何の変哲もない日だった。
ただ少し、有名な卒業生が来ているとかで、校内が騒がしい。そのひとは海外を拠点に活躍しているひとらしく、何か大きな賞を受賞したらしく母校に報告をしに帰国しているのだそうだ。
遠月学園高等部の卒業生と言えば、毎年片手の指で足りるという、つまり選りすぐり過ぎのエリートだ。
矢切が興奮気味にそのひとの受賞がすごいことなのか力説していたけれど、私はそういうもののはわからない。途中からテレビを見ているような気になったくらいだ。
それに別に、講演会があるとか指導してもらえるとか、そういうこともない。
まあつまり、とんでもない卒業生が来ていようと、全くの無関係ということで、今日は何の変哲もないひということである。
とはいえ校内はどこも大騒ぎで、いつもつるんでいる人も程度の差はあれどテンションが高い。研究会の先輩もはしゃいでいたし、あのひとたち、なんだかんだ結構ミーハーだからな。
ついて行けない私はどうも居づらくて、他人のいない方へいない方へと進むうちに、特別教室棟へやってきた。
実習棟や教室棟ならいざしらず、授業中はそれはそれは騒がしいこの部屋も、放課後となれば人気はぱったりとない。
意味もなくこの辺をうろちょろするのも不審人物にしか見えないので、どこかに腰を据えたい。
せっかくなので次の新作を練りたいのだ。
どこかいい感じの場所ないかなー。
そう思いながら突き当りの角を曲がろうとすると、だれかがにゅっと出てきた。おっと。
「あ、すみません」
俯いていた顔をあげるついでに確認したところ、どう見ても年上だ。大人のひとだった。
ささっと避けて道を譲る。
眼鏡をかけたオトナな雰囲気のかっこいいひとだ。
こんな先生みたことないぞ。先生全員の顔を把握しているわけではないけれど、こんなひといたら絶対噂になってる。料理人の卵といえど、わりとミーハーな人たちが多いのだ、今日の騒ぎで分かるように。
……もしかしてこのひと、噂になってる卒業生かな。
譲ったまま足を止めて考えていたが、はっとして後ろを振り返った。残念なことにもう人影はなかった。
まあいいか、と思い直して、前を向いた。
――その途中でばちりと視線があった。
思わずビクッと身体が跳ねた。と、止まってただけか……歩くの早いと思った……。
「……」
「……」
前に向き直ろうとした中途半端に身体を捻った状態で固まること数秒。めっちゃ見てくるなこのひと。道はちゃんと譲ったし謝ったし、失礼なことはしていないと思うけど、何かやらかしたのだろうか。今までのことざっくり言えば前科を思い出し、冷や汗が滲む。
「おまえ」
「ハイッ」
またビクッと肩が跳ねた。びっくりした。
おそらく噂の卒業生であるそのひとは、手を口元に当てて、じっと私を見据えたまま言う。
「高等部の宿泊研修で関係者を招いて行われるビュッフェに来たことはあるか」
宿泊研修? そんなのあるの?
知らない、当然行ったこともない。そう言いかけて、はたと首を捻った。
「……一度、すごい高級そうなホテルのバイキングになら行ったことありますけど、主催まではわからないです。親戚に連れて行ってもらっただけなので」
幼いときの話だ。
祖父が自慢げにひらつかせて誘ってきたバイキング(ビュッフェが正式名称なのだろうか)に行ったことがあるけれど、印象があまり残っていない。そのあと祖父に叱られた記憶がうっすらある程度だ。
そういえばそれ以来外食が増えた、気が、する。
私が答えになっているのか分からない曖昧な返事をすると、彼の眉間に皴がよった。
しまった。これくらいなら普通にNOで答えておけば良かった。
私は頭を抱えたくなりながら、どうにかこの場を立ち去れないか考え始めた。その私の思考を読んだかのように、彼は私の腕を掴んだ。えっ。
「いやァ、まさか」
「えっ」
「こんなところで会えるとはなァ……?」
ニィと笑った彼の顔に、不自然な影が差した気がした。えっ。
* * *
ドン。そんな効果音がつきそうな雰囲気とは裏腹に、その皿は音もなく丁寧に私の前に並べられた。
あのあと、腕を掴まれた私はズリズリと来賓用の厨房へと連行された。
私をテーブルに座らさせたあと、彼は「ここで待ってろ」と言い残して去っていった。
残された私が従った場合と逃げた場合のメリットデメリットを考えた後、逃げようとしたタイミングで帰ってきた彼は、抱えていた食材を下してから私に制裁を与えた。り、理不尽……。
大人しく座っていろと申しつけられたついでに「あなたはどなたですか」と震えながら尋ねると、
「これだから……」と謎の悪態をつかれたのちに、「ここの卒業生の四宮だ」と名乗られた。
