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最近、平和島君が変だ。
朝の短い挨拶はいつもどおりなのだけれど、たまにこちらを見ているのだ。目が合ったことはないけれど、顔をあげたタイミングで平和島君がすいと顔をそらすということがよくあるので、自意識過剰ではない……と思う。
思い当たることと言えば一週間と少し前の、遅刻しかけた日のことだ。私何かしただろうか。その場でキレられなかったから大丈夫だと思っていたけど、だんだん不安になってきた。
これが平和島君でなくて、例えば中学からの友人である千歳ちゃんだったら直接聞けばいい話なのだけど、あいにく挨拶以外で話したのは先日のあれだけだ。突然声をかけて「なんで見てたの?」と聞くなんて恥ずかしいことをしたくない。
どうしたものか、とノートを取りながら考えていると、教室の窓が割れた。
……教室の窓が、割れた?
思わぬ事態に一拍遅れ、ぎょっとして音の発生源に目を向けると、ベランダの柵の上に手放しで立っている男子生徒がいた。来神高校の本来の制服と違う黒い学ランを身に纏った、黒髪の少年――来神高校の悪名の根源たる片割れ、折原臨也。彼は嫌みなほど整った顔立ちを憎々しげに歪めて、笑った。
「やあ、久しぶりだね、シズちゃん?」
次の瞬間に聞こえてきたのは怒声と悲鳴。
私の手からシャーペンがするりと抜け、机上に落ちて、芯が折れた。その間、平和島君は机上に飛び乗り、強く踏み込んで、割れた窓から外へと飛び出した。
割れた窓ガラスは内側にも外側にも散らばっていて、何が原因で割れたかを知らない私には、どちらが割ったのかわからなかったけれど、とにかく、目の前で恐れていた事態が起こっていることだけは理解できた。――いや、寧ろ、この一か月少しの間、何もなかった方がおかしかったのだ。一年のころは、毎日のようにどこかで喧嘩していたふたりなのだから。正確には平和島君自体は度々喧嘩していたのだけど、折原君と直接対峙しているのを見るのは久しぶりだ。
先生たちの配慮もありクラスを離されているのに、折原君が平和島君に絡みに来るから意味がない。
……ああ、そういえば千歳ちゃんがそんなこと言ってたなあ。
とうとうベランダから飛び降りたふたりを見ながら、ぼんやりとそんなことを思った。
幸い、割れた窓の破片によるけが人はいないらしく、簡単な片づけを済ませた後、風通しの良くなった教室で、授業は再開された。
放課後。
中間考査前で部活が休みなので教室に残って勉強していたところ、愚痴のように昼間のことを話すと、千歳ちゃんは指をパチリと鳴らした。
「そういえば、今日折原君途中でいなくなってた! 平和島君のところに行ってたんだね」
「うん。ほんとびっくりしたよ。一か月以上何ともなかったから、安心しきってたのに……」
はあああ、と深いため息をついて、机にぐでんと溶けた。
「確かに、折原君今年はずっと普通に授業受けてたのにね。急にどうしたんだろ」
ふと、千歳ちゃんが思案気に目を細め、口元に手を当てた。整った顔の彼女がこういう仕草をするととても様になる。久しぶりに見る彼女の真剣そうな表情に――彼女は基本的にふざけた人間だ――目を奪われていると、気づいた彼女が照れたように頬に手を当てた。そんな姿も絵になっている。
「やん、そんなにみつめないで?」
……わざとらしい上目づかいと甘ったるい声で、そんなセリフを吐くから、台無しだ。
所謂残念な美少女である彼女を憐みの目で見てから、気になったことを聞いてみた。
「折原君って、クラスでどんな感じなの?」
「ん? んー。前言った通り、ふつうに気さくだよ。……あ、言い忘れてたんだけど私、折原君とクラス委員になったよ」
「えっ」
「うちのクラス担任超適当でさあ。出席番号最初の男女に割り振られちゃったんだよね」
「うわあ、災難だね」
「あはは。まあ、ある意味ラッキーだったよ」
「ええ?」
「そっちこそ、平和島君と同じクラスって大変でしょ? ただでさえ新学期早々やらかしてるんだし?」
そういわれて、言葉に詰まった。
「……確かに、最初は困ってたけど……」
災難だ。と、クラス発表のあった掲示板の前で頭を抱えていた。
私にとってヘイワジマシズオという人間は同級生とかクラスメイトとか、そんな親しみのあるものではなかった。危険人物という表現ですら生易しく、言うなれば彼は災害のようなものであり、恐れると同時に疎んじていた。
実際一年生の頃は周囲と同じく彼を敬遠して過ごしていて、今のようになるなんて、当時の私が知ったらひっくり返るだろう。
なんで、わざわざ危ない人と! と言って。
その評価が変わったのも、あの日だった。
私は右手に反対の手で触れた。
最初はぎこちなさが過ぎるほどに強張った表情だった。自覚はあった。
けれど毎朝、彼に挨拶するたびに、愛想笑いでなくなっていった。無理に浮かべる笑顔ではなくなっていった。
最初は平和島君が怖くて怖くて仕方がなかった。……正直、今も怖い。今日みたいに暴力をふるっているところやその残骸を見ると、震えてしまう。
でも。それでも。
「いい人だよ。怖くないって言ったら嘘になるけど、優しい人だと思う」
「……ふうん」
否定されるだろうと思っていたら、帰ってきたのは優しい声音だった。「いや、暴力男じゃん!」と言われたら「それはそうなんだけど!」としか返せそうもにかったので身構えていたのだが、どうやら杞憂だったようだ。