ミツキと名乗った少年は、綺麗な蜜色の瞳をしていた。
転校してきたミツキはとにかく何でもできる少年だった。
アサヒがさっぱり手付かずだった問題をいとも簡単に解くボルトが解けない問題の解法をさらっとアドバイスしたり、直接戦ったことこそないものの組手をすれば負けること間違いなしのイワベエを制圧したり、アサヒは感嘆せずにはいられない。
やりすぎな部分はあるけれど、青空教室になったことで居眠りすることが格段に増えたアサヒよりも確実に優等生だ。
そう、青空教室。
先日の男女対抗戦のせいで使う教室が壊れてしまい、屋外で授業を行っているのである。曇りならまだいいのだが、天気が良かった日には抗いがたい眠気が襲ってきて、気付いたら眠ってしまうのだ。
今も、チョウチョウが当てられた問題を解いているのを見ていたはずが、気付いたら頭と地面がくっついていた。辛うじて意識は落ちていないものの、解説の声は徐々に遠くなっていく。完全に寝てしまうのも時間問題だと思われたが、ふいにフード越しにつむじの辺りを突かれた。
身体がわずかに覚醒し、どうにか頭を持ち上げる。
皆前を向いていて誰が突いたかは見ただけでは分からなかったが、教科書をみているシカダイが首の角度だけ変えてアサヒを見た。
ね る な
三度、シカダイの口が分かりやすく形を変える。
これがスミレやメタルの忠告であれば素直に反省しただろうが、言ったのがシカダイだったが故に不満が募る。アサヒは重たい身体をずるずる引きずって前へ詰めた。他の生徒はもちろん、板書しているシノも気づいていない。
この密集地帯で声を出せば隣に座るボルト辺りが気付きかねないので、アサヒはノートを広げてペンを走らせた。
【いつもサボるくせに】
シノを一瞥したシカダイが自分のペンを取り、アサヒの字の下に文字を連ねる。
【オレが起きてんだから、ひとりだけ寝させて堪るか】
【ワガママ】
【うっせ。つーか堂々としすぎだ】
【がんばっても、寝る】
【寝たくて寝てるわけじゃねーのか】
【授業中はさすがに】
アサヒはそう書いた後、シカダイが返す前にすぐ下に続けた。
【また寝たら、起こしてくれる?】
ハテナマークは、なんというか返事を期待しているようで使うことに躊躇したけれど、ええいままよと歪んだハテナを末尾に足した。
【めんどくせー】
シカダイからの返事は口癖と同じ、拒否するもので、返事がちゃんと来た喜びと断られた悲しみが入り混じる。
「……」
「……」
【気が向いたらな】
「……!」
一拍置いて書き足された妥協にアサヒの顔が綻ぶが、ほとんどが隠されているため外からは分かりにくい。しかし仕草や雰囲気は表情と同じくらいに感情を伝えるもので、浮ついたまま【ありがと】と書いた文字はうれしいを体現していて、後から見ても恥ずかしくなるほどだった。
「ではこの問題をシカダイ、解いてみろ」
「ゲッ」
ミツキはなんとなく、いのじんと似ていると思う。口角を緩やかに上げる笑い方だとか、笑っているくせに冷やかな瞳だとか、それからどきっとする鋭い指摘をするところもだ。
離れたところからミツキを眺めながら、アサヒは警戒のランクを決めていく。
知りもしないのに勝手な評価をするのかと責められるかもしれないが、アサヒの場合これは誰対しても初めに通る道だ。アサヒは弱い。だから警戒しておくに越したことはないのだった。
結局、アサヒはミツキと話すことなく、その日のアカデミーを終えた。
家に帰ると仕事で数日家を空けていた母が帰っていた。
「おかーさん!」
久しぶりに会う母にアサヒが飛びつく。母は柔らかく笑ってアサヒを支えた。
「けが、ない?」
「大丈夫。いつも心配かけてごめんね」
母が目を細めてアサヒの頭を撫でた。
母は“少し”危ない仕事をしているらしく、たまに怪我をして帰ってくることがある。
アサヒに戦い方を教えない理由は母自身が危険の中に身を置いているからなのかもしれない。アサヒはなんとなくそう思う。
「お母さんがいない間に何かあった?」
母に聞かれて、アサヒは少し考える。
サラダ・スミレ・委員長のことは友達という関係性ではなく話すことの多いクラスメイトという自己弁護で通している。サラダたちと全く関わらないのは嫌だ。けれど母の望みは叶えたい。ふたつの自分の願望を叶えるには、実質的な関係を保留するほかなかった。ただの言い訳であることは理解している。これが逃げているだけということも。
胸の内に広がりかけた罪悪感を拭いさりたくて、アサヒは最近あったことに思いを巡らせた。
「訓練、55まできた」
「へえ。すごいじゃない。秋道の? それともうちは?」
「んーん、いいんちょ」
「委員長? ……なんて名前だったっけ?」
「筧、スミレ」
「筧ねえ。初めて聞く名前ね」
「あと、シカダイが、40!」
「40! やるわね、奈良の坊ちゃんの息子。アカデミー生でそれだけ気配に敏感なんて、この前のことといい、きっと砂のお嬢さんの教育の賜物ねえ」
母が頬に手を当てほう、と息をつく。シカダイが絶賛されていて、アサヒはふふんと口角をあげた。テンションをあげたアサヒは「それと」、と次々に話題を繰り出す。
「あと、転校生、きたの」
「転校生?」
「ん、ミツキっていう。音隠れから」
「音隠れ……」
それまで眉を垂らしてアサヒの話に相槌を打っていた母がミツキの話題になった途端、顔を青くした。
アサヒは朝紹介された時のクラスメイトの騒めきを思い出した。音隠れ。その言葉で滲むのは過去の所業だ。アサヒは慌ててシノが言っていたことを引用した。母は真っ青なまま躊躇いがちに頷いた。
「ええ。過去の話よ。……問題は、転校してきたってこと……嫌な予感しかしない」
アサヒの知らない母の姿が関係しているのだろうか。母はぶつぶつと理解しがたいことを呟いている。アサヒが母の顔を覗き込もうとしていると、それに気づいた母がアサヒの頬を撫でた。
「アサヒ? その転校生の子と深く関わりすぎないようにね。クラスメイトなんだし、全くと言うわけにはいかないでしょうけど。他の子ももちろんだけど、特に注意して」
「……ん」
母の歪な指先。傷跡は癒えず、母の肌に刻まれたままだ。
これはアサヒを育てるために母がしてきた苦労の象徴だ。母の手が再び頭に動いて、髪を梳く。
振り払ったはずの罪悪感が、じくじくと胸を焦がした。