控えめなノック音がして、いつものように「はーい」と努めて明るく返事をした。カラカラとボーダー内では貴重なアナログ音を立てて扉が開いた。
「えっと……」
ひょこりと遠慮がちに顔を出したのはまだ幼いがかなり整った顔をした少年だった。ぱっと保健室全体に視線を巡らせた後、椅子に腰かけている私と目があった。小さく頭を下げてから、少年が保健室に入ってくる。
「どうしたのかな?」
中学生くらいか、と年齢に当たりを付けて声をかける。
「風邪薬ってもらえますか。身体だるくて、熱っぽいんすけど」
「じゃあとりあえず熱計ろうか」
私が簡単な問診票と一緒に体温計を差し出しソファに座るよう促すと、少年は一呼吸置いてからそれらを受け取った。
「……書きました」
返されたバインダーの埋められた欄に目を通す。体温、36度5分。手持ちのタブレットで烏丸京介を検索する。中学2年生、本部のC級隊員。平熱は……36度台か。サイドエフェクトは特になし。
「んー、熱はそんなにないみたいだけど……ほかに何か症状はある?」
「頭痛と、吐き気がします」
「朝早いみたいだけど、ちゃんと寝れてる? 疲れが出てるのかもね」
寝る時間は健康的なのだが、何分朝が早い。最終的な睡眠時間は短い方に入る。
睡眠不足の四文字に思うところがあり、眉間に皴が寄りそうになるのをぐぐっと抑えた。
「きついようならベット使ってもいいけど」
「いえ、あの、薬だけ貰えれば大丈夫っす」
少年は睡眠不足なのか元からなのか、少し眠たそうな目を伏せながら首を振った。薬漬けになって働くエンジニア連中を思い出し、私はバインダーを指で叩いた。コツコツと体温の欄に指を滑らせながら私は苦言を呈した。
「基本的に薬は症状が確認できてからしか出せません。それに薬飲んで一時的に抑えるだけじゃ何も意味ないよ」
鈍感そうにぬぼーっとしている烏丸くんに向かって、怒ってるんですよ、と分かりやすく表情を作る。
「早く楽になりたいって思うのは分かるけど、きみ、C級隊員でしょ? 緊急ってわけでもないなら、きついときは訓練しないでしっかり休みなさい。トリオン体なら大丈夫かもしれないけど、生身にはきっちり響いてるんだから」
「……」
思春期真っ盛りの中学生が初対面のおばさんに説教されても、何を偉そうにとしか思わないかもしれないけど、言わないわけにはいかなかった。
烏丸くんは俯いてしまったっきり反応がない。
正直反発されると思っていたのに。そうでなくともノーリアクションというのがかえって、なんらかの事情を抱えているように見えた。
前髪で隠れて顔は見えにくいが、膝に置いた手が握られている。そうして座っているということは、出て行く気はないのだろう。
私は来客用のカップにコーヒーを注いで、ミルクと砂糖を添えて烏丸くんの前に置いた。
「はいどうぞ。……まあせっかく来たんだし、ゆっくりしていったらいいよ」
「……いただきます」
私は烏丸くんの正面に腰を下ろし、コーヒーに何も入れずにカップに口を付ける烏丸くんをみつめた。口に入れた瞬間に顔がぴくりと強張ったのが分かり、もしかしてコーヒー苦手だったろうかと思ったが、それならあえて何も入れずになんてことはあるまい。……そういえばミルクと砂糖がないけど、私添えたよね?
