※先天性女体化、妊娠・出産描写等あり。


white lily bouquet



「……ベディヴィエール卿」
「……すみません」
「……別に責めているわけでは無いのですが……」
「……すみません……」
 早々と食器を置いてしまったベディヴィエールに声をけたのはトリスタンだった。このところ、ベディヴィエールはいくらも食べない内に食事を止めてしまう。「あまり食欲が湧かないのです」と申し訳なさそうに言われるとそれ以上は無理強い出来なくなってしまうのだが、トリスタンは彼女をかなり心配していた。
 全てアーサー王が悪いのだ。剣を捧げる相手としてだけではなく、ベディヴィエールが一人の女性としても彼を慕っていることは、トリスタンの目には火を見るよりも明らかだった。繊細さに欠ける他の騎士達は恐らくは気付いていないだろう。しかし、彼女の真摯な視線を長らく受けていたアーサーが気付いていないとは思えない。
 結婚するなとは言わないし、政略的に見ても彼はいつかはギネヴィアと結婚するしかなかっただろう。問題はその後の対応だ。
 これまでアーサー王の傍にそっと寄り添っていたベディヴィエールは、最近は主にギネヴィアの傍に控えさせられていた。これがベディヴィエールにとってどれだけの悲しみかアーサー王には分かっているのだろうか。彼の傍にいられればいいと、恐らく今の彼女はただそれだけを願っているというのに。
 女性でありながらその辺の暴漢などは一撃で倒してしまうベディヴィエールは、確かに王妃の警護にはちょうど良いのかも知れない。ベディヴィエールは複雑な胸中を完璧に隠した柔らかな笑みでギネヴィアと接していたし、王妃の方も落ち着きのあるベディヴィエールをとても気に入っている節がある。
 もしかしたらアーサーが命令したのではなく、ギネヴィアが頼んで傍に置いているのかも知れない。結婚した王のすぐ傍に女が控えているのも、倫理的な問題があるかも知れない。
 だが、そうだとしても――ギネヴィアの傍で貼り付けたような笑みを浮かべているベディヴィエールを見ていると、トリスタンは胸が痛くてしかたなかった。王には人の心はないのですか?と問い詰めたくなった。
 事を荒らげることをベディヴィエールが望むとは思えない。だから静かにそっと彼女のことを気遣っている内に――トリスタンは不意にその可能性に気が付いた。
「ベディヴィエール卿。最後に月のモノが来たのはいつです?」
 と。あまりにも単刀直入過ぎる物言いをしてしまった所為で、顔を真っ赤にしたベディヴィエールから思い切り平手打ちされてしまったけれど。

「やあベディ。産むかい?それとも堕ろす?」
 部屋を訪ねるなり、マーリンはそう問いかけてきた。「今日の紅茶はミルクにする?それともストレートがいい?」くらいの気軽い物言いであった。
 アーサーとギネヴィアの結婚式が済むと、マーリンはあっさりとキャメロットに帰ってきた。ただし何故か、男の姿で。
「アーサー王の周囲をサキュバスなんぞがうろついていては、ギネヴィア王妃様は落ち着かないでしょう?」
 そうアーサーと全く同じ声色でマーリンが語ったから、むしろ女の姿のままでいた方がマシだったくらいにギネヴィアはマーリンを気味悪がった。彼をあまり近付けさせないで欲しいとアーサーに頼みさえしたという。もしかしてそれが狙いだったのでは?と皆は訝しんだし、ベディヴィエールも同じ気持ちだった。しかし誰がどんなに苦言を呈しても。それこそアーサーから説得されようと、マーリンは女の姿に戻ろうとはしなかった。
 男の姿で簡単に産むだの堕ろすだの言われると余計に腹立たしい。先ほどトリスタンを平手打ちしていなかったら殴っていたところだし、逆に言えばマーリンに平手打ちを取っておくべきだった。一日にそう何度も人をぶつ気にはなれない。
