その笑顔はレッドカードです
「どうしよう」
自転車にまたがったまま立ち尽くす私。
その生物と見つめあいながら、出てきたのはその一言だけだった。
徒歩十分の大学へ、いつもより早く出たのがいけなかったのか。
昨日、少し体調が悪くて八時という幼子が寝るような時間に寝てしまい、朝起きたらそれはもう憎いほどに絶好調。
しかも四時なんて時間に起きてしまった。
課題のレポートも最近提出したばかりで、少し早いけどまぁいいかなんて考えながら家を出て、大学と家のちょうど間に、それは居た。
「カメ……だよ、ね?」
違うと言われてもどうすればいいやらわからない。
目の前に居る。というより落ちているその緑っぽい物体は十中八九カメである。
この辺は人通りが少なく、道も細い。車はほとんど通らないので轢かれる心配はないだろう。
というかこの辺りに水場はなく、最近は晴れ続きで水たまりすらない。凡そカメが居るような場所ではないのだけど、この子はどこから来たのだろう。
(うーん、ほっといても、いいかな……?)
疑問はあるが、だからどうしたという話だ。
甲羅から除く小さな尾を見ながらそう決めて、自転車で通り過ぎようとしたときだ。
不運なことに、カメって鈍いんじゃないのかと私の中の常識を覆すほど俊敏な動きでこちらを向いたそれのつぶらな瞳と、
(……目、合っちゃった)
「……」
「、えーっと……」
「…………」
「……その、」
「………………」
ちょっとカメさん止めてくださいそんなつぶらな瞳でみないでくださいお願いします。
壮絶なにらみ合い(一方的にガンつけられた気がしただけだ)の末、私が折れた。
自転車を脇に停め、カメの前でしゃがみこむ。まずは甲羅を突いてみようと恐る恐る指先を近づけてから、そういえばこれが一番危ないんじゃなかったっけと脳裏にどこかで聞いた情報が沸く。
慌てて引っ込めようとしたとき、カメは顔を近づけ、私の指にすりすりとひんやりした肌を寄せた。
「……かわいい」
チョロいという自覚はある。
カメと触れ合ったのは初めてだが、こんなに人懐っこくてかわいいものなのだろうか。
すっかり心を許した私は両手で緑色のカメを両手ですくい上げるように持つ。
……カメの持ち方ってこれでいいのかな。飼ったことないからわかんないや。
カメは標準的な私の掌にすっぽり収まるくらいに小さく、甲羅で重そうだったけれど意外と持ち上げられるものだ。
「カメさんカメさん。何処から来たんですかー?」
周囲に誰もいないのをいいことに、私はカメさんに顔を近づけ語りかけてみる。
「……答えたら私はキミを投げるけどね」
理不尽なのはわかってますとも。
遊ぶ私を無視してカメさんは懸命に首を伸ばしてプルプルしている。なんだろう。先ほどのように今度は顔にすりすりしてくれるつもりなのだろうか。流石にそれはちょっと怖いかな。生臭そうだし。
やがてカメさんは諦めたのか、私の掌に顔を寄せている。
すりすりするの好きだね、可愛い奴め。
私は頬が緩むのを自覚しながら、現実の方に頭を悩ませ始める。
さて。どうしたもんかな。
時間もあるし、一回家に戻ろうか。
でも家に水槽とかないし。
飼い方わかんないし。
水の中で生きていけるんだっけ。
ネットで調べようかと思ったけれど、私の携帯はそういうのは無理だし、となると一度大学に行かなくてはならない。
「うーん。大学、動物持ってきちゃいけないんだよなぁ」
学科や校舎ごとにそういった決まりはばらつきがあるが、私の通うところは禁止だ。こういうときに生き物を扱っているゼミとかに入ってたりすると一時預かってもらえるんだろうか。なんだか実験に使われそうだ。偏見偏見。
「バックの中に……、大人しくしてくれないか――うわ!?」
講義中に出てこられても困る。
そうぽつりと漏らした私の独り言に反応したのか。
カメさんは私の手からするりと離れると、肩にかけていたバックのポケットの中に入り込んだ。
このバックは中学生から使っている年季の入ったやつだ。気に入っていたのだが壊れかけで、そろそろ買い替えるかと悩んでいたものだが、貧乏性が災いしてどうにも決心が出来なかったのだ。だからカメさんが入ってもなんら問題はないのだけれど……。
その古びたバックの中で、カメさんは私を見上げている。
(私の言葉とか、わかっててやってる?)
