某年、4月。
私、灯木飛鳥は頭上でなるアラームを叩きとめた。
午前8時。イマドキの女子中学生にはあるまじき某進学講座の赤いキャラクター目覚ましは長年振るわれた右手によって所々へこんでいる。昔まんまとご褒美商品に釣られ、母親にねだり倒して始めたが、あれから6年たった今でも現役で活躍していることを考えれば、テキスト代も無駄ではなかったのかもしれない。
「……ねむ……」
ひとつあくびをして、布団から這い出た。もぞもぞと働かない頭のまま支度。布団をたたむのが一番の重労働で、押し入れに治すのが毎度億劫だ。放置していれば孫に甘いおばあちゃんがやってくれるのだが、先日ぎっくり腰になったことを考えると、とてもそんな気にはなれなかった。むしろ率先して力仕事を受け持てと家族会議で命じられたばかりだ。
午前8時40分時。顔を洗ってさっぱりした私は、お母さんが準備してくれた朝ごはんを食べた後、同じく机の上にのせてある弁当を持って家を出た。
午前8時45分。HRの五分前だ。この時間に表門をくぐると生活指導の厳しい先生からお叱りを受けるので、裏から入った。
ここ、氷帝学園では登下校はほぼ車。それも高級車である。外車と黒塗り率が異様に高い。
残りの少数の生徒は私のように近所に住んでいる生徒だ。この辺りの地価は学園ができてから跳ね上がったので恐ろしく高い。学園ができる前(正確にはここに建て替えられる前)からこの近所で薬局を営んでいた我が灯木家も、私が学園を卒業したら土地を売って別の場所に新築する予定である。
裏門は閉じているので入れないが、格式高いレンガとフェンスの間にひとひとり通れるだけのスペースが空いている。たぶん、フェンスを越して外に出てしまったボールを獲りに行ったり、ロードワークのときに通ったりするためのものなのだろう。上方から監視カメラが回っていて、セキュリティ的には問題ない。
そんなこんなで本鈴と同時に教室に入った。教室は無人である。先生はもちろん生徒のひとりもいない。なんなら金魚もカブトムシもいなかった。
キーンコーン、と、無駄にちょっと上質な音のチャイムが鳴った数分後のことだった。
「おはよう、良い朝ね」
これまた上品なお声がした。教室前方の扉から顔を出している彼女は奈良坂名取、ひとつ上の学年の先輩である。
「おはようございます。名取先輩」
誰と言われたわけではないが、ここには私しかいないので迷わず返事を返した。
「今日は早いわね。朝、裏から来る上から見てたわ」
「昨日は面白いテレビなくて、早く寝たんです」
「でもその割には眠そうね」
「月曜日っすからねえ」
「ふふ。そうね。……あ、もう行かないと。それじゃ、お昼にまた来るから」
日に透けるさらさらの長髪を揺らしながら、爽やかに微笑んだ先輩は、きちんと扉を閉めてから去っていった。
奈良坂名取。この教室を訪れる数少ない人間の一人だ。
他には一応、担任である教師。1日に一度やってきては出席だけ取って去っていく、形だけの教師だ。すかしてそうな外見とは裏腹に熱心なひとで私とは折り合いが悪く、お互い必要以上にかかわらないと暗に決めている。
それと名取先輩と同じくひとつ上の男子生徒。名を芥川慈郎という。彼とはここではないお気に入りのお昼寝スポットで出会い、それ以降なんだかんだ交流がある。部活をさぼりがちな彼はこの教室を格好の隠れ家にしているのだが、いい迷惑だ。それ見透かしを回収しに来る最後のひとり、樺地くんのことを少しは考えてあげて欲しい。彼は本当に苦労人だ。芥川さん曰く、樺地くんをもっと扱き使っている人がテニス部にはいるらしいのだけれど。
ともかく、この教室を訪れるのはその4人だけ。
