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それから一か月程経って、新たなクラスの雰囲気に慣れてきた。……平和島君に対して以外、だけれど。
校庭で彼が暴れまわっているのを見るたび、よく殺されなかったな私……と鳥肌の立った腕をさすっている。

それでも、毎朝の平和島君へのぎこちない挨拶は辛うじて継続できていた。
相変わらず酷い笑顔をしている自覚はあるけれど、対する彼の不愛想さを考えれば、礼儀だけの関係としてバランスが取れているのかもしれなかった。


その、一か月経った日の朝のこと。

「……ん、……んん……?」

東の窓から指す光のために、意識が覚醒する。目を薄く開いた瞬間朝日に襲われ、ぎゅっと目を閉じる。気だるく片腕を持ち上げ、光を遮った。

目を開けて数秒、部屋の立地上、普段なら朝日が差し込む前になるはずのアラームが沈黙していることに気づき、首をかしげながら携帯の画面を点灯させ、叫んだ。

「――お母さあああんっ!!」

起こしてよ、という絶叫に、リビングで食パンをかじっていた母は起こしたわよ、と眉を寄せた。

不摂生を責められる前に弁解しておくと、昨日は夜更かししたわけではなかった。むしろ早く寝たのだ。学校の都合で授業がいつもより早く終わり、それにつられて家庭学習も早く終わり、良い番組もなかったので、いつもより2時間も長く睡眠を確保することが出来たのだ。が、そのせいで身体が休日の睡眠モードへと突入してしまい、普段のアラームで起きることが出来なかったのだと思われる。
蛇足までに、平日は4時間半から6時間、休日は12時間とちょっと寝ている。

……現実逃避はこの辺にして。
制服に着替え、その間にお母さんに頼んでおにぎりを握ってもらい、お昼用の弁当と水筒を水平にリュックに詰めた。はねた髪を乱雑に梳いて、ひとつにまとめ、顔と歯を洗浄し、手洗いを済ませて家を飛び出した。この間10分弱。
通学手段は徒歩なので電車やバスの時刻表に左右されずにすんだのは幸いだった。バスを使えばもっと早くつけるのだけど、タイミングが合うかどうかや、そこまで大した距離ではないこと、混雑していることなど、さまざまな面倒な要素が付随するので使っていない。
徒歩と言いつつ、当然歩いてる余裕はないので走る。
いつもだらだらと歩いている道を、人混みを避けるべくちょっと薄暗い路地を駆使して駆け抜けた。

学校付近まで来ると、来神生の姿が増えてきて、彼らが大して急いでないのを見て私も歩き始めた。

息を整えつつ携帯で時間を見ると、大急ぎでなおいつもより15分ほど遅れていたが、手早く朝ご飯を済ませても間に合ったかなというくらいの時間はあった。早めに登校する派なのだ。

門を生活指導の先生が経ち始める前に潜り抜け、玄関に着いた。
今日は体育がないのに、寝坊のせいでローファーではなく指定の運動靴を履いている。去年から使っているから、底がかなりすり減っている。買い替え時だろうか。そんなことを考えながら靴を脱いだ。

ふと、不自然にざわめきが絶えた。

まるでモーセが海を割ったように、人混みが二つに割れていく。その間を少し薄汚れた平和島君が歩いている。……そういえば、朝来た時、校庭の方が騒がしかったような……。あれは平和島君が喧嘩している音だったのか。
朝っぱらから元気だなともはや諦観念すら覚えるが、やはり凡人の私はまず恐怖するのだった。怖い怖い、やっぱ怖い人だよ平和島君!

