春らしくない、じっとりした気候。太陽は厚みのある淀んだ雲に遮られていて薄暗い。閉じられた窓には水滴が不規則なリズムでついては流れていく。つまり、雨である。
薄暗いとは言っても夏の入道雲による豪雨のときのような暗さはなく、電気をつけるまではない。
そんな教室で、私の正面にはむくれて机に突っ伏す芥川さんが居る。
「雨だからって、そんなに膨れることないじゃないすか」
「違うC!」
ぶすっと頬を圧し潰すと、芥川さんはさらに膨らませて私の指を押し返した。
「冗談っすよ。……てかあんた、授業出た方がいいんじゃないすか。割と真面目に」
このひと大会出られるのか? とちょっと心配になった。
「飛鳥だって出てないじゃん! ずるいー」
「私はいいんすよ。免除されてるんで」
「むー」
「可愛い子ぶらんでください」
妙に似合っているのがむかつく。
「……飛鳥は」
芥川さんはぺちょっと机に凭れた状態で、私を見ずに呟いた。
「飛鳥は、奈良坂が大好きだよね」
「そうっすね」
「奈良坂もたぶん飛鳥のこと好きだよ」
「そうだといいっすね」
「俺も飛鳥が好きだよ」
「ありがとうございます。私もですよ」
「ふへへ……、……飛鳥」
「なんですか」
「……おやすみ」
「はい、おやすみなさい」
芥川さんは早々にすう、と寝息を立て始めた。

……相当、追い詰められている。
ふわふわした彼の金髪を撫でながら、目を細める。
心優しいひとだから、こういう拗れた状況にはまいってしまうのだろう。
私は何度か彼を撫でた後、彼の上履きを拝借。
「うーん、やっぱちょっと大きいっすね」
まあ歩けないことはない。私は眼鏡をはずして机に置いた後、髪を二つに結びなおして前髪を櫛で綺麗に撫でつけた。形だけのメモ帳とペンを胸ポケットに差し入れたら完璧だ。手鏡を持ち合わせていないので出来栄えが分からないけれど、まあなんちゃって変装としては十分だろう。

私は教室棟に行き、手ごろな後輩を捕まえた。新聞部のインタビューを装い、名取先輩について聞いてみる。新聞部っぽい子を避けながら、男女学年交々片っ端だ。
「奈良坂先輩ですか? すっごく美人で、すっごく頭良い、跡部様の右腕ですよね! ふたりが並んでるとすごいですよねえ。迫力っていうか、気品っていうか。集会のときはいまだに圧倒されますよ」
「私は中等部からなんで、氷帝来てまだ一か月も経ってないですけど、それでも結構知ってますよ、奈良坂先輩のこと。とにかく優秀な人だって」
「奈良坂さんのこと悪く言う人? いないいない。そりゃあテニス部のマネージャーできるのは羨ましいなあと思うけど、仕事量凄いのは仮入部で嫌って程わかってるし。あれに加えてファンクラブ業務に生徒会でしょ? 人間業じゃないわ」
「あなた名取様のこと記事にするの? なら一応ファンクラブに許可取っておいた方がいいわよ。誹謗中傷でもない限り通るだろうけど、最近殺気だってるから……」
「なんだ? 入会希望か? 女神には相手がいるからな、テニス部と違って公式じゃないが……、規律はしっかりしてるぞ。女神にご迷惑をおかけすることはあってはならんからな。トラブル? ……ああ、最近テニス部のマネージャーになった二年が居るだろう。そちらにもファンクラブができたようで、会員が一部流されているんだ。……俺はかまうなと言ったのだがな」
「だって許せないじゃないですか! そりゃあ矢野弥生もそれなりに可愛いですけど、我らが奈良坂名取様は比べ物にならないレベルのお方っすよ! それなのにフリーだから可能性がとか言って、ありえねえっす!」
「新しいマネージャーの子ねえ。過激なとこじゃ不満も出てるけど、あの業務をちゃんと熟せるんならいいんじゃないかしら。そもそも入部テストに合格したってことは、跡部様のお眼鏡にかなったってことでしょう? それに文句をつけることなんてできませんわ」
「もともとは女子テニス部だったらしいけど、なんかあってマネージャー転向したらしいぜ。女子テニの方はマネの人数足りてたからな。経験者の即戦力っつって、こっちから誘いかけたんだぜ。いや、俺じゃないけど。二年のレギュラーあたりじゃね」