 トリスタンは濡らした布で頬を冷やしつつ「心配しただけなのに……。でも確かにデリカシーに欠ける発言でした、すみません」と嘆きながらも反省していたが、この魔術師は殴ったところでベディヴィエールを咎めるだけで反省なんてしないに違いない。やはり、こちらをぶつべきだった。
「……この子はあなたの子、なのですか?」
 ベディヴィエールは腹に手を添えながら問う。
「そうであるとも違うとも言える。植え付けたのは私だけど、種はアーサーの物だ」
「…………。」
「わけが分からないという顔をしているね?アーサーが私に出した精液はね、腹の中に溜めてあったんだよ。それをキミとセックスした時に出した」
「……何故そんなことを?」
「私達夢魔は女性型の時に搾った精液を男性型になった時に使う習性があるんだ。私はいつもそのままゆっくり吸収していたから、やってみたのは今回が初めてだけどね。いやぁ、お腹の中にあるのにおあずけするのはなかなか堪えたよ。本来はそこに自分の情報を書き足して出すんだけど、私はそうはしなかった。だからそれは純粋にアーサーの種。時間経ってるから使えないだろうと思っていたんだけど、私の腹の中でなら精子は長く生存出来るんだね。勉強になった」
「……これ、千里眼で視えていなかったんですか?」
「見えたのは結構最近だよ。キミが着床する方に運命が傾いたのだろうね。歴史の本流でない、まだどちらにも転ぶ可能性のある分岐の先は私にも視えない。故にキミはどちらを選ぶことも出来る」
 あらゆる意味で頭が痛くなりそうだった。いや、実際に痛い。顔色が悪いよと言って(一体誰のせいだ)マーリンがベッドを勧めてくれたので有難く横になる。まだ全くぺたんこなままの下腹部に触れてみた。この中でアーサーの子供が生を受けているなんて、とても信じられなかった。
「産むにしても堕ろすにしても、私はキミに全面的に協力する。――ねえ。どうせだからその子を産む時にはボクと結婚してよ、ベディヴィエール」
「………………は?」
「キミのことは元々好きだし、私にも責任はあるだろう?それにアーサーの子なら私の子みたいなものだもの」
「あなたは私に、この子を産んで欲しいのですか……?」
「キミの意思を尊重するけど、その上で発言していいならイエスだね。アーサーの子孫は何人いてもいい。勿論彼の種だと公には出来ないし、ボクたちの子として扱うけど」
「…………。すみませんが、今は何も決められません」
 そう言うしかなかった。即決するには問題があまりにも大きすぎた。ベディヴィエールはとにかく今は現実から逃避しようと静かに目を閉じる。
 視界が真っ暗になるとマーリンの馥郁たる花の香がより一層深く感じられる。……物凄く悔しいけれど何だかすごく安心して、ベディヴィエールは落ちるみたいに眠りに就いた。



 ……男が話す声がした。初めは一人の男が延々と喋り続けているのかと思ったが、聞くとはなしに聞いている内、どうやら違うと分かった。誰かが、全く同じ声質の誰かと、話をしているのだ。
 同じ声をした二人の男に大きな心当たりのあるベディヴィエールはここでぱちりと目を開けた。首を捻るとそこにはやはり、マーリンとアーサーの姿があった。椅子があるのに二人は立ったままだし、揃ってやや険しい顔付きをしている。まるで今の今まで、言い争っていたかのようだった。
「……ごめん、ベディヴィエール。起こしてしまったね」
 そう謝ったのはアーサーだ。
「……王。何故このような所に?今はまだご政務の時間帯では?」
「サー・トリスタンから耳打ちされたんだ。サー・ベディヴィエールは恐らく妊娠している、今マーリンのところで調べて貰っているってね。『すぐに行かないと私は激怒します』と珍しく真面目な顔で言われてしまったよ。まあ、それが無くても向かっていたけれど……。今、マーリンから詳しいことを聞いたよ」
「……詳しいこととは?」
「君が孕んだのはマーリンの子だってこと。本当なんだね?」
 にわかに返事は出来なかった。他の者から子を孕まされただなんて、恋い慕う男の前で簡単に言えるわけがない。
