初めに違和感を感じたのは、名取先輩が貸していた小説を返しに来た、週明けの月曜日。それと引き換えに以前貸すと言っていたコメディタッチな推理小説を渡す。
帰ってきたのは、殺人犯を目撃してしまった極普通の主人公が逃走劇を繰り広げながら事件解決を目指すホラーとアクション入交った小説だ。
先輩の目元がうっすら赤くなっているのを見た時だ。
「泣いたんすか」
「ええ、ちょうど今日の朝車で読み終えたの。我慢したんだけど、ダメだったわ」
「まあ小動物はずるいですよねえ」
「ほんとよ」
名取先輩はうんうん頷いた。
直後に鐘がなって、会話は打ち切られた。
「今日はちょっと昼休みこれそうにないの。生徒会の仕事で……ごめんなさいね」
「や、お仕事お疲れ様っす」
「ありがとう」
にこりと微笑んで、先輩は自分の教室に戻って行った。
「……」
去っていく先輩の背を見つめながら、目を細める。
先輩がこの小説で泣いた。
そのことが引っかかって、教室に引っ込みながら考える。
名取先輩はこういう誰かの死で泣かしに来る展開で泣くタイプではない。
なんだか悔しいからといつか言っていた。もちろんそれは以前のことで今はもう違うと言われてしまえばそれまでなんだけれど、今でもその傾向が強いことはなんとなくわかる。
この小説では中盤に主人公宅の猫が殺され、そこに残された情報がきっかけとなり事件は解決に導かれる。そしてクライマックスで、主人公とともに育ってきた猫の献身が犯人の口から伝えられる。そこに挿入される主人公と猫の幼い日のエピソード……。分かりやすいお涙頂戴展開だ。表現技法から考えたって、到底先輩の涙腺を崩せるものじゃあない。ちなみに私は泣いた。
つまるところ名取先輩がおかしい。
たったこれだけの理由だが、私は私の感覚を疑わないようにしているのだ。
「なぜなら私は天才なのだから!」
無人の教室の真ん中で仁王立ちししながら胸を張ってそういった瞬間に、教室の扉がガラリと開いた。
「……」
「……」
「……。出席を取るぞ。灯木飛鳥」
「うっす」
普通に気まずかった。
教師もいなくなった後の教室で、私は頬杖をついてぼーっとしていた。
春の風が高級感のあるカーテンを揺らして入ってくる。視線をそちらに向けると、日差しが視界をちらつく。不快感はない。桜はとうに散り、木々は既に緑の葉を茂らせている。枝葉とカーテンが同じリズムで揺れている。私の前髪も煽られている。
「……あ――……」
頭の中にあらゆる可能性が浮かんでは消えて行く。
「……、とりあえず情報収集っすかねえ」
昼休み。一向にやってくる気配のない芥川さんに痺れを切らして、私は珍しく教室を出た。一年の初めのころは昼寝スポットを探索しているときはほとんどここにいなかったが、芥川さんも樺地くんも突然やってくるので、教室に居座るようになったのだ。
交流のある人であれば、今どこにいるのかを予測するのは簡単だ。
季節は春。心地いい風。柔らかな日差し。そしてなんといっても探し人が芥川慈郎である。
中庭にある、敷地内の林へ繋がる林道。
バカでかく、何のためにあるのかも分からないような施設がいくつもあるような学校とはいえ、校内に森があるのには何を考えているのかと溜息をつきたくなる。自然と触れ合うということを目的としているらしいが、虫に触ったこともないような令息令嬢がいる中でそういった授業が行われたことは一度もない。
と、名取先輩から聞いた。
もう察されていると思うが、私のこの学校についての情報はほぼ伝聞であり、そのソースは名取先輩だ。芥川さんはほぼ寝てるし、樺地くんはしゃべらない。
ともかくその道を暫く行ったところに、道とは思えないような小道がある。実際道でもないんでもないのだが、私と芥川さんが何度も使っているので他の所よりも道っぽくなっているだけだ。
その道もどきを歩いていくと、開けたところに出る。
その中心に、他よりも一回り二回り大きな木があり、幹は太く、枝は細めわかれていて上りやすい形だ。
芥川さんはその木の半ばに背中を預け、眠っている。
私も気に足をかけ、彼と同じ高さまで上る。落ちたら痛いなあくらいの高さだ。
「あ、く、た、が、わ、さ、んっ」
頬をぶすぶす指しながら呼びかける。
「……ん」
芥川さんは小さく身動ぎし、薄く開けた目で私を捕えた。
「飛鳥……?」
自分が出した声を聞いた瞬間、芥川さんは飛び起きた。
「あれっ、飛鳥だ! こっち来んの久しぶりじゃないっ?」
「そーっすね。あんたと入れ違いにならないように、これでも気い使ってるんすよ。……ところで芥川さん、テニス部の話なんすけど」
私が真面目な顔でそう切り出すと、芥川さんは目をぱちくりとさせ、木の上で器用に背をただした。
「どしたの、飛鳥がテニス部に興味もつなんて、なんかあった?」
「『ヤヨイチャン』の話なんすけど」
「矢野? なんで飛鳥が矢野のこと……あ、奈良坂?」
「はい。名取先輩とのトラブルの話なんすけど」
「ああ、あれ! ほんとどうしていいのかわかんなくて、俺も困ってんだよ〜」
「やっぱそこなんすね」
「え? ……あ――っ、飛鳥、騙したな――!!」
ぽかんとした芥川さんは、一拍置いて叫んだ。間近で叫ばれ襟首をつかまれ揺らされる。
