アサヒがアカデミーに出発する前に、母は家を出る。
アサヒが目をこすりながら出送ろうと玄関に行くと、母が微妙な表情で口を開いたり、閉じたりしていた。
「アサヒ」
「……?」
「その……、シカダイくんにちゃんとお礼、言うのよ。それから心配かけた子には謝ること。……関わるなとは言わないから」
「!」
「それだけ。いってくるわ」
「いってらっしゃい……!」
終始渋い顔をしていたが、母は確かに、『話しかけること』を許容した。
昨日、カカシに何か言われたのだろうか。アサヒを家の中に入れてから、門のところで何か話していたようだった。『友達』については許してくれないようだけれど、アサヒにとっては十分嬉しいことだった。
謹慎二週間の問題児は、登校早々、うずまきボルトだと高らかに名乗った。
元気だなあと思いながら、アサヒの視線は一緒に入ってきたシカダイに向けられていた。
「いってくる」
アサヒはスミレにそう告げると、輪の中から抜けて階段状の教室を下った。
カカシに昨日言われた、「年頃の男子は冷やかされたくないから、こっそりね」というアドバイスに従い、しゃがみこんで、周りから身を隠しながら、一番端に座ったシカダイの袖を引いた。
「!」
シカダイはピクリと肩を震わせ、数秒掛けてアサヒを見下ろした。アサヒはシカダイと目が合って、自分に気づいたのを確認してから袖を引いていた手を放す。
「アサヒ、なにしてんだ」
アサヒが周囲に気づかれないように振舞っているのを察し、シカダイは小声で尋ねた。アサヒは唯一露出している顔のパーツをシカダイの方にまっすぐ向けている。
「おはよ」
「おう、はよ」
シカダイは挨拶されたので、片眉を吊り上げながら返答した。不審そうな表情だ。それに構わず、アサヒは満足げに頷いてその場を去った。
「……、……なんだったんだ」
「おいシカダイ、聞いてんのか?」
「あ? おう――」
アサヒがスミレのもとに戻ってくると、スミレが頬に手を当て、顔を上気させていた。サラダは勉強、チョウチョウはお菓子に集中して気づいていないようだった。アサヒはかくれんぼ――ではなく、索敵修行のため、三人の肩を順に叩いてから席を移動した。といっても、人数的に余る席はひとつだから、そこに座ることになるのだけど。
担任のシノが入ってきて、今日もアカデミーの一日が始まる。
ボルトは基礎身体能力が2番だったらしい。デンキがそう言っているのが聞こえてきた。一番は褐色の少年こと結乃イワベエである。アサヒは怖いのでイワベエが苦手だ。カカシやシカダイのように優しい人なら、男子でもアサヒの方から話しかけられるが、体格差に加えあの不愛想さでは到底無理だ。一度関わったことはあるのだけど、そのときも会話はなかった。
ちなみにアサヒの身体能力だが、念の使用を母から禁じられているので、件のパーセンテージでいえば100の状態で取り組んだ。結果は中の中といったところである。身軽さは十分だが体力がサッパリなのだ。後半バテて、前半と後半のタイム差がえげつないことになっている。
ぜえぜえ言っているところをいのじんという金髪の少年から肩ポンされ「忍びらしからぬ体力だね」とトドメを刺されたことは記憶に新しい。優しそうだと思っていたら、全然だった。寧ろギャップでダメージが倍増するので、アサヒはいのじんも苦手だ。
昼休みになると、学校中が騒めき始める。
いつもだったら索敵修行してからお昼なのだけど、今日のように最後の授業が野外のときは、潜むところから始めるのでやらないことになっているのだ。
「昨日はごめん。教室、修行できるよーに、先行く!」
アサヒは握りこぶしを作って教室に駆け出した。残されたサラダたちは長文だ、と感心しながら、話し始める。
「昨日できなかったからねェ、シカダイのせいで」
「アサヒが良いならいいんじゃない? ……シカダイの方じゃないわよ」