 それにアーサーは咎めるような、祝福とは程遠い固い表情をしていた。考えてみればギネヴィアがこの国に来てからはまだほんの僅かな時間しか経っていない。やっと心を開き始めてくれた不慣れな王妃を置いて城を去ることは、騎士として確かに不義理であるだろう。ベディヴィエールは不用意な己を責めた。
「……この子は堕ろします」
 自然とその言葉が口を突いた。アーサーが望まないなら、ベディヴィエールにはそうするしかない。彼の子であろうとも、アーサー以上に優先されるべき存在はベディヴィエールの中には無い。
 まだ妊娠してから日は浅い。今の内に堕ろせば身体に深刻なダメージはないだろう。翌日か、翌々日か。とにかくすぐに仕事を再開出来るはずだ。そもそも妊娠の実感が薄いベディヴィエールがそう淡々と算段していると、
「――――ダメ。許さない」
 強い感情を押し殺したみたいなマーリンの声が、部屋に重く響いた。
「でも、あなたは先程……」
「今のはキミの意思じゃないだろう。アーサーの顔色を窺っただけだ。そんなの認められない」
「王の意思は私の意思です」
「ダメったらダメ。ボクはキミ自身の意思しか許さない」
「……マーリン。一体どうしたというのです?そんなに意固地になるのは、あなたらしくありません」
 意見を否定された怒りよりも驚きの方が勝って、ベディヴィエールは問いかけた。マーリンはマーリンで、指摘されて初めて感情的になっている自分に気が付いたようだった。はたと目を見開き――恥ずかしがるみたいに袖で顔を隠した。
「…………ごめん。ほら、…………、の子だから、キミが堕ろすなんて言うと思わなくてちょっとビックリしてしまった……のかな。……あ、あれ?この感情って何?……えっと……何だろうか、これ?」
 混乱しているマーリンを見て、アーサーはまるで歯のある鶏でも見たかのように目を瞠った。だがやがて安心したかのように小さく微笑んで、口を開く。
「ベディヴィエール、よく聞いて。僕はね、別に君を責めたわけではないんだ。急なことで僕も……そう、マーリンみたいに、少し吃驚してしまっただけなんだ。君達を祝福するよ。うん、祝福出来る。本当に、おめでとう」
 アーサーはベディヴィエールに今度こそ心からの笑みを向けた。そして未だに頭を抱えている……というよりも髪をぐしゃぐしゃに掻き回して一個の大きな毛玉と化しているマーリンを振り返ると、耐えきれなくなったかのように噴き出した。
「いや、まさかあのマーリンがこんなに取り乱す姿が見られるなんてね。彼女……じゃないか、彼なんかに人の親が務まるわけないと思ったけど、安心したよ」
「なっ……?!アーサー!キミ、半分は私に育てられたようなもんじゃないか!それなのにひどいっ!!」
「え。だからこそ言っているんだけど……?まあ、でも、どうやら杞憂だったみたいだ」
 ベディヴィエール、どうか良い子を産んで欲しい。このことは僕からギネヴィアによく伝えておくから、安心して。
 アーサーはそう続けると、ここ最近の空白が嘘みたいな優しい手付きでベディヴィエールの横髪を撫でた。懐かしくて嬉しい。髪ではなく、もっと深い心の芯に染み通るみたいな感触だ。ベディヴィエールは目を閉じ、深々と喜びを味わう。
「……ねえ、ベディヴィエール。僕に告解の期を与えてくれないかな?」
 やや躊躇いながら。でも、この機を逃したらもう次の機会はないだろうと判断したような真剣な声色でアーサーが訊いた。
「ええ、勿論。お聞きします」
 ベディヴィエールが身体を起こすと、アーサーは「寝たままでいいよ」と制止した。でも、休んだお陰で体調はもう随分良くなっていた。
「王の告解を横になったまま受けるわけには参りませんので」
 しっかりした瞳でそう応えられては、アーサーも渋々ながらに了承するしかない。一度こうなったベディヴィエールとやり合っても押し問答になるだけだと、彼もよく分かっているのだ。気分が悪くなったらいつでも言ってと諌めながらベディヴィエールの手を握り、アーサーはベッドの傍らで片膝をついた。