ひえ、と靴を持ったまま怯えていると平和島君が近づいてきた。それはそうだ。彼と私は同じクラスなのだから、下駄箱も近いのだ、当然のことだ。その彼と、下駄箱の前で立ち尽くす私の目が合うのも、当然のことだ。

「……――あ……」

思わず言葉に詰まった。流石に喧嘩直後の彼と相対するのは初めてで、背筋が伸びた。けれどそれは一瞬のことで、一か月間作ってきた笑みを反射的に浮かべた。……普段の1.5倍不自然な笑顔になってしまったが、どうか大目に見て欲しい。

「おはよう」

平和島君は乱れた金髪の奥で両目をぱちくりと瞬いた。

「おう、はよ、保科」

酷い顔だった。眉間にしわは寄っているし、口元は引きつっているし、双眼は鋭く細められていた。不思議なことにそれが笑っているように見えた。

たぶん、初めて名前を呼ばれたせいで、何らかのフィルターがかかっているのかもしれない。いやきっとそうだ。だってこれが笑顔だなんて、私より酷い!

手に持っていた上履きを重力に任せて落とすと、ぱこっと軽快な音を立てた。

変に胸が高鳴って――恐怖でも、ときめきでもなく、単純な驚きで――もぞもぞと靴を履き替えている私のもとにとうとう平和島君がやってきて、彼も上履きに履き替えていく。

隣に並んだ平和島君との思わぬ近距離に、体温がじんわりと上昇したように感じる。……びっくりした。それはそうか、一緒に下駄箱に立ったら、これくらいになるよね。異性と関わることが少ない身としては、予想外の事態に緊張するのは仕方がないと思う。

気を取り直すべく、リュックを肩にかけなおした。拍子に、薄汚れたYシャツと血の付いた右手が目に入った。
ヒュッと喉が鳴る。
微かな音だったが、耳聡く気づいた平和島君が「どうかしたか」と私の方を見たのが声の動きでわかった。
私の視線の先に気づいて、彼は僅かに身を固めた。私の視線から隠すように、手をポケットに入れようとする。

「わるい」

零れた声が、揺れていた。

「平和島君」

とっさに、私は平和島君の腕を両手でつかんだ。
泣きそうだったし、怖かったけれど、今、彼の手を放すのはやってはいけないことな気がした。そうだ、彼の機嫌を損ねるようなことをしてはいけないのだ。目に見えて怯えてしまっては彼を不快にさせてしまう恐れがある。私は、それを避けたいのだ。
泣かないように一度強く目を瞑り、それから彼を見上げた。

「だ、大丈夫」

平和島君の安否を問うための言葉だったはずなのに、音になったのは自身に言い聞かせるような断定の言葉で、慌てて続けた。

「怪我、してない?」
「してねえ。この血は殴った時についた」

彼は私の掴んだ彼の右手の方に視線を向けたまま、いつも通りの声音で返した。震えているようには聞こえない。もしかして幻聴だったのかな。どちらともいえない。

「……そう。でもこのまま手突っ込んだら制服汚れるよ」

こういうとき、ささっとウェットティッシュが出てくるようなひとを、女子力があるというのだろうか。女子というよりかお母さんかもしれないけれど、明日からリュックに入れておこうと思った。

「……確かにそれは困るな」

もうとっくに砂で薄汚れてはいるのだけれど、砂汚れと血の汚れは全く別物だ。彼が手をゆっくり下したので、私もぱっと手を放す。放してから、今更ながら服越しとはいえ、自分から異性に触れていたことに気づき叫びだしたくなった。
というか、突然仲良くもない女子から腕掴まれた平和島君の心境って……しまった! どちらにしても不快になるやつだ!

恥ずかしい事実に気づいてしまったところで、チャイムが鳴った。辺りを見回しても周りに人気はない。厄介ごとに巻き込まれてはいけないと皆早々に姿を消したようだった。人目がないのは目立ちたくない私としては好都合ではあったけど、それにしたって少ない。
今いるのは、ばたばた駆け込んでくる遅刻常習犯たちと、急げ、と彼らに声をかける生活指導の怖い先生だ。
思っていた以上に時間が過ぎている。

「まずいよ平和島君、遅刻になっちゃう!」

はっとして、平和島君の背を押そうとして、先ほどまで考えていたことが脳内を駆け巡った。きゅっと手を結んで、それだけ言って走り出した。

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