際に出たものなのだと思う。きちんと片づけないところが彼らしいというか。普段の満寵を知っているお蔭で、この無法地帯に腹を立てなくて済む。多分他の人だったら怒っている。

 別荘の内部はなんとなく2分割されていて、満寵の空間の方が少し狭い。満寵とは招待した初日以来ここでは会っていないが、お互いになんとなく区切りを意識していた。
 瑠黄の空間は整然としている。まだ物が少ないからそう見えるだけだ。……満寵は家主よりも物を持ってきていて、既に居心地の良い空間を形成している。よほどここが気に入ったのだろう。

ごんごん

 さて本を読むか何をしようかと考え始めたところで扉が震えた。鍵はしっかりしているが、扉は元のままボロボロなのでよく震えた。ガラスの向こうに満寵が見えた。今日は平服姿である。瑠黄はわっと目を輝かせ、すぐさま閂を抜いて満寵を出迎えた。

「満寵様!」
「やあおはよう。鍵の様子はどうかな?」
「とても良いです!しっかりしていて、新しいから使いやすくて!本当にありがとうございます!」
「それは重畳。家主に何かあっては困るからね。今日は私も暇があるもので、ここに作業をしに来たのだけど……ご一緒してもよろしいかな?」
「もちろんです。」

 扉を大きく開くと、外の爽やかな風が舞い込んできた。元々閂の具合を確かめたくて扉を閉じていただけだったので、せっかくの緑風を浴びるために扉は開け放しておこう。日がしっかり差し込んでいて、とても良い感じだ。

「いやあ、朝から荀攸殿のお小言を浴びてしまったよ。今日は釦のない服装だったから、荀攸殿と会っても問題ないと思ったのだが……紐帯が縦になっているから直しなさいと。」
「……言われたけど、直してはいないのですね。」
「ああ、後でやるからと言って逃げてきたんだ。」
「直さないとお家に上げませんよ。」
「それはいけない。」

 満寵は慌てて紐帯を解き、丁寧に結び直した。手間取る様子はなく、ごく自然に正しい結び方に直している。なぜ普段からそれができないのか。瑠黄は、もう少し親しくなったら訊いてみたいと思った。

「これなら良いかな?」
「ええ、素敵です。」
「そうかそうか。」

 満足気にお腹を叩き、満寵は作業台に向かった。木屑は気にせずその上に竹簡を広げている。……これは生真面目な女官なら怒りそうだ。木屑が竹と竹の間に挟まってしまっている、ああ、これには瑠黄も声をかけずにはいられない。

「満寵様、その……机の上の木屑、掃除させていただけませんか……。」
「ん?ああ、これかい。ちょうど竹簡が斜めになって落ち着かないと思っていたんだ。一緒に片付けてくれるのかな?」
「もちろんです。」

 本人も気になっていたのか。そこで「ならば片付けよう」とならないのが満寵らしい。やれば後が楽になる作業より、目先のやりたいことを優先する性格は子どもっぽいと思った。呆れるよりもさきになんだか可愛いなと思えてよかった。
 満寵は広げた竹簡を持ち上げて、がたがたと音を立てて震わせる。まだ挟まったままの木屑があるにもかかわらず、彼は竹簡を丸めて机の隅に置いた。瑠黄はまた声をかけたい気持ちになったが、そこまで親しくない軍師殿には何度も小言を言うものではないと堪える。
 木屑を手で払い床に落とす。満寵も一緒に机の上を撫でてくれた。床に落ちた木屑は、床の誇りと一緒に箒で掃いて、開け放たれた扉から外に落とした。これですっきり。振り返ると満寵はさっき丸めた竹簡を開き直し、そこから落ちた木屑に気付くとそれを拾って机の隅に寄せ、また竹簡を広げて落ちた木屑に気付いてそれを机の隅に寄せ、と、まるで自分の尻尾を追いかける子犬のようなことをしていた。
 その後やっと落ち着いて竹簡を広げた満寵は、大きな独り言を呟きながら作業に没頭し始めた。


 男の人と2人という空間に緊張しないでもない。しかし満寵は自分のことに没頭していて、家は扉が開いて開放的。だから今は特別気にしないで、瑠黄は自分も本のことを考えることにした。
 瑠黄は城の人事の仕事をしている。城で働く人たちの仕事内容であるとか、給料、不祥事、悩み相談、なんでもやっている。仕事柄歳上や偉い人にも物を言わないといけない場面が多いわけで。そういうことがあるから瑠黄は目上歳上から妙な圧をかけられる時がある。しかし今はそんなことなど思い出しても遠くの出来事のようで、まるで他人事のように思える。なんて良い空間なのだろう。

