三門市立大学医学部を卒業後、市立病院に勤めていた私に転機が訪れた。
「ボーダー……ですか?」
界境防衛機関、通称ボーダー。その存在は知らない者はこの三門市にひとりもいないだろう。彼らのお陰でここに住み続けることが出来ているといっても過言ではないのだ。
しかし実際に働いている姿を直接的に見たのは一年と少し前の大規模侵攻のときと嵐山隊くらいだ。ぼんやりとした有難みは感じているものの、イマイチ一機関としての認識は曖昧だ。
だから、そこで働かないかと言われても、ほとんどピンとこなかった。
「この前の市議会でボーダー内に医師を置くことになってな。試験運用だし、仮設ではあるんだが……」
「はあ。……お言葉ですが、そんな大事な役割、新米の私よりも適任者がいると思います。それに私、外科じゃないですし、戦場で役に立つとは思いません」
戦場というのも不思議な感じだ。なんにせよ戦場で役に立つ専門が外科かどうかもなんとなくでしか推測できない私の出る幕でないのは間違いないだろう。とりあえず断る方向で頭をまとめていると、私の指導医がけらけらと笑った。
「まあ、内部事情を知らなけりゃそう思うよな。俺も院長にそう進言したんだが、どうもボーダーって機関の実情はイメージと違うらしい」
「と、言いますと?」
「俺も詳しいことはぼかされたんだがな。まず実際生身の肉体が傷つくことはそうないらしい」
どういう原理かは知らんが、と注釈を入れつつ、彼は続けた。
「どっちかっていうと戦闘員よりかはエンジニアの健康管理の方が深刻なんだそうだ。それから精神面な」
「健康管理に精神面……ああ、なんとなく私が選ばれた理由が分かりました」
大学のときにとったカウンセリング関係の資格だろう。専門家には及ばないものの、医師と兼任できるには越したことがないという考え方だ。
「まあ、それもあるな」
「それも?」
彼が歯切れ悪く頷いたので追及してみたところ、「セクハラで訴えてくれるなよ」という保身の一言を挟んでから、やや気まずそうに言った。
「エンジニアっつったら結構な男所帯だろ」
「あー、そういうことですか」
私というだけで残念な感じがするが、20代の女医というステータスは確かに魅力的かもしれない。しかも独身。
気を遣ってくれたのはありがたいが、私はここで男女差別だと怒るほどの平等主義ではない。差別が良いというわけではないけれど……と、こういうのを話始めたら切りがないので置いておこう。何はともあれ、理由がはっきりしてスッキリした。
「そうですね、理由ありきで指名されたのなら私が適任なんでしょうし……ひとつだけ確認させてください。所属はこちらの病院のままですか?」
「ああ、籍は置いておく。派遣扱いだな」
「わかりました。そういうことでしたら務めさせていただきます」
それからいくつかの点を確認しつつ、転勤にしては中途半端な時期に、私はボーダーへと飛び立っていった。

真正面にとても堅気とは思えない男の人が鎮座している。実際、防衛機関のトップなんて私からすれば堅気じゃないようなものだ。傍に座るそれぞれの部門の代表たちが堅苦しい雰囲気を助長している。
正直内心震えが止まらないが、いち社会人の意地で私はピシッと頭を下げた。
「甲斐今日子です。よろしくお願いします」
「ああ、よろしく頼む」
頭を上げると一番偉い人にスッと手を差し出されたので、遠慮がちに握っておく。心情的にはこのひとの部下の部下の部下くらいが適切なのだけれど、肩書だけだと三門市から派遣されてきた医師なので直接的な上下関係はないのだ。例えばここに来たのが大ベテランの医師だったとしよう。ほら、この情景もあんまり違和感がない。
「これで静かになるといいが……」
思わずと言ったように小さくこぼしたのはこじんまりとしたおじさんだった。私が極度の緊張状態で五感過敏になっていなかったら聞き逃すほどの小さな声なので、本当に漏れただけなのだろう。