カメって賢い動物なんだね。
***
私は大学についてから共用のパソコンの電源を入れ、ネットにつないだ。
検索フォームに【カメ 飼い方】で入れてみる。
(小さい子でも飼えるくらいなら、私でもできそう……? お祭りで獲った金魚は二年で死んじゃったけど、大丈夫かな)
私はバックの中で身を潜めるカメを一瞥し、画面を更にスクロールしていく。
(なんか危ない種類とかあるんだ。このカメさんはなんなんだろう。……道端で拾ったのって流石に不味いかなあ。でも可愛いし賢いし)
なんとかなる! なんとかする!
私はそう意気込んで、画面を閉じた。
カメさんは講義中、どころか大学にいる間中、ずっとポケットの中で大人しくしていた。
何と粗相もしていない。偉い。
心配なのは餌だ。
キミ、最後に食べたのはいつかな?
幸い今日の講義は午前中だけだったので、スーパーマーケットに入った。
今朝調べたときにとったメモを見る。
コオロギ、赤虫。
「……保留で!」
ペットショップで粉末状になってるやつが売っているらしいので、買うにしてもそちらだ。
カメさんにあげられて、かつ自分でも食べれるものがベストだ。
「バナナね」
いいんじゃないだろうか。
とりあえずこれでいいかと決め打って、ついでなので自分用の食材も籠に入れていく。
豆腐、卵……あ、特売だ。牛乳、ティッシュはあったかな。キャベツはまだ1/4玉残ってたはず。人参、トマト、鶏肉。
「魚肉ソーセージ、お徳用……」
そのボリュームと値段の不釣り合いさに思わず足を止め呟く。
もぞもぞっとバックが動いた。
「…………食べたいの?」
バックに向かって小声でそう訊くと、またもぞっと動いた。
……ソーセージ食べるんだ。
サイトには書かれていなかったと思うのだけど、本人(本カメ?)がいうのなら食べるのだろう。
人の言葉がわかるくらいのハイスペックさんなので、ここは希望に従っておく。亀は万年って言うし、きっと人間に分からないことがあっても不思議じゃないと思うんだ。亀仙人的な。……あれは人間か。
何はともあれ、私はお徳用の袋とちょっと普通のソーセージをカゴに入れ、レジに向かった。
***
We are in the park.
調子乗って英語で言ってみる。
調子に乗っているというか、調子が落ちすぎてテンションがから回っている。
帰ってる途中、私はアパートがペット禁止だってことを思いだしてしまったのだ。
カメは犬や猫と比べて確実にバレにくい生き物だとは思うのだが、今いるアパートはかなりいい条件なので、うっかり追い出されでもしたら笑えない。
「はあ……。あ、切らなくても食べれる……?」
重苦しくため息をつきながら、カメさんに向かって魚肉の方のソーセージを小さく切って差し出した。
カメさんは私の膝ので大人しく待っていたが、近づけると首を伸ばしかぶりついた。大きい口だ。コワ可愛い。
試しに普通のソーセージも開けて同じように差し出してみる。追加の魚肉ソーセージと一緒に並べる。
「はい、どうぞ」
きょろきょろ二つを見比べて(もしかしたら匂いを嗅いでいたのかもしれないが、カメ初心者の私にはそんなことは分からない)、パクッとカメさんがかぶりついたのは魚肉ソーセージの方だった。ちょっと大きめだったせいか、半分ほど残っている。
「魚肉の方がお好みなのね。……ていうかふつうに噛みきったけど、どうなってるのかなキミのお口は」
歯とかついてないよね、圧力?