「――……ふう、こんなところかな」
ぱたん。一文字も字が記されていないメモ帳を閉じて、私は自分の教室に帰ろうと踵を返した。
休み時間が来るたび出動して、行ったり来たりしているので、ちょっと疲れた。でも新聞部が『新聞部でない生徒が新聞部の名を騙って奈良坂名取について調べている』ということに気づく前に聞き込みを終えなければならなかったのだ。目的は大方達成というところだ。三年のフロアは名取先輩とのエンカウントが怖くて先輩のクラスから遠いところしか行けなかったけど、まあ仕方ない。
教室に帰ったらざっくりまとめて、頭を回そう。
大方問題の外郭は把握した。次は内部調査だ。
芥川さんはまだ教室にいるだろうか(というかいつまで居座るつもりなんだろうか)。名取先輩には今日まだ会っていないしなんだか避けられている気がするので、いつ接触を図るか考えなければ……
内部調査のためのスパイ人員と名取先輩を口説き落とすことについて歩きながら考えていると、うしろから声を掛けられた。
「そこの新聞部のやつ!」
弾けるような声に振り向くと、綺麗な黒髪の美人さんが居た。
「落としたぞ」
彼女、いや彼のようだ。彼が手に持っているのは私のメモ帳だ。先ほどポケットにしまったと思ったらどうやら空振りしていたらしい。なんということだ。
「ありがとうございます」
「いいや、別に」
私のお辞儀に応じながら、黒髪の生徒は私をじっと見ている。観察するような視線が煩わしくて、身じろぎする。なにか怪しいところでもあったか? それともこの人は新聞部の人なんだろうか。そうは見えないけれど。
私は警戒して何を言われても切り返す準備をしていたが、彼はすぐに私に背を向けた。……なんだったんだろう。
いくら私でもわからないことは存在するもので、首をかしげながら再び教室へ向かった。

教室に帰るとまだ芥川さんがいた。どうやら起きたようで、週刊発行の少年漫画を読みながら、床をごろごろ転がっている。
「芥川さん、まだいたんすか」
「あ、おかえり〜、上履き返して〜」
「ああ。そういや借りてましたね」
ぺいぺいっと上履きを脱いで芥川さんの方に放った。
芥川さんは寝っ転がったまま上履きを履いて、立ち上がる。
「今日は学食〜〜。飛鳥も行く?」
「お断りっす」
即座に切り捨てられるのを予想していたのか、「だよな〜」といいながら教室を出ていった。
氷帝学園の学食。お金持ちの私立だけあってとても充実しているらしい。学費のその他項に食堂経営のためのお金は徴収されているから、その場で支払う金額は高くない。生徒が高額な金額を持ち歩かないようにする配慮だろう。
学費全額免除されている私にすれば素材に釣り合わない格安の値段で絶品料理を食べられるということだ。すごく、ものすごく気になるけれど、値段に釣り合わないという点で引け目を感じてしまい一歩踏み出せないでいる。
誘ってくれているんだしあとは頷くだけなのだけど、最初に断ってしまったせいで頷き辛くなってしまったのだ。ツンデレ乙という感じだが、実際こうなってみると本当に気恥ずかしいのだ。最初に変な言い訳をしてしまった私が憎い。
「いっそ芥川さんが強引に引っ張って行ってくれたらいいんすけどねえ」
と我儘なことを言いながら、弁当箱を鞄から取り出した。私の唯一の荷物である。
芥川さんは私の意思を尊重する。失礼だが意外だ。自分の意思は押し通す、マイペースなひとなのに。そもそも人に気を使えるんだったらもう少し樺地くんに優しくするべきだと思う。
ぱくりとおばあちゃんの作った煮物を食べた。
「おいひい」
まあこれはこれで。

放課後、私はロッカーの中からジャージを引っ張り出した。
「えーと、双眼鏡、双眼鏡」
「なにやってんのー?」
「わっ、芥川さん」
「双眼鏡ならこっちこっち」
背後から圧し掛かられ驚いた。
芥川さんは私が漁っていたロッカーの隣を開けると、そこから双眼鏡を取り出した。
「……また勝手に動かしたんすね?」
「うはは」
そろそろ熱くなってきたから、夏用のタオルケットを探してたんだろうけど、探し物の度に散らかすのはやめてほしい。
「はあ。整理するとき手伝ってくださいよ」
「お〜」
口ではそう言っているが、結局私が片づけることになるのだろう。まったく。