「だましたなんて人聞きがわる……っちょ、危ない、危ないっすから! すんませんって!」
「うう〜〜、跡部に秘密だっていわれてんのに〜〜」
「ふうん、部外秘ってことすか……、つーかそれなら名取先輩が言うわけないでしょう」
「……跡部に黙っとけって言われたとき、奈良坂いなかったんだよ」
「名取先輩になにしたんすか」
「それは……って秘密だC! 危ねーっ」
ちっ、気づいたか。今度は頬を膨らませながら頭をびしびし叩いてくる芥川さん。
「あー、はいはい、もうしませんて」
「飛鳥のばーか!」
「この天才に向かってバカとは、良い度胸っすね。あんたの秘密なんて丸裸にしてやります」
「んなことさせないC―!」
あははと声をあげて笑っているうちに忘れていたことがある。ここが不安定な木の上だということだ。
ずるり、芥川さんと私はふざけた取っ組み状態で自分たちの重心が木の上から移動した。
「ん?」
「あっ」
気づいた時にはもう遅く、私たちは真っ逆さまに落下した。
ぼすんっ。
幸いにして、柔らかな草によって衝撃はいくらか軽減されたようだ。木の根に打ち付けたところは痛いが、怪我はない。一方の芥川さんは私と違って綺麗に受け身を取ったようで、「びっくりしたC〜〜!」と興奮している。
「痛い……」
「飛鳥――、大丈夫――?」
「大丈夫っすけど、だーから危ないって言ってんじゃないすか。仮にもスポーツマンなんすから、気い使ってくださいよ!」
「A〜?」
「えーじゃないっすよ、もう」
はあ、と大げさにため息をついた私は、懲りない様子の芥川さんの声を聴きながら、燦燦と降り注ぐ日差しに目を閉じた。
「芥川さん。部活いかなくていいんすかー」
どれだけそうしていただろう。日の傾き方からして、もうそろそろ放課後ではないだろうか。そういえばお昼食べ損ねたな、と教室に残してきた弁当のことを思い出した。
「……」
「寝てるんすか―」
「……」
返事がない。本当に寝ているようだ。
「よいしょ」
むくりと起き上がって芥川さんの顔を覗き込んだ。安らかな寝顔である。
ごろごろと辺りを転がっていたせいで服中が薄汚れている。ぱたぱた適当に叩いて草を落としたあと、木の裏の方においてある一輪車を引いてきた。これを使うのは随分久しぶりな気がする。私では芥川さんを森の外までは担いでいけないし、だからといってここを無暗に人に教えたくはないので、考えた対抗策だ。一輪車は森の中の主のいない管理小屋に放置されていないのを拝借した。
芥川さんのわきに手を入れて後ろから持ち上げ、一輪車に載せる。
「えっほー、えっほー」
舗装されていない道ならぬ道を乗り越え普通の道まで行けば、あとはなめらかにタイヤが動いてく。
そのまま森の入り口まで運び、そこで一輪車から転がし落とす。乱雑な扱いで悪いが、起きない芥川さんが一番悪いので仕方ない。そもそも頭脳労働専門の私に肉体労働をしろという方がおかしな話なのだ。
さておき、樺地くんはどこだろう。本来なら今頃私の教室に居る時間のはずだけど……。もし私の教室にいるのなら。
私はスカートのポケットから携帯を取り出すと、樺地くんの番号にかけた。ぴぽぱ。
トゥルルルル――二回目のコールでプツッと音がして、電話がつながった。応答はない。まあいつものことだ、と私は予想通り出てくれたことに一先ず感謝しつつ、要件を述べた。
「樺地くん、今芥川さんと森の東口んとこにいるんすけど、回収してもらってもいいっすか?」
「……ウス」
短くそう返答があったのを確認した後、私は電話を切った。
数分後校舎の方から樺地くんがやってきた。私と気に寄りかかって寝ている芥川さんに気づくと、心無し歩くスピードが遅くなった気がした。そういえば二年になってからはずっと教室で回収していたし、こういうのは久しぶりだ。
「じゃあ私は一輪車返してから帰るんで、お疲れ様っす」
「……」
樺地くんは私を一瞥してから芥川さんのほうに歩いて行ったかと思うと、一輪車に手をかけた。
「えっ、いや、いいっすよ。これは私が返してきます」
彼の手を止めて見上げると、感情の読めない瞳と視線がかち合った。
あ、このままじゃ押し負ける。将棋のようにこれからのやりとりをシミュレートした結果、そう直感する。
「名取先輩」
「……」
「名取先輩を、守ってください」
彼の表情は変わらない。けれど一瞬ためらった隙をついて彼の手から押し手を奪い取った。そのまま走り出す。首だけ振り返って、「じゃ!」と片手をあげる。したり顔になってしまうのは仕方ない。この大木のようなとても優秀な同級生を出し抜けたのだから。
もちろん言ったことは嘘じゃない。名取先輩を守ってほしいと思う。けれどそれは三番目の目的であり、二番目の目的が一輪車、一番目は彼の反応を確認しておきたかったのだ。
「なるほどなるほど?」
何分情報ソースが少ないもので、もっと手こずるかと思っていたけれど、案外捗った。
この調子なら、明後日にでも名取先輩にモーションを掛けられそうな感じだ。
ただのお節介にすぎないと自覚している。けれど。
『――これからよろしく、灯木さん』
そう言って手を差し伸べてくれたあんたを、今度は私が助けたいと思うから。