不安になりつつ、私は自分のカフェオレを飲み込んだ。
「やっぱり、ボーダーと学校の両立って大変なの?」
「……いや、おれはそんなに。正隊員になれば防衛任務があるんで休んだり早退したりすることもあるらしいっすけど」
「出席日数大丈夫なのかな、卒業できなさそう……」
「ああ、そこらへんはちゃんと学校側と協力してどうにかなるらしいっす」
「へえ! さすがだな、ボーダー。防衛隊員は学生多いからさ、少し気になってたんだよね。烏丸くんはここにどれくらい知り合いいるの?」
「同じクラスのやつがひとりいます。あと友達は……ボーダー入ってからできたやつもいるんで、結構いますね」
「おー、いいね、交友関係広がるんだ」
指を折りながら数えていたはずが片手で足りなくなった段階で数えるのをやめて投げやりに答えた。
学生の青春を目の当たりにして微笑ましく思った。
「ふふ、ここあんまり防衛隊員は来ないからさ、なんか新鮮だな」
「そうなんすか?」
「うん、ほら、トリオン体だから怪我するわけでもないし、治療よりも健康管理の方が主な仕事だよ」
仕事人間がいっぱいいるからね、と目が笑えていないのを自覚しつつ言うと、烏丸くんは私をちらりと一瞥して頷いた。
「ああ、確かにそうっすね。おれもここのことは前から知ってたんすけど、始めて来ましたし」
「うん。個人的には学生の子たちはメンタル面が不安だから、もっと気軽に相談できるような場所にしたいと思ってるんだけどね……どうも敷居が高いみたいで」
まあ開発室とのバトルで手一杯というのもあるのだが、それはともかく。
「うーん、喋りすぎちゃったな。烏丸くんも学生なのにね、私が相談しちゃってるし!」
あは、と笑いながら引き出しの中からチョコレート菓子を取り出し机の中から取り出した。「はいどーぞ」
「あ、ありがとうございます」
小袋包装のものを雑多に掴んで言うと控えめに手が差し出されたので上に乗せた。
「烏丸くんは聞き上手って感じだね」
「え。初めて言われました、それ」
「雰囲気が落ち着いてるからかな。ごめんね疲れてるだろうに」
「……いえ、大丈夫です」
ぴくりと肩を揺らして、烏丸くんがまた俯いてしまった。何が切っ掛けになっているのか分からず、しまったとマグカップに口を付けながら考えていると、烏丸くんがゆっくりと顔をあげた。目を合わせると、少し緊張した面持ちで言った。
「……あの、相談、乗ってもらえませんか」
私はその言葉に一度目を瞬いて、医療用スマイルを浮かべた。
「飲み物、コーヒーとオレンジジュースどっちがいい?」
「オレンジで」
即答だった。
要点をまとめると、烏丸くんの家はそれなりの貧乏で、出費が重なりカツカツの月末に運悪く弟が高熱を出したのに風邪薬が切れている、と。
「買えないことはないんすけど、なるべく節約したくて。……妹の誕生日ケーキが買えなくなりそうで」
「なるほど、それで仮病で風邪薬ゲットして横流ししようってことね」
確かにここで薬を貰う分にはボーダーの保障が効くからタダで済ませることが出来る。主婦も真っ青の節約術である。
ちなみに朝が早いのは新聞配達のバイトをしているかららしい。
「うーん」
相談に乗ると言っても経済的な話では中々力になりにくい。一通りの保障は受けているようだし、仕事先を紹介しようにもまだバイトできる年齢でもないし。
だからといって、はいクスリと渡すのも違う気がする。一応はボーダーの備品なわけだし、一度特例を作ってしまうとあとが怖い。一度消耗品を消耗しすぎて経理が愚痴っていたと唐沢さんから話が回ってきたことがあるのだ。それ自体は大したことではなかったのだけど、働いてみてボーダーにこういう場所は絶対必要だと確信したので、話を潰す可能性はなるべく排除したい。
まあその辺は相談者の利益と相殺するにしても、一番問題なのが、これが一応は不正に当たる行為だということだ。小さな心臓と胃と良心が痛む……。
…………そうだ。
「ちょっとごめんね」
私は備え付けの薬品棚ではなく、手持ちバックから自分用の風邪薬を取り出した。旅行に行くときに入れてから出していなかったのが幸いした。私はデスクに置いてあるハサミでさっき聞いた弟さんに適量の薬をカットした。
ソファに戻ってテーブルに薬を置くと、烏丸くんが僅かに目を剥いた。
「いいんすか……?」
「よくないね」
「えっ」
「だから秘密ね」
「!」
私が覚めてしまったカフェオレを口に運びながら言うと、烏丸くんは薬を手に取り、握りしめた。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして。さ、今日はもう帰りなさい。熱はなくても、色々考えて疲れてるんでしょ。しっかり休んでね。烏丸くんがダウンしたら本末転倒なんだから」
「はい」
私の言葉に烏丸くんはぱっと立ち上がり、薬をポケットに入れたあと退出……するのかと思いきや、空になった私のマグカップと自分の使ったカップをシンクに運び洗おうとした。
いいよ、と言ったが譲らなかったので大人しく洗わせておいた。
……いいこだな。