「いい天気だ。」

 ふと本から顔を上げた時に見えたのが青い空だったので、瑠黄は誰かの耳に入るかもなどと考えずに呟いた。日はてっぺんにあって見えないが、そのおかげで雲ひとつない空が本当に青だけに見えた。何か茶色い鳥がすいーっと飛んで行った。のどかだ。

「いい天気だね。」

 瑠黄からは満寵の背中が見えている。彼は目を瑠黄と同じく外に向けていて、頬杖を付いていた。手には墨が擦れた跡が見える。
 反応が返ってくると思っていなかった瑠黄は素直に驚いていた。

「き、聞こえてたんですか。」
「うん。」

 満寵は椅子に横坐りになって扉にヘソを向ける。背もたれに肘をついて寄っ掛かり、大きくあくびをした。

「眠くてね。」
「頭を使いすぎたんですか。休憩しますか?」
「そうだなあ……休憩しよう。」

 彼は椅子から立ち上がり、出入り口の段差に腰掛けて黄河を眺めた。はあぁ、と大きなため息をついて背中を丸めている。何か行き詰っているのだろうか。
 瑠黄は2つの湯呑にお茶を入れて、1人で食べようと思っていた饅頭2つと一緒に盆に載せ、満寵が座っている横に置いた。満寵は視界の端にそれが入ったのに気付き、ちらっと盆の上を見る。そして瞼を開き、瞳をきらきらと輝かせた。

「私にも?」
「はい、甘いものを食べればきっとすっきりしますよ。」
「ありがとう!」

 満寵はありがとうの言葉とほぼ同時に手を伸ばして饅頭を掴んだ。よほど甘いものを口にしたかったらしい。瑠黄が座る頃には、半分が満寵の口の中に収まっていて、なんとも幸せそうに目を細めていた。瑠黄も盆を挟んで満寵の隣に腰掛け、饅頭の5分の1を口に含んだ。美味しい。貴重な蜂蜜をふんだんに使った高級品だ、美味しくないはずがない。もう一口と食みながら横目で見ると、満寵の手にはもう何も残っていなかった。彼は湯呑みを掴み、これまた幸せそうにお茶をすする。菓子とお茶でここまで満足そうにされると、出した甲斐があるというものだ。

「そうだ、難しいことはせず、火をつければいいんだ。」

 和んでいたはずなのに、どうしてそんな物騒な話が出た。満寵は机の上から竹簡を引っ張って傍に落とし、手の届くところにあった筆を掴んで何かを書き始めた。

「……火をつけるとは。」

 まさかここのことではないと分かっているけれど、気になるので口にしてみる。

「ああ、もちろんこの家ではないよ。新しい罠を考えているんだ。開けた土地にやってきた敵の軍をどうやって追い払うかっていうね。」
「それで火をつけると……。」
「ああ。火矢で一斉にね。」
「塹壕に隠れて、ですか?」
「そうそう!開けたところだと、火薬を詰めた箱も置けないだろう?なら直接火をつけた方が圧倒的に楽だ。」
「積み荷に、ですよね?」
「どうだとおもう?」

 にやっと笑う満寵。多分人にも火をつけるんだろうなと瑠黄は悟った。
 瑠黄も饅頭を食べ終え、あまり膨れているわけではない腹を慣習の一部として撫でた。朝食は消化されつつあるのか、胃に余裕がある。

「ああ、話しながらの思索はいいね。いつもより考えがまとまるよ。」
「わたしは横であれこれ水を差しているだけですよ?」
「水を差す、なんていうけどね、なにかをつぶやいたときに返事があるというのは、独り言で完結するよりずっと効率がいいんだよ。」
「そういうものなんですか?」
「そう。だから私が何か言った時には返事がほしいな。……君が自分の作業の邪魔だと感じないときには。」
「では積極的に返事をしますね。満寵様の作業がはかどることは、結果としてわたしの仕事が楽になることにもつながりますから。」
「これは大きく出たなあ。」

 あながち嘘でもない。満寵の策で戦に勝つことが出来れば、戦利品で国庫が潤う。そうすると城で働いている人の給料が高くなって、瑠黄への当たりが優しくなる。幸せな循環だ。
 満寵は両手を添えて丁寧に湯呑を返してくれた。彼は作業机に戻ると、さっそくぶつぶつと呟きながら竹簡に向かった。瑠黄も本に向かいなおして、時々満寵の言葉に相槌を打ち、穏やかな休日を謳歌した。




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