「……最後に君達を抱いた夜のことだ。眠る君とくつろぐマーリンを見ていた時にね。僕には、君とマーリンのどちらかを選ぶなんてとても出来ないんだって、分かってしまったんだ。でも、どうしても君にそれを伝えられなかった。勇気が無かったというのもあるし……僕自身、最後の最後まで迷っていたんだ。その所為で君のことを随分と苦しめてしまったよね。……どうか、謝らせて欲しい。すまなかった」
 哀願するように、アーサーは握ったベディヴィエールの指先に唇を押し当てた。ベディヴィエールは小さく笑みを零す。
「私は貴方を許します。……それに、実は私も今は王と同じ気持ちなのです。つい先程まで、天秤に掛ければ何の迷いもなく貴方を選べたのですが、今は……。ふふ、多分ほんの少しだけ、迷ってしまうのです」
 ちらりとマーリンの方を見て、ベディヴィエールもアーサーの前髪にそっとキスを返した。
 和解した二人を前にして、マーリンだけがまだむくれている。
「ベディはアーサーに本っ当に甘いんだから。選べないからって他所に走るなんて、そんなの不幸な女性をもう一人増やすだけじゃないか」
「それ、ギネヴィア様のことですか?王の真心を受けて不幸を感じる女性なんていやしませんよ」
「僕は僕なりに精一杯ギネヴィアに優しくしているつもりだよ、マーリン」
 ベディヴィエールとアーサーの発言に挟まれると、マーリンは余計にむくれてしまう。ついにはくるりと背を向けてしまった。ベディヴィエールが生まれるよりもずっと前から生きているなどと先日語った癖に、やっていることはまるっきり子供だ。
「はいはい、分かったよ。私はもうアーサー達に口出ししない。あとは精々頑張って夫婦ごっこしてておくれ」
 仕草も言葉も拗ねた様子だけれど――その実、背を向けたマーリンの口元はベディヴィエール達と同じように緩やかに凪いでいた。
 まだ子供だった頃、マーリンは死にゆく男を笑ったことがある。翌日には死ぬ人間が、それを知らずに明日を夢見て生きることが、あの頃はとても滑稽に思えていたのだ。
 今はほんの少しだけ、違う。未来に変わる気配はなく、だからこれは縋るべき希望ではない。突き落とされる前触れでしかなく……なのに、彼らは、眩しい。
 ならば花の魔術師として、こちらも出来る限りの手を尽くすしかあるまい。



 ベディヴィエールが城を去ると聞くとギネヴィアはとても残念そうにしていたが「でも、おめでたい理由ですものね」と、最後は笑って送り出してくれた。
 ベディヴィエールの兄であるルーカンは「結婚前に妊娠させるとは流石は夢魔の子だな」とこめかみに青筋を立ててマーリンに七度も決闘を申し込んだが、結局、一太刀も浴びせることは叶わなかった。
 父母は思っていたよりも大分あっさりマーリンとの結婚を認めてくれた。母曰く「アーサー王の騎士になると言って家を出ていった時から、貴女の結婚は諦めていたんだもの。噂に聞く宮廷魔術師のマーリン様がお相手だなんて驚いたけれど……そういえば女魔術師だと聞いていたけれど男性だったのね?とにかく、もうすぐこの腕に孫が抱けるなんて思いがけない喜びだわ」とのことらしい。
「……あまりすんなり事が運ぶと、返って不安になるものなのですね」
 横になったベディヴィエールがぼやくと、ベッドの縁に腰掛けたマーリンは小さく笑った。
「不安に思うほどうまくはいってないと思うよ?結局ボクらは結婚式さえ挙げていないわけだしね。……というか昨日も一昨日も食事を吐いた癖に、よくすんなりなんて言えるね。自分のことちゃんとカウントしてる?」
「……。」
「責めたわけじゃないよ。ゆっくりお休み、ベディヴィエール」
 マーリンはキャメロット城内に部屋を五つと、ブリテン内に何ヶ所か工房を持っていたが、そのどれもが散らかし放題だし、危険な魔術道具や禁書となっている魔導書が普通に混じっているのだという。