太陽が徐々に昇ってきて、私の机を照らした。眩しさと温かさに彼の金髪を連想しながら、再び本を読み始めた。
午前十二時。正午を少し過ぎた頃、言葉通り名取先輩がやってきた。
「今日は何を読んでたの?」
「ミステリー小説です。この前本屋で見つけて、タイトル買いしました」
「あら、珍しいわね。前にすぐに犯人が分かるからあまり好きじゃないって言ってたじゃない」
「まぁそうなんですけど……。これ登場人物同士の掛け合いがおもしろいくて、そっちをメインで読んでます」
「ああ、飛鳥ちゃん、お笑い好きだものね」
納得して手を打つ彼女に頷いた。
お笑いが好きだと言うと、いつも意外そうな顔をされる。
達観して見えるらしく、そういうのを馬鹿にしてそうと言われたことがある。私の頭が良すぎるがゆえの誤解である。というか高学歴お笑い芸人とかいるくらいだし、学力とお笑いに関連はないと思う。
「今度それ、貸してもらっても?」
「もちろんっす」
先輩の申し出を快諾してから、あ、と思った。
「……読む時間あります?」
先輩は多忙だ。
生徒会副会長とテニス部マネージャー、更にはテニス部のファンクラブ会長まで兼任しているのだから、生徒会長の跡部景吾よりも忙しいかもしれない。
さまざまな肩書をもつ先輩だが、その三分の二は自ら進んで得たものではなかった。
跡部景吾率いる男子テニス部が女子からの人気を集めているのは周知の事実だ。……その事実ですら先輩伝手にしか知ることのできない私のコミュニティの狭さはともかく、その熱狂ぶりは異様なほどだった。
それが練習に支障をきたすと判断した当時一年生にして生徒会長だった跡部景吾はファンの統率を図るため、まずファンクラブを公式のものにした。それから跡部自ら当時の最上級生の女生徒をファンクラブ会長に指名し、規律をつくり、管理させたらしい。そして初代会長の卒業と同時に、当時生徒会書記だった先輩が二代目となったのだ。
先輩は就任当時二年生だったのだけど、名のある奈良坂家の令嬢で家柄も申し分なく、先輩自身も文武両道才色兼備と非の打ちどころなく、性格だって私のような逸れものにさえ良くしてくれるぐらい最高だ。跡部景吾も優秀らしいが、先輩曰く横暴らしいから、先輩の方がよっぽど完璧だ!
「大丈夫。最近新しいマネージャーが入ってね。少し余裕ができたの」
先輩は嬉しそうに言った。なんと、それは初耳だ。
「おお!」
私は思わず感嘆した。テニス部のマネージャーになるのは氷帝高等部への外部受験以上の鬼門と言われているのだ。まずは仮入部の形でテストするらしいのだが次のステージに進めるのがたった1%弱らしい。……倍率以前にいくら氷帝がマンモス校でも一部活のマネ希望者が100人以上いるのは異常だ。
「弥生ちゃんていうんだけどね、すごくいい子なの。これで少し楽になるわ」
「名取先輩は働きすぎなんすよ!」
先輩の彼氏もきっと気が気じゃないに違いない。
「そうね、いっつも心配してるわ。優しいんだけど、少し過保護なの……」
仕方ない、というように頬に手を添えているけれど、その口元は緩んでいる。
幸せそうな名取先輩を見ていると私もうれしくなってきた。
「じゃ、1巻明日もってきますね!」
先輩は割と捻くれた読み方をするので、感想を聞くのが楽しみだ。
先輩は昼休みの中ごろに、生徒会の用事があるからと去って行った。
多忙なスケジュールの合間を縫ってぼっちな後輩を気にかけてくれる麗しい先輩である。
と、名取先輩の素晴らしさの余韻に浸っていると、教室の窓が開いた。
「飛鳥、おはよ〜」
「もう昼っすよ、芥川さん。つーかベランダ伝いじゃなくて普通に来てくださいよ……」