部屋を退室するときにちらりと伺ってみると目元に遠くからでもわかるほどクマができていて、もしかしたら先輩がいっていたエンジニアのひとかもしれない。部屋の中で一番それらしいのは確かに彼だ。
エンジニアのトップがこれなら、下っ端はもっと酷いのだろうか。かえってトップの方が心労がすごいのかもしれないが、とにかく任されたからには頑張らないとなと思った。
「では、案内します」
そういって先導してくれたのは同年代か少し下くらいの女性だった。落ち着いた物腰で柔らかな印象を与える彼女の第一印象は良い。黒髪がさらりと流れる姿に、果たして私が女性成分補充できるのか心配になった。
「こちらにボーダーの内部用の概要が入っています。部外秘なので口外は禁止です。お気を付けください」
歩きながら渡されたタブレットを受け取り、内心首を傾げた。
「あの、部外秘って私が見てもいいんでしょうか」
繰り返しになるが私はあくまで派遣員だ。部外にあたるんじゃないだろうか。
「医療行為や生活に不便ではないよう、ある程度の情報が開示されます。こちらは正隊員レベルの情報です」
「そうですか、ありがとうございます」
なるほど、これはあとでじっくり見ることにしよう。
「まずは私室の方から行きましょう」
「はい」
生活だの私室だので薄々お気づきかもしれないが、私はボーダー勤務に当たり、この基地内の宿舎を一部屋借りることにしたのだ。想定される基本業務は緊急性が低いが、いつ何があるかわからない。いつでも対応できるようにという措置だそうだ。
賃貸アパートひとり暮らしの私にとっては都合がよかったし、何といっても食事付きである。喜ばしい限りだ。
部屋へ案内されてひとまず入ってみると、広いとまではいかないが中々快適そうだった。実用性重視。素敵だ。
送ってあった荷物から仕事用のバックを取り出してから部屋を出る。
「では、保健室に行きましょうか」
「はい……ホケンシツ?」
確か書類にはもっと堅苦しい名前で書いてあったはずだけれど、と思いきょとんとして彼女を見ると、はっとした彼女が口を押えていた。
「し、失礼しました」
「あ、いや、別にいいんですけど……」
言い間違えかな、と思っていると、彼女が恥ずかしそうに言った。
「実はボーダーは学生の割合が多くって、保健室みたいだなと思っていたんです。それでつい……」
恥ずかしそうに俯く彼女は失言のせいでガードが緩んだようだった。同年代の同性。新天地では貴重な人材だ。ぜひ気軽に話せる中になりたい。私情を抜きにしてもカウンセリングの一環にしても距離は詰めておいて損ではない。
私はすかさず笑顔を浮かべ、歩き出しながらフォローした。
「大丈夫、気にしてませんよ。堅苦しい名前よりも気軽に来れるかもしれませんね」
「確かにそうですね。学生には親しみのある呼び方でしょうし」
「ふふ、今度提案してみましょう。そういえば、お名前聞いてませんでした」
「あっ、失礼しました。防衛隊員の沢村響子です」
ピッと戦うひとらしく敬礼をしてみせた彼女に私も頭を下げた。
「改めまして、甲斐今日子です。沢村さんは学生さんなんですか?」
「はい。大学生です」
「私よりしっかりしてるのに……。そういうのってやっぱり年齢は関係ないんですねえ」
「とんでもない。私なんてまだまだです」
エレベーターの中で彼女が手を振る。良い感じだ。
「大学は三門市立?」
「はい、先生はどちらですか?」
「私も市立です」
……といっても、今とは場所が違うが、今はそんなことはどうでもいい。
「先生は今おいくつ何ですか? 私は今年で22なんですが……」
「今26です! ということは、一時期同じ大学に通ってたんですねえ」
「不思議な縁もあるものですね」
「そうですね。ふふ、同じ母校の好で仲良くしてくださると嬉しいです」
