分かっていたことだけど、名取先輩に避けられている。
昨日は挨拶しにきてくれたけれど、それ以降は全くだし、今朝に至っては挨拶にすら来てくれなかった。そもそも先輩に毎朝挨拶しに来させるのはどうなんだという疑問が浮かんだが無視だ。そんなこと今更だし今考えることでもない。
「……」
机に頬杖ついて、手で押しつぶされている方の頬に空気をためてみる。ぷくぅ、と自分の頬が膨らんだのが分かった。それを圧し潰せば、口から空気が逃げていく。
それを数度繰り返す。
「……灯木さん」
「うっわあ!?」
背後から突然声がして、思わず椅子から跳ね上がった。
慌てて振り返れば、樺地くんの姿。
「ど、どしたんすか……? 朝に来るなんて、珍しいっすね?」
「……」
芥川さんのお迎えでも、掃除に来たわけでもないようだ。というか、樺地くんが掃除してくれているとはいったものの、許可を取りにきたから知っているだけで、実際に掃除洗濯している姿を見たことはない。いつの間にとは思うのだけど害はないし、むしろ得しかないし、追及はしないようにしている。なぜか弦の恩返しを彷彿とさせるのだ、彼は……。なぜだ……。
「……」
「……」
「……灯木さん」
たっぷりと間を取って、彼はもう一度私の名を呼んだ。
「はい」
真剣な彼の眼差しに、身体ごと振り返って向き合う。距離、1メートル強。ひとひとりぶん空いた距離。
私と彼との、適切な距離感。
それを、彼は半歩詰めた。そしてゆっくりと頭を下げる。
「……よろしく、おねがいします……」
「!」
私の目線よりも下にある彼の頭と思わぬ言葉に私は目を見開いた。
「樺地くん……」
躊躇いがちに声をかけても頭を上げようとしない彼は、どこまで気づいているのだろう。樺地くんについては、わからないことだらけだ。それでも言わんとするところはちゃんと伝わった。
「任せといてください!」
私は胸を大きく逸らして、宣言した。
「大丈夫、私は天才っすから」
にひっと笑って、手の届く場所まで降りてきた彼の頭をぐしゃぐしゃにする。短いと全然乱れてくれなくてつまらない。天パの芥川さんも乱し甲斐ないし、テニス部にはもうちょっと頑張ってほしいものだ。
「面倒ごとは私がなんとかするんで……――樺地くんは、存分にテニスするといいっすよ!」
私はひざを折って、抵抗なく撫でられていた彼を下から覗き込んだ。目があったので、右の口角を釣り上げてみた。ウインクができれば完璧だったのに、練習しよう。そう意気込んでいると、樺地くんが頭をあげた。それをきっかけに、私と彼は適正距離に戻った。
「…………ありがとう、ございます……」
たぶん、情報が不十分だと言い訳しながら名取先輩に会いに行かなかったのは、怖かったからだ。
完全なるお節介。頼まれたわけでもないし、むしろ彼女は私に隠そうさえしている。可愛がってもらっている自覚はあるし、私にとっても大切な人だ。それでも、やはり隔たりはある。
先輩に会うために必要なのは、彼が踏み出した半歩分の距離だ。
足りなかった勇気をくれたのは間違いようもなく樺地くんだった。
彼は私に礼を言ったけれど、感謝したいのはこちらのほうだ。
「約束は遵守が心情なんで」
お礼替わりに、芥川さんからもらった安心をお裾分けできていたらいい。