不思議でならないけど、これがきっとカメってもんなんだろう。
カメさんが食べているのを見ながら、私は普通のソーセージの大元を食べた。放置された部分はカメが触れた場所に乗ったので流石に不衛生かと躊躇ったけれど。
カメさんはパクパク魚肉ソーセージを食べ進め次を要求してくる。ほいほい差し出していたら、ついに一本食べきってしまった。
「キミ、食欲凄いね」
次はバナナにしようとスーパーの袋に手を伸ばしたものの、カメさんが私の膝を頭でグリグリと押したので、お徳用の袋を取ると頭を離した。
なるほどこっちをご所望ですね。
私はもう一本マジックカットを切った。私は反対の手だけで普通のソーセージをお徳用に移し替え、空いた方の袋にカラを入れた。我ながら器用である。それから口を使えばイケるか、と謎のチャレンジ精神を沸かせてバナナに手を伸ばしたときだ。
「――――!!」
公園に響いた男性と思われる人物の声。
驚いて顔を向けてみれば、脱色した髪の男の人がいた。
何かを叫んだようだけど、よくわからなかった。
なんだなんだと野次馬気分でそのひとを見ていると、なんとそのひとは私の方にやってきた。どうやら私は野次馬ではないらしかった。
駆け寄ってくるにつれ、そのひとが物凄い美形であることがわかった。
日本人離れしたスタイルに感嘆していたが、顔立ちを見るに外国の人だ。髪も人工ではないようで、私は染髪には詳しくないが、とても自然だった。欧州系のようだし、地毛なのだろう。
さて、そのひとが美形にしろ不細工にしろ、問題は私に何の用かということだ。
(え、なに? なに? ソーセージ? ソーセージが食べたいの? そこのスーパーで売ってるよー!)
私は混乱しながら訳の分からないことを考える。ぐるぐる目を回していると、そのひとの後ろに中年の男性の姿が見えた。ガタイが良い、スーツ姿の、強面の、男の人……って!
だぁーっと背中に冷たい汗が流れる。
どう考えても、一般人じゃなさそうだ。
逃げなきゃ! だめだ動かん!
パニック状態な私を現実に引き戻したのは、数メートルの距離まで来てしまったそのひとの一言だった。
「エンツィオ!」
「えん、つぃお……?」
私は訳が分からずその人を見上げた。
聞きなれない言葉に思わず反復する。何語?
脳内にどういう意味だと考える私と、「かっこいいなこの人!」と一周回ってハイな私が居る。ちがう。いまはそこじゃない。だめだ全然落ち着けていない!
「え、っと、えん……なんちゃら、って」
日本語でいいのかと思いしどもどろになってしまう。そうでなくとも怖いのだ。動揺は留まるところを知らない。
「――、――。……あー、そいつの名前だ」
どうやら彼の方も平静ではないようで、私の言葉にはっとしたように日本語に切り替えた。
喋れるんだ。良かった。
そしてそいつと指さされたカメさんの名前はえんつぃおというらしい。発音しにくい名前である。イタリア系だろうか。
「そ、そうでしたか。カメさんの保護者さんですか」
「保護者? ああ、まあそうだな。こいつ、アンタが拾ってくれたんだな。ありがとな!」
人の良さそうなそのひとの笑顔に、私は少し警戒を解いた。何が目的かはっきりしたのも大きい。
「いえ、お構いなく。とってもいい子で、手もかかりませんでしたし」
「そうか。よかった。こういうことは初めてで、ほんと焦ったが、無事でよかった」
カメさん改めエンツィオさんを見て、よかったよかったと繰り返すそのひとを見ていると、辛うじて保っていた警戒心がどろどろと溶けて行った。公園の入り口で待機している黒服さんの連れであるこのひとはどう考えてもヤバいひとなのだけど、平和ボケした私は緊張するのに慣れていないのだ。
私は膝の上でソーセージを咀嚼していたエンツィオさんを掬い上げた。
「キミ、迷子だったんだね。ご主人さまがお迎えに来たよ」
言うと、賢いエンツィオさんは私を見上げて、それからそのひとを見上げた。やっぱりかわいい。
たった半日ですっかり篭絡されてしまった私は手放すのを惜しく思いながらも、そのひとに向かって差し出した。
そのひとはエンツィオさんを受け取って、さらに頬を緩めた。肩に乗っている様子が堂に入っている。我が家ですとでも言いたげな態度だ。このひとのカメだと見せつけられた気分だった。
内心かなり凹んでいると、そのひとはベンチの上の食べガラを見て何やら頷いた。
そのひとが振り返ると、颯爽と黒服さんがやってきた。
「ロマーリオ」
その一言ですべてを了解したらしい黒服さんはどこからともなく分厚い革財布を取り出した。そしてその中から紙幣を一枚、二枚……。