顔はもちろん心も綺麗そうな彼女に及ぶべくもないが、精いっぱいの笑顔を浮かべて微笑んだ。
「はい。こちらこそよろしくお願いします」
やはり綺麗な彼女は幼さの残る可愛い笑顔でふわりと笑った。
そのあと敬語でなくて構わないと言われたので、承諾ついでに私は彼女を沢村ちゃんことにした。

改名、保健室に案内された私はさっそく部屋のカスタマイズを始めた。実働は明日からなので、今日中に済ませたいところだ。案内してくれた沢村ちゃんには彼女は彼女でやることがあるだろうと送り出し、今は一人で作業をしている。
ひとまず最低限の準備だ。
手術や調剤をするわけではないので器具や薬品や多くない。薬棚に並べられた薬品をリストと照らし合わせながら確認していく。試験運用ということで、風邪薬なんかは市販薬だ。そもそも医師だけでは医薬品を扱えないのだが、いずれ薬局が併設されたりするのだろうか……。
一通り確認したところ、沢村ちゃんが言っていた通り、まさに保健室という感じだった。ジャストそれである。備え付けられているベットの個数が幾分多いくらいだ。
持ってきたバックから個人用の荷物を片づけていると、机の位置がずれているのか、壁側の棚も開けにくい。
しかし、見るからに重そうな机である。頑張って引きずれれば良いのだが。
うーん、と腕を組んで唸っていると、コンコンとノック音が聞こえた。沢村ちゃんだろうか。
「はーい」
返事をしながら振り返ると、からりと横開きの戸が開いた。ここの製作者はもしかするとまさしく保健室をイメージしていたのかもしれない。きっとそうだ。私がそんなことを考えているうちにノックをしたそのひとが顔を出した。
「失礼しますよ」
入ってきたのは先ほどの重々しい部屋に居た男性のひとりで、てっきり沢村ちゃんだと思っていた私は慌てて姿勢を正し近寄った。
「どうかなさいましたか?」
「ああ、沢村くんから部屋の整理をしていると聞いたもので、もし男手が必要であればと思いましてね」
笑みを浮かべる彼をやや胡散臭く感じながらも、グッドタイミングな人手に万歳したい気分だ。
「助かります。あの机を少し手前に動かしたいんですが、手伝っていただけますか」
「お安い御用です」
スーツの上着を脱ぎ腕をまくった彼に手伝って貰い机を持ち上げようとしたが、一向に持ち上がらなかった。正確には彼の方はいいのだが私の側がうんともすんとも言わないのだ。私が非力なわけではない。持ち上げる彼の腕力が強いのだ。
「持ち上げるのは、厳しいですね……すみません」
「じゃあ試しに押してみましょう」
「そうですね」
彼の側に回ろうとした私を、彼が手で制した。
「まあ、任せてください」
にこりと営業スマイルを浮かべた彼に従って見守っていると、宣言通りずずずと机が動いた。
「おお。……ああ、その辺で大丈夫です」
思わず感嘆の声が漏れる。静止を掛けると彼は他に仕事がないことを確認してから上着を羽織った。
「助かりました。力持ちなんですね。何かスポーツをされてたんですか?」
「大学時代にラグビーをね。……おっと、失礼しました」
「いいえ、年上の人に敬語を使われるのは慣れません。よければ気楽に接していただけませんか?」
「ではあなたも……と言いたいところだが、寧ろ気を遣わせてしまいそうだ。お言葉に甘えるとしよう。申し遅れたが、唐沢克己だ。営業部長を任されている。これからよろしく」
「ええ、よろしくお願いします」
手を差し出されたので握り返した。
「さて、俺も仕事に戻るとするか」
そう言った彼にもう一度礼を言ってから送り出す。去っていく彼の背中を見ながらふう、と一息ついた。
なんというか、懐に入るのが上手そうな人だ。営業と言われてものすごく納得した。これも営業活動のようなものなのだろう。ついさっき同じことをした身として複雑な思いを抱きつつ、私は保健室の表札を出すにはどうすればいいかを考え始めた。