「幸いキミの故郷の町にもボクの工房があるから、そこを片付けて使おう。あそこなら広さもそれなりにあるから、普通の一軒家としても使えると思う。……だからひとまず半年くらい実家にいて貰えないかな?人が入れないように呪いが掛けてあるんだけど、完全に消去するにはそれくらい掛かるんだ……」と情けない顔で頼まれては、何も言えなかった。
 つわりが酷く早々に田舎へ里帰りしたベディヴィエールの元にマーリンは毎晩毎晩やってきた。晩どころか時折「時間が空いたから」と昼間にやってきては「ちゃんと仕事なさいっ!」と怒ったベディヴィエールに追い返されていた。
 しかし、やがてつわりが治まり元気になると――今度は夜中まで針仕事をしたり、癖で袋入りのじゃがいもや水入りの桶をひょいと持ち上げてしまったりするベディヴィエールを逆にマーリンがくどくどと叱るようになった。
「キミね、自分一人の身体じゃないって分かっているのかい?しっかりして見えて、自分のことをぞんざいに扱いすぎなんだよ」
「……飄々として見えて、意外とあなたは説教臭いですよね」
「キミに自覚が足りなすぎるんだ」
「……。」
「そんな可愛い顔したって許さないからね?」
「……別に可愛い顔をしたつもりはないのですが……」
 なんて本人達に自覚はないのだろうが見ているこちらは砂糖を吐きそうになる程甘ったるい光景を帰省する度に見せつけられている内、ルーカンも何となくマーリンを認めてくれるようにはなってくれた。
「マーリン殿は人の心を持たない夢魔の子だと聞いていたけれど、それはどうやらただの噂であったらしい。一応人並みにはベディヴィエールを大事に想ってはくれているようだ。……とはいえ結婚前に孕ませたことはやはり許し難い」
「ええ、分かります。私にはそのお気持ちがよく分かりますとも」
 と、毎晩のようにトリスタンと酒場でクダを巻いているらしくはあるが。とにもかくにもそれなりに順調に月日は過ぎ、あっという間に出産の日を迎えたのだった。



 満月の日の夜更けだった。ぎゅっとするような下腹部の痛みでベディヴィエールが目を覚ました時、千里眼で見通していたマーリンは既に産婆を連れて来ていて「初産は時間が掛かることが多いのに、こんなに早くに連れて来られてもねぇ」とぼやかれているところだった。恐縮したベディヴィエールは「すみません、今お茶を淹れます」とベッドから降りようとして、寝ていろと二人から怒られた。
 男性は部屋から出ているようにと言われると、マーリンはちょっと考えた後――今までずっと拒んでいたくせに、あっさりと女の姿に戻ってみせた。
「これでいい?」
「そういう問題ではありませんっ!!」
 怒ったベディヴィエールに結局部屋は追い出されてしまったけれど。その後、産まれた子を産湯に浸けておくるみに包んでやったのは女の姿のマーリンだった。
「長生きしているからね。こういう経験も決して無いわけじゃないよ?もし産婆の手が空いていなかったらボクが子供を取り上げようと思っていたし」
「……空きがあって本当に良かったです。あなたにそんなことされたら離縁しているところでした……」
「ええええどうしてだい?!頼り甲斐のある良い夫じゃあないか?!」
「すみませんが、今はツッコむ気力も体力もありません……」
 血を大量に失って青い顔をしたベディヴィエールの横に、マーリンが赤子をそっと寝かせた。産まれたのは女の子だった。赤子は赤子で疲れたのだろう、今は静かに眠っている。
 赤子を寝かせた時のマーリンの手は、確かに白く美しい女性の手だった。けれども手を引いた時には、それはもう大きくて節くれた男性のものに変化していた。見上げてみれば端正な顔立ちの青年が、ベディヴィエールを見返して微笑んだ。
「……もう男の姿に戻ってしまったのですね」
「……もしかして女の姿の方が好きなの?キミ、やっぱりそういう趣味?」