「え!? あっ、いいですよ、これくらい!」
何が起こっているのか漸く理解した私は慌てて手を振った。
お徳用ソーセージ二本なんて諭吉どころか英世の出る幕でもない。鳳凰堂で十分だし、それをせびるほど貧乏学生というわけでもない。
それよりも黒服さんとの力関係が判明してしまったこのひとからお金を受け取ることの方が大問題だった。怖い! 誘拐したはずの警戒心が戻ってきて警鐘を鳴らしている。
「ダメだ。払わせてくれ」
ふわふわな金髪を揺らしながら首を振って、ダメ押しとでもいうように真剣な顔で私を見つめた。
「アンタみたいな綺麗な御嬢さんに奢ってもらうなんて、男の風上にも置けねー」
「き、れ……っ!?」
じっと金色の双眼で見つめながら言われて、お世辞だと解っていても顔に熱が集中する。
うう、やっぱりイタリア男ってこうなのか。イタリアの人はみんなこんな口が上手いんですか。
日本人=カメラのような民族性イメージだと思っていたのだが、こうして目の前でやられると実感する。
「な?」
爽やかに笑うそのひとに流されそうになるが、間一髪、私は首を横に振った。
イタリア人の民族性がなんだ! それなら日本人の遠慮魂を見せてやろうじゃないか。
「本当に大丈夫ですよ。私の買い物のついでですから」
「いや、」
「あ、それにほら。私もエンツィオさんに癒されましたし。可愛いし賢いし、最高でした。ありがとうございました」
私はそのひとが何かを言う前に畳みかける。
よしよし、良いペース。
にやにやと私は内心笑いながら、表面ではしおらしい顔をする。本当に困るのだと眉を下げ全力で訴える。
「……」
うーん、と腕を組んで考えだしたそのひとに、私はもう一押しだ、と頭を回す。
私の勝利条件はお金をもらわないこと。
このひとの目的はなんらかのお返しをすることなはずだ。それが金銭以外でできるのならそれでもいいはず。
そこまで考えて、私はピンと閃いた。
「じゃあ、名前教えてもらえませんか?」
これが俗にいう逆ナンというやつだろうか。
そんなことを考えながら私は提案した。
「名前?」
「はい、かっこいいおにーさんに出会った記念にします」
ついでにお世辞(このひとがかっこいいのは紛れもない事実なのだが)のお返しをしながら、笑って見せた。会おうと言っているわけではないので、名乗っちゃダメな人ならきっと偽名か何かしらでごまかしてくれるはずだ。もう会うことはないだろうし、なんら問題はない。
そのひとは一瞬驚いた顔をしたが、
「ディーノだ。よろしくな」
と輝かんばかりの笑顔でそう言って手を差し出した。
うわああすごいかっこいい。
自分がけしかけたことなのだがすごくドキドキする。
私はどきまぎしながらその手を握り返した。大きくて骨ばっていて、男の人って感じの手だ。
これは寧ろ私がお金を払うべきなのかもしれない。
握手会に参加したような気持になった。
「本当にこんなことでいいのか?」
そのひと……ディーノさんは少し不満げな顔で唇を尖らせる。
私は熱を持った顔を仰ぎながら、「はい!」と有無を言わせぬよう元気よく返事して、バックとスーパーの袋を持つ。お徳用袋をスーパーの袋にしまおうとして、エンツィオさんの視線に気づいた。
「……あの、カメって魚肉ソーセージ食べてもいいんですか? 食べたそうだったので、あげちゃったんですけど」
「カメ? ――ああ、こいつはスッポンだぜ」
「え? スッポン?」
言われたところで見分けなんかつかないのだけれど、カメではなくスッポンらしい。スッポンって何食べるんだろう。
「まあこいつが食べたんなら大丈夫だと思うぜ、だいたい何でも食べるからな」
「そうなんですか」
「オレもたまに食われるくらいだ」
ディーノさんはそう言って笑った。エンツィオさんに指を噛まれているディーノさんを想像して私も笑ってしまう。もしかしたら大事なのかもしれないが、それが分からない私にはただの微笑ましい光景だった。それにエンツィオさんならきっと甘噛みしてくれるはずだ。
「これ、エンツィオさん気に入ったみたいなので、安物ですけど良ければ貰ってください」
いつのまにかロマーリオと呼ばれた黒服さんはどこかへ行っていて、気の抜けた私は軽い気持ちでそれをディーノさんに押し付けた。短い間だったが癒してくれたエンツィオさんへの餞別だ。悲しいけれど、もう二度と会うことはないだろう。
返事がある前に「それでは私はこれで」と頭を下げて、駆け足でその場から立ち去った。