「あ、やっぱり……」
「なんだ、知ってたのか」
「そりゃあまあ、学校中で噂ですよ……」
なんで意外そうな顔をしているんだ。そっちの方が意外だ。
ともかく、彼はやはり噂の卒業生らしい。
謎はひとつ解けたが一番知りたい謎が謎のままだ。料理中の背中にすごく遠回しに拉致られた理由を問うと睨まれた。怖い。やはり料理中はダメだったか……。
そんなこんなで待つこと数十分。自棄になって待ち時間に新作料理について考えていると急に後ろから覗き込まれてビックリした。このひとは心臓に悪い。
そしていま、私の目の前に一品が置かれているというわけである。
「えーっと?」
私は皿と四宮さんとを交互に見比べた。
微動だにせず見つめられるので、ヒイ、と怯えつつ、添えられたナイフとフォークを手に取った。ちらりと伺うと心無し満足げだったのでたぶんこれで正解なのだと思う。
恐る恐る一口大に切ってから、私はそれを見つめる。キレイだ。なんて料理だったかな。確かフランス料理の……。
あとで調べよう。
そう思ってから、ぱくりと一思いに食べた。
腰が抜けた。
私は今、腕を机についてなんとか座っている。なんだこれ……なんだこれ……。
四宮さんが近くで何かしゃべっているけれど、今体重支えるので大変だからちょっと待ってほしい。
「どうだ」
「どう、って、おいしい、です」
感想を問われ、途切れ途切れに答える。饒舌な感想はちょっと勘弁してほしい。腕痛くなってきた。
あなたのせいだぞ! と四宮さんの方を見ると、ガッツポーズをしていた。なぜ。
私このひとになにかしたんだろうか。したんだろうな。でなきゃこんなイチ生徒にタダで料理なんか出さない。
何したかは待っている間考えていても思い出せなかったので、もうあきらめている。たぶん言ってたビュッフェが関係あるんだろうけど分からないものはわからないので仕方がないのである。
なんにせよこんなにおいしいものが食べれたのでオールオッケーだ。グッジョブ過去の私。
「はあ〜……。こんなにおいしいもの食べたの、誕生日以来だ……」
ようやく腰に力が戻ったのて椅子に座って息をつく。それも束の間、ガッと肩を掴まれた。
「ん!?」
「誰だ」
「え、え!?」
「その誕生日の料理を作ったやつは、誰だ」
目が怖い。瞳孔開いてる開いてる。
「は、母です……」
「あ? 母親だと?」
「私の母は四宮さんと同じようにここの生徒だったひとで、料理上手なんです。や、そういうレベルでもないんですけど」
「何期生だ、卒業生か」
「た、たぶん……?」
そんなに詳しい話を聞いたことはないのでわからないけど、何も言われてないのでたぶんそうだ。途中で退学してたら絶対言ってると思う。困ったような笑顔が容易に想像できる。あ〜、お母さんの料理久々に食べたい。
四宮さんは私の返答に舌打ちをしたあと、何かを考え始めた。私は解放された肩にほっとしつつ、再び食べ始めた。おいひい。
ぺろりと完食した私は、悶々と考え込んでいる四宮さんを放置して、後片付けを始めた。あ、この野菜いいやつだ。貰えないかな。
大方片づけ終わり、あとは食材だけだ。
「あの、四宮さん」
「あ?」
「この食材なんですけど……」
「ああ、貰っていっていいぞ」
「やった、ありがとうございます」
太っ腹だ。最初は驚いたけど、ご飯はおいしいし食材はくれるし、いいひとだ。
さらに何やらご機嫌そうな四宮さんは私の料理ノートを指さしながら言った。
「なんなら、おまえの料理みてやろうか?」
「結構です」
「……。遠慮するなよ。こんな機会そうそうないぞ?」
自分で言うのか。いや、実際そうなのだろうけど。
信条(たぶんこの言い方も正しくない)的にちょっと了承はできない。
「いやー、ほんと大丈夫なんで」
へらりと愛想笑いを浮かべて言うと、四宮さんの機嫌が急落した。眉間の皴に気付いた私は慌てて言葉を継いだ。
「いやっ、あの、なんていうか、こんな急に、ありあわせで作ったものをあの、あの四宮さんに出す何て、ねっ、失礼じゃないですか!」
ぱたぱたわたわた、見苦しいレベルで手をはためかせていると、四宮さんが私の脳天に手を振り下ろした。痛くはない。軽い衝撃と共に「おちつけ」という言葉。
「わかったわかった、じゃあせいぜい高等部まであがってくるんだな」
「高等部?」
呆れたように肩を竦めた四宮さんの言葉に首を傾げれば、四宮さんはニヤリと笑った。
「一年である宿泊研修――そこまで来て、おまえの実力を俺に示してみろ」
私を拉致した時とは違って、なんだか楽しそうな表情だった。
――ところが数年後、確かに彼と私は再会した。しかしそれはここではない、海の向こうの遠い町でのことなのだった。