「A〜、だってわざわざ回ってくんのめんどうだC」
この教室は他の教室棟から孤立していて、数棟ある特別棟のうちのひとつのその片隅にある。要は扱いに困る生徒を隔離しているのである。日の当たる良い場所だ。そのせいで芥川さんのお昼寝スポットになってしまっているのだけど……。
当の彼はというと、このやり取りにはもう飽きたのか、堂々とロッカーに詰められているクッションを取り出した。あのクッションは手触りもいい上に清潔で、私もお気に入りだ。定期的に洗っているのだ。樺地くんが。どこかで寝ていたのか目が虚ろだ。テンションも低い。
「つーかもしかして、名取先輩が居たとき、外居たんすか?」
芥川さんの髪が寝ぐせでなく、風で煽られたような癖がついていたので聞いてみると、
「おやすみー」
彼は答えずに、机が少なく開放的な教室の床に寝っ転がった。床もちゃんと掃除している。樺地くんが。
「まったく」
私は立ち上がって、やはり樺地くんによって綺麗にされている薄手の毛布をロッカーから引っ張り出すと、芥川さんに寄りかかって本を開いた。毛布は私の膝の上だ。
「授業出ないとまた成績落ちますよーだ」
「飛鳥に教えてもらうからだいじょーぶ」
ダイジョウブじゃないし、まだ寝てなかったのか。
放課後になって、外から運動部の声が聞こえだすと、ガラリと教室の扉が開いた。扉の奥には中学生とは思えないほど成熟した体格の同級生がいた。
ぺこりと僅かに頭を動かしてから、ぬっと教室に入ってくる。
私は芥川先輩の上に載せていた頭を起こして、胡坐をかいた。
「いつもお疲れ様っす、樺地くん」
「……ウス」
樺地くんは芥川さんを軽々担いだかと思うと、テキパキと片づけを始めた。私がもう帰ることを知っているので、芥川さんの尻の下に巻き込まれていた毛布も片手で器用に畳んで所定の位置に戻した。慣れたものだ。
私が彼の動作をじっと見ていると、樺地くんはナチュラルに机に放置されていた私のカバンを芥川さんを持つ手と反対の手で持った。そして私を見る。私も樺地くんを見ていたので、当然目が合う。……女の子扱いには、慣れるそうもない。
「中身なんて本くらいしか入ってないんすけど」
そう文句をつけてみたものの彼に通じないのはもうわかっている。胡坐を解いて、彼の持つ鞄に今まで読んでいた本を放り込んだ。一度その手から奪おうと足掻いてみたことがあるのだが、余裕綽々で上に持ち上げられ、手も足もできなかった。自慢の頭脳を回転させて策を講じてみたところ、抱えられていた芥川さんが落ちたので、もう抵抗しないようにしている。
一階に降りたところで彼らとはお別れだ。彼らはテニスコートに、私は玄関に行く。
「ありがと。がんばってください」
樺地くんにお礼を言って、いまだ夢の中にいる芥川さんともども激励して、私は帰路に着いた。
裏門からのんびり歩いて5分、走ればその半分の時間で学校に着く。氷帝は校内に小さな森があるくらい大きいので、正門から出入りするとなると倍以上の時間がかかる。それに多くの人と車が行き来するので自然裏門を使うことが常だ。
「ひょうて――」
「ファイオーファイオーッ」
気合の入った運動部の掛け声を聞きながら、ぽてぽて殊更ゆっくり歩くのが、私の日課だ。
部活動。集団行動。
私には無理だなと思いつつ、ちょっとだけ羨ましく思う。
けれど贅沢は言わない。そもそも入学当時は一人で三年間過ごすだろうとさえ思っていたのだ。
天才に孤独はつきものだから。
それがどうだ。名取先輩、芥川さん、樺地くん。日常的に話す人が3人もいる。
これを幸せと言わずしてなんというのだろう。
「青春っすなー」
独り言ちて、やや赤みを帯びてきた太陽光に目を細めた。