フェルヘート・メイ・ニート


 食事の後、数回でえとをし、お互いの身の上を話した。お互い両親を亡くして御琴羽教授にお世話になっているという。まあなんて偶然、なんて言いあった。そのころ、彼は弁護士になりたてで、周りからは弁護士とは?という怪訝な目で見られることが多くて、私が弁護士についてきかれたというと、その度に面倒をかけてすまないと謝られた。  じき、私と一真さんはひっそりと式を挙げた。今私と一真さんが住んでいた、一真さんの実家で少ない身内や友人とでの事だった。私は幸せだったし、その後の暮らしも楽しかった。  私は家事をしつつ、週に数回呉服屋でお針子をしていた。明治、この時代は女性は家を守るものだと言われていたので、周りからは嫁入りした娘が働くなんて、といい目で見られなかったものの、一真さんは女性にも働く自由はあると、肩を抱いてくれた。  朝起き、朝飯を作り、一真さんと朝飯を食べ、共に家を出て、シャツを仕立て、家に帰って飯を作り、一真さんを出迎えて、ご飯を食べ就寝。この毎日がずうっと続けば良いと思っていた。

「俺は大英帝国に行かねばならない」

 けれど一真さんはよくそれを口にした。白米のおかわりを自分でよそい、味噌汁を啜りながら話した。
「司法を変える使命がある。その為には、大英帝国にいって学ばねばならぬ」
 もちろん私はその夢を応援していたから、留学をしたいと言った時に潔く送り出した。試験を第二席で合格し、留学の座を勝ち取ったぞ!と自慢げにいい、私を洋食屋へ連れ出したことを思い出す。一真さんはビフテキが好きだったから、私もビフテキと炭酸水を頂いて、大英帝国への行き方や、共に留学する法務助士は寿沙都さんだということもそこで聞いた。
 洋食屋の帰り、夜の道を二人で歩けば、もう夏も終わる頃だったと思う。蝉の声がした。成歩堂へ別れを告げねばな、だとか、貴女がいったら部屋が寂しくなりますね、などと二人で話しながら歩いたがふ、と会話がやみ、無言で歩く。その時、何気なく一真さんを見上げると、彼の瞳はどこか、大英帝国の奥深くを覗いていたような気がして、思わず彼の腕を掴んだ。
「なんだ、なまえ。俺のことが恋しくなったか」
「そうかもしれません」
「では、腕を組んで帰るか」
「そんな、恥ずかしい」
「夜で人通りも少ない、誰も見る奴はいない。それなら恥ずかしいなんてことはないだろう」
「…じゃあ、失礼して」
 腕を組み一真さんの方に頭を傾けるようにして、家へと帰った。

 別れる前日はあっさりしたものだった。「船に乗るから、明日にはもう列車でここを発つ」「駅までお見送りしますね」「ああ」その会話をした夕飯が、私と一真さんの最後の晩餐だった。
 白米と味噌汁とお漬物、少し奮発して刺身と、一真さんから貰った大英帝国のレシピ本を元に作った洋食が何品か。まだ作りなれていないから、美味いかどうか心配だったけれど「貴様の飯は本当に美味い」といいながら、すべて平らげてくれた。
 布団は二組、その日だけははくっつけて寝ようとしたら、一組でいいといって、私の布団に一真さんはいそいそと入ってきた。「まあ、せまいです」「最後の日くらいいだろう」温もりを間近に感じながら目を瞑り明日のことを考えたら、思ったよりもきゅうと胸が寂しくなった。
 見送りに成歩堂さんは来なかった。岩手に帰省だとかなんとか。御琴羽様と私が駅のホームにて列車の個室まで二人の荷物を運び込むのを手伝っていると、一真さんは大きなトランクを二つ、列車の部屋に放り込んでいた。
「では、なまえ達者で。台湾についたら便りを……もちろん大英帝国に着いてからも出すから待っていろ」
「先が長いですね」
「うむ、一瞬で大英帝国につけばいいのだが、そうはいかないからな……ああ、もう時間だ」
「もうそんな時間でしたか!では……一真さん、良い船旅を。寿沙都さんもお気を付けて」
「なまえさま…わたくしもお手紙をお出ししますから、待っていてくださいね」
「ではな」
 本当に別れも、あっさりしていた。
 寿沙都さんは少し涙ぐみながら、私に手をふっていた。私もまけじと手を振っていたが、亜双義は微笑むだけであった。

 その見送りから私は奉公に出ては呉服屋で服を仕立てていた。腕が上がったと褒められるほど働いた頃、御琴羽様がやってきた。「亜双義一真が死んだ」冒頭のその報せである。


 別れから半年経った頃には寿沙都さんや成歩堂さんから便りが届いた。「拝啓 亜双義なまえ殿。私成歩堂龍ノ介と御琴羽寿沙都は今、シャーロック・ホームズなる名探偵家に世話になり候」寿沙都さんの方からの手紙は、憧れのシャーロック・ホームズと暮らせている事実や、一真さんの意志を成歩堂さんが継いだことや、成歩堂さんの活躍を綴ったものが書かれていて、頬が綻んだ。
 そういえば、ふと考える。一真さんの、やりらねばならぬこととは何なのだろう?と、文を漆塗りの箱にしまったところで考える。そういえば聞いていなかった、司法を変えることだろうか?でも、そうではない気がする。洋食屋の帰りにしていた、彼の瞳がそう語っていたような気が、ふつふつとしてきた。彼は熱く司法を語るばかり言って何も話さなかったものだから、問い詰めたくとも話が終わる頃には私がその事を忘れてしまっていたから。
 思案をしていた頃、御琴羽様が家に訪ねてきた。
「今回はなんでしょう」
「唐突のことで、私も伝えかねるか悩んだのだが」
 私はそれをきいて御琴羽様を部屋にあげてからしっかりと戸を閉めてくると、御琴羽様は苦しそうに話し出した。
「護送される予定だった亜双義くんの遺体が、突然消えてしまいました」
 まるで……木槌を後頭部に受けたような衝撃が脳裏を突き抜けた。
「そ、それは遺体が攫われたと」
「おそらく…本当にすみません。私どももこうなるとはおもっておらず」
「いえ……」
 それからの話はよく覚えていない。御琴羽様を送り出して、朝の残りの冷や飯を食べ、銭湯に行き布団に潜り込んだ。よく、分からなかった。兎に角、一気に脳みそが動いているのを感じた。
 私のこの、夫を亡くしたという実感がなかったのは、きっと、これなのだろうか。そして今私が落ち着かないのは、私が攫われたから亜双義一真の遺体がなくなったのではなく、彼が実は生きていてどこかに向かっているからだ、と考えているからだと。
 どこかで生きているの?今はどこにいるの?大英帝国へ向かっているの?
 一真さんの遺体が行方不明なのは、彼の亡霊がそうさせてるのか、彼本人の意思なのか、第三者の意志なのか?私はふと布団から起き上がり、大英帝国があるであろう方向へ手を合わせた。もし、生きているなら。どうかそれなら……私の事も忘れないで、とそう祈った。
 次の日から、目覚めた私は、帰ってくるかもしれない彼のために、洋シャツを仕立ている。