「だっからそれは誤解だっての」
「? シカダイ、何したんだよ」
「なんもしてねーよ、めんどくせー」
「あ、でも今、教室って……」
もしかしたら、とスミレがその可能性に青ざめたときには、もうアサヒの姿はなかった。
教室に行くと、誰もいなかった。一番乗りだ、と年相応にはしゃいだが、すぐに誰かがいることに気づいた。完全な絶状態でこっそり様子を伺ってみると、当然ながら、見覚えのある顔があった。
「あ、このひと……」
結乃イワベエ。
この少年を見て思い出されるのは、正規の能力測定日のこと。それは、ちょっとした事故であった……。
その日は、遠足よろしく興奮状態で、早めについてしまったので、始まる前にひと眠りできるだろうかと日の当たる窓際の席に座り、後ろの机を背もたれにして寛いでいたのだ。窓を開けると、朝の気持ちいい風が吹き込んでくる。あまりの心地よさにうとうとしていると、教室の扉が開かれた。まだ早いのに誰だろうと自分のことを棚上げして見てみると、イワベエが欠伸をかみ殺しているのが目に入った。
アサヒが「このひとも楽しみだったのかな」と考えていると、イワベエは教室をぐるりと見回して、日当たりのよさそうな席、つまりアサヒの座る席に目を付けた。すたすたと迷いなく歩いてくるイワベエに、アサヒはどこに座るかわからないけれど端っこに寄っておこうと奥の方へと位置をずらしていた。――そしてそれが悲劇を生んだ。
イワベエは足元に手荷物を置くと、アサヒの座る反対側に腰かけ、そのまま横になった。
本来枕にしようとしていたイワベエの腕はアサヒの身体によって阻まれ失われ、異変を察知した時には頭は既に何かに着地していた。――アサヒの太腿に。
「……あ?」
「……!?」
欠伸で涙が滲んでいた目を開いたイワベエと、驚きの流れに成す術のなかったアサヒの視線が絡む。
二人の目に共通する感情は、混乱。
しかしそこは流石の忍者の卵。不測の事態にも関わらずザッと飛びのき、武器を構えた。
一方のアサヒは露出している太腿で頭が動かされ、くすぐったさに飛び跳ねた。混乱のあまり、そのまま窓の外に飛び出る。
「あ!?」
アサヒが着地し身を隠した後、こっそり教室の方を見ると、窓の外に身を乗り出し辺りを見回していた。
教室に戻るのは、みんなが来てからにしよう。
心臓が止まる思いでそう決めた。そしてこの恐怖体験のあと、いのじんにトドメをさされるのであった。
「……」
アサヒは固まってしまった身をどうにかこうにか動かして、イワベエから距離を取った。
起こさないように細心の注意を払いながら(そもそもこの状態で気づかれるわけがないということには気づかずに)後ずさっていると、クラスメイトたちの声が近づいてきた。
クラスメイトの男子たちが教室に飯だ―!とはしゃぎながら入ってきて、イワベエに気づき怯え、そそくさと出て行く。その間、アサヒが草原に潜み獲物を狙う獣よろしく息をひそめていた。立場的には狩られる側だが。
そしてとうとう、狩る側の獣を起こしてしまう獣が現れた。果たして彼は狩られる側か狩る側か。
身を固めていたアサヒは、デンキが教卓に突き飛ばされるのをみて、漸くハッとした。事務的な会話ならできる程度に親しみのある男子生徒、黒髪眼鏡の少年。アサヒは咄嗟に飛び出そうとして、イワベエとの間にある絶望的な身体能力の差に怖気づいてしまった。アサヒの打撃攻撃は、恐らく効かない。できることがあるとすれば、イワベエの背負う武器をこっそり拝借するくらい。けれどそれも相手がイワベエ一人だったらの話だ。
いのじんが、近くにいる。
……否、いのじんはイワベエの仲間というわけでは断じてないし、アサヒ以外の全員がその事実を認識するまでもなく理解していたのだけど、アサヒにとっては苦手な人物×2という構図になっているのだ。ひとりだけ周りの二倍の緊張感を走らせながら、アサヒは行く末を見守っていた。抜くそぶりがあれば、行こう。いのじんをなるべく視界に入れないようにしながら、アサヒはそう決めた。