「あ、これ」
私は双眼鏡と同じロッカーに押し込まれていた小さな機械を手に取った。小型のボイスレコーダーである。
なぜこの教室に双眼鏡だのボイスレコーダーだのがあるかというと、実はこの教室、以前はテニス部を覗くスポットとして有名だったのだ。いくつかそういうスポットが校内に点在していたらしいが、今ではもう昔の話だ。その存在を知るものはもう誰もいない。名取先輩でさえ知らなかったのだ。
そんなものを何故私が知っているのかというと、この教室が割り振られ探索してみたところ、教卓の裏からいろいろと出てきたのだ。見つけたときは驚いた。このボイスレコーダーに録音されていた音声を聞いて事態を把握したわけである。
テニス部ファンの熱狂ぶりは昔からのことらしい。恐ろしい。
ピッと再生ボタンを押すと、数年後の今から見ても十分な機能を備えている、当時かなり高額だったと思われるボイスレコーダーから人の声がし始めた。
『ジッ……おはよう……ああ、わかった……ジジ…・・すまない。あとにしてくれ……』
編集済みなのだろう。余分なところを切り落とし、流れてくるのはひとりの少年の声――少年というには、あまりにも大人びているかもしれないが。
日常会話のやり取りから、授業で当たったときの発言。部活中の音声もあるが、これは良質とはとても言えない、酷いものである。
「何それ、なんか気持ち悪いC……」
「そっすね、負の産物っす」
芥川さんがドン引きしてボイスレコーダーから距離を取る。自動でリピートし始めた声に停止をかけて、躊躇いなく消去する。双眼鏡をはじめとする他のグッズからも見て取れる熱狂ぶりにもかかわらず、なぜおいていったのだろう。後生大事に抱えていてもよさそうなものだが。私はロッカーから封筒を取り出し、中にある望遠レンズで撮られた写真を取り出した。身長も前髪も伸びるところまで伸びましたと言った容貌の少年が映っている。
データならともかくモノとしてあると処分が大変だ。放置。スッ……と封筒に戻し見なかったことにした。
「芥川さん、これ持っといてくださいよ」
「A−! 絶対嫌だC―!! 気味悪E―!!」
アルファベット三連発するほど嫌か。無理もないと思いつつ、しかし使えるものは使っていきたい。
「なんかあったときのためっすよ。保身になります」
「……なんかあったらって、なんだC」
「相手の出方次第なんで、それはわかんないすけど」
芥川さんが悲しげな顔をするので私が悪いことをしている気分になる。いや、しているのかもしれない。
「名取先輩には、間違いなく何か起こります。芥川先輩にだって、なにもないとは限らないっす」
「……」
「芥川さんのチームメイトを疑うような真似して、すんません。でも、芥川さんがこれ持ってるだけで安心材料になるんす」
「……」
芥川さんは寄せた眉をそのままにちらりと私を窺がった。私はその大きな瞳を見返した。
「私を安心させてください」
頼むから、と駄目押しすると、ついに芥川さんが折れ、ボイスレコーダーを手に取った。
「持っとく、だけだかんね」
上目遣いに念押ししてポケットに押し込んだ芥川さんは、唸りながら床に溶けた。

「やっぱここからじゃ見えにくいっすねえ」
放課後、ひとりになった教室で私はテニスコートを見ていた。とても見えにくい。よくここを根城にしていたファンの人はこれで満足できたな、と感心する。うーん、執念。
遠目から見た感じ、なんとなく個人が特定できた。
今コートに入ってきたのが樺地くんで、樺地くん担がれているのが芥川さん。
細くてサラサラの黒髪をひとつに結い上げて青い固まりを運んでいるのが先輩。
それから同じように別方向のコートで動いている、男子テニス部とは色違いの女子テニス部のジャージを着ているのが『ヤヨイチャン』。
ここからでも飛距離が以上の赤髪の少年(年上だが)や、先輩張りに長い黒髪のひとは芥川さんの話によく出てくる。話題になったひとは眼鏡のひと他何人かいるのだが、ここからでは判別不能だ。
「アトベケイゴは……っと」
見回してみるが見当たらない。いないのだろうか。それともわからないだけか。なんにせよ、私にとってはいないも同然だ。一度見ておきたかったのだが、と残念に思う。
まあいないものはいない。そんなことより、『ヤヨイチャン』だ
……仕事は普通にこなしているように見える。むしろ、かなり熱心に。
どんな思惑があろうと、汗だくになってコートを縦横無尽に走り回っている。
「……」
まだ決まったわけじゃない。推測ですらない、ただの勘だ。
私は双眼鏡を下して、真っ青な空を仰いだ。

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