改名の許可は私が何をするまでもなく、沢村ちゃんが取ってきてくれた。親しみやすさを理由にするとあっさり許可が出たらしい。さっそく私はボーダーから渡されたタブレットで表札を作り(と言っても文書ソフトの大きなフォントで保健室と打っただけだが)、共有の印刷機でガガーっと刷った。基本的にデジタル媒体なのだろう、アナログ派は肩身が狭そうだ。私がそうというわけではない。
すぐに出てきた紙切れを満足げに取り出していると、視線を感じて顔を上げた。いくつもの視線が私に向いていて、動揺する。新参者はやはり目立つのだろうか……。そう思いつつ、私はこれまでに培った医療用スマイルを浮かべた。営業用との違いはセラピー効果があることだ。嘘だ。
「新設されたボーダー内の保健室担当に配属されました、甲斐今日子です。明日からよろしくお願いします。……気軽に来てくださいね」
手持ちの表札になる紙を示しながら言ってから、小さくお辞儀をして踵を返した。
廊下に出てすぐに元居た部屋から歓声が上がった。驚いたが、少し安心した。良かった、自意識過剰でない限り役目を果たせる可能性が出てきた。
保健室に戻ってきた私は早速部屋の表札――表札表札言っているが、本当にこれを表札というかは知らない――を入れ替えた。それから百均で買った在室/不在のプレートを在室の方を表にして、鉄扉に張り付けたマグネットフックに張り付けた。大半の扉は自動なのに何故ここは手動なのだろう。製作者の趣味かもしれないし、患者への気遣いの一環なのかもしれない。どちらにせよ、私好みで結構。
「――あれ、タブレットどこだ?」
扉の前で満足げに頷いていたが、ふと馴染まない電子機器が手元にないことに気付いた。そして慌てた。いつからだ? 確か印刷のためにもっていって……。印刷機の上だ!
はっとした私は急いで元居た場所へ駆け出して、戻ってきてプレートを不在にひっくり返して、また駆け出した。
私がぱたぱたと小走りで印刷機の下へ戻る途中、最初の部屋に居たこじんまりとしたおじさんが前から歩いてくるのに気づいた。ペースを早歩きにして、そろそろ挨拶しようと身構えていると、おじさんが小さく手を挙げた。その手には見覚えのある馴染みのないタブレット。
「も、申し訳ありません、借り物なのに……」
慌てて深々と頭を下げると、頭を上げるよう言われた。おそるおそる彼を見る。こじんまりとしている、と思ったが案外大きい。私と同じくらいだ。これが遠近法と縦横比……。
怒られると身を固める私にタブレットを渡した彼は、意外にもアッサリした様子で頷いた。
「失くすと困るのは本人ですからね、今後ないようにしてください」
「はい。ありがとうございました。……えーと」
「ああ、本部開発室長の鬼怒田です」
「甲斐です。開発室長……ということはエンジニアの……」
「ええ。話が通っているようで、お恥ずかしいですがウチの馬鹿どもがお世話になります」
「いえ、こころの健康を支えるのも私の仕事ですから。……どちらかといえば問題は生活習慣の方でしょうか」
私が鬼怒田さんの目の下のクマを気にしつつ言うと、これまたお恥ずかしいと反省していないようすで頭を掻いた。
「どこまで干渉するかは実際に手探りで測るしかありませんが、何はともあれ力になれれば幸いです。タブレット、ありがとうございました」
長期戦になる予感をしながら、私は保健室へと踵を返した。
……まさかこのひとと言い争ったり酒を飲んだりする仲になるとは、このとき微塵も思っていなかった。
(あ――!! 鬼怒田さん、また寝てないでしょう!)
(寝る間を惜しんで作業せんと間に合わんのだ! 仕方なかろう!)
(あなたが休まないと他の人も休みにくいんですから、そうでなくとも睡眠はちゃんと摂ってください!)

back