結局、アサヒの決意が発揮されるまでもなく、事態は収束した。教室ではその機会はなかったし、決闘でイワベエが武器を取ろうとしたときは、いのじんが颯爽と武器を掻っ攫っていった。余談だが、いのじんへの恐怖は武器奪取による勝負への真摯さで薄れかけたのだが、その後の氷点下の目でかえって倍増した。良いことを言っているのはわかる。だが怖いのは苦手だ。
なんだかんだイワベエは負けを認め、ボルトもクラスで一目を置かれるようになった。
認め合う少年たちを見て、他人事ながらなんだか嬉しくなった。
次の日、教室に着いて最初にシカダイの姿を探した。母から言われていた『シカダイへのお礼』をまだしていないことに家に帰ってから気づいた。
教室前方に座っていたのですぐにみつけた。
後ろの席が空いていたので、後ろの席に荷物を置いて、後ろから身を乗り出して顔を寄せた。
「シカダイ」
「!」
ビクッと肩を跳ねさせたシカダイに、「どうした?」と声がかけられる。シカダイは「なんでもねー」と気だるげに返してから、周りからわからない程度に首を動かし、アサヒを見よとするが、そっちは反対側だ。でもせっかく振り向いてくれたので、とアサヒはわざわざそっちに移動する。シカダイの視線は一緒に座る友人に向けられているが、顔がわずかに後ろに寄っている。その耳元で、周りに声ないように小声で囁く。この前は、ありがと。そう言うつもりだった。
しかしシカダイの隣に座る少年、ボルトが目に入り、昨日の言葉がリフレインする。
――親は関係ない。
彼の言葉は刃だ。
アサヒの心臓をいとも容易く突き刺す。
鋭すぎで、手を伸ばすだけで切れてしまう――
「――…………おは、よ」
なんとなく、ありがとうと口に出せなくて、結局それだけ言って、アサヒは身を引いた。
それから友人未満の三人のところに挨拶に行った。これをしないとチョウチョウの手(口?)によってお弁当がなくなる。
そろそろ始まるからと手を振って荷物を置いた席に座っていると、イワベエがやってきた。イワベエの視線はボルトたちの後ろの空席、つまりアサヒの座る席に目を付けた。
こんなこと前にもあったなあとぼんやり思いながら席を詰める。反対隣りにぶつかって謝ると、反対側の少年の喉がヒュッと音を立てた。いつものことだ。
話を聞くほどに怖くなくなっていくイワベエを含め仲良さげな四人を授業中は微笑ましく思っていたが、休み時間だ。サラダたちは授業間の休み時間は思い思いに過ごしお喋りに興じることは稀なので構わないのだが、トイレに行きたい。
イワベエは黙っていても席を離れてくれそうにはない。
「……」
イワベエは更生したのだから、大丈夫だ。
一度深呼吸をしてから、アサヒはイワベエの腕を突いた。
「……外、出たい……ごめん」
「――――」
オーラを50%くらいまで上げて、隣に座るイワベエを見上げながらそう頼むと、イワベエの目がアサヒを捉えた。突然現れた(ように見える)アサヒに、イワベエの喉がヒュッとなった。ここまでは慣れた光景だった。しかし、徐々に慣れてきたクラスメイトたちとは違い、イワベエはそこで留まれない。
「――っ――んがっ」
イワベエの開いた口が音をかたどる前に、立ち上がったシカダイの手によって塞がれ、今度はアサヒが驚く。ぱちぱちぱち。三度の瞬きをしている合間に、イワベエは席から退いてシカダイとこそこそ話始め、ボルトとデンキは何が起こったのかわからず二人で顔を見合わせている。
「……?」
当のアサヒも何が起こったのかよくわからなかったが、とりあえず、トイレに行こうと席を立った。
帰ってくるとイワベエが奥の方に座っていて、ついでに荷物も入れ替えられていて、思わぬ気づかいに恐怖メーターがまた下がった。