「違いますよ。ただ元々あなたは女性でしょう?私の両親の手前、無理をしているのではないかと……。私と二人の時は女性の姿でも構いませんよ?」
 変なことを気にするんだね、とマーリンは小さく笑った。
「形に慣れてしまえば保つこと自体に無理はないよ。変化してすぐはどうしても解けてしまいやすいんだけど。……ウーサーに命じられて長い間梟に化けてた時は、戻るのに苦労したっけなぁ。湖に姿を映して自分の中では限りなく違和感を小さくしてみたけど、細かいところまでは自信ないし、多分一番最初の姿とはちょっと違ってる」
「…………。」
「不気味かい?」
 黙りこくってしまったベディヴィエールに、マーリンは少し意地悪気に問いかけた。
「いえ、別に。不思議ではありますけど」
「不思議。いい言葉だね。……ボクを巡る血の半分は、性別や顔を自在に変えて人を惑わす夢魔の血なんだ。キミやこの子とは違ってね。……この子、やっぱり普通の人間だね。良かったよ。寿命もちゃんとある」
「産まれてすぐに寿命の話しないで下さいませんか……?」
 ベディヴィエールは赤子の頼りない柔らかな頬に、そっと自らの頬を擦り寄せてみた。当たり前だがこの子は産まれ、育って、いつかは死んでいく。ベディヴィエールと同じで、マーリンよりずっと後に産まれたのに彼を置いていくのだ。
 ベディヴィエールのそんなささやかな感傷を他所に、マーリンはきゅっと握られている赤子の小さな手を、楽しげにちょんちょんと指でつついていた。
「小さい手だねぇ。……三年くらい経てば剣は無理でも木の枝くらいは握れるよね?」
「おやめなさい。王が平和な時代を築いて下さるのです。この子が剣を握る必要などありません」
「平和な時代だろうと暴漢の一人や二人は存在するだろう?護身はいつの世でも必要だよ?」
「……あなた、加減して剣を教えられるんですか?」
「そりゃもう、国一番の剣士に育ててみせるとも」
「だから、やめて下さい」
 赤子を挟んで小さく笑い合う。
 優しい沈黙に暫く浸っていたけれど、やがてベディヴィエールがマーリンの指に指先をそっと触れさせ、口を開いた。
「……あ、あの。私はこれから暫く性交が出来ませんけれど……よろしければたまには傍で一緒に眠って頂けると嬉しいというか……」
 つわりが治まってからは、二人は七日に一度ほどのペースで性を交わしていた。ベディヴィエールに負担を掛けないよう、主に口や手を使って、細心の注意を払いながらだったけれど。
「あ、閃いた。やっぱりボク暫く女の姿で過ごすよ。そうすればベディの代わりに母乳もあげられるし」
「絶対にやめて下さい。あなたの母乳は体に悪そうです」
「ひどいっ!!」
「いや、そうではなくてですね。これはあなたの食事についての話です。あまりとやかく言うつもりは無いのですが……」
「……あれ?気付いていなかった?ボク、今までも毎晩夢の中でキミのこと抱いてたよ?」
「は?」
「昨日もシたよ。前と後ろから一回ずつ。夢の中ならガンガン突けるし。ただ最近のベディは現実に引っ張られて夢の中でもお腹が大きいから上に乗ってもらう時は一苦労で……」
「な……!?やめて下さい!最低です!」
「夢なんだしいいじゃないか。お腹の大きいキミを抱くの、結構興奮したんだよ?もう妊娠しているのに、妊娠しちゃう!って言ったりしてさ。でも今晩は流石にどうしよう。夢の中とはいえ傷になっているところに突っ込むのはなぁ……。ん?もしかして母乳がもう出るのか……。よし、今晩も大丈夫!安心して!」
 何も大丈夫ではない。
 マーリンがあまりにあけすけに話すからベディヴィエールは顔を真っ赤にして――本当は奇声でもあげたかったけれど、でも大声は上げられないので、枕に顔を埋めて、我慢した。
「こんなの、浮気された方がまだマシですっ!」
「えええ?!浮気よりは絶対にいいだろう?!」



 『この』ベディヴィエールはどうやら歴史の轍からは完全に外れたようだった。マーリンが以前に視た未来では、独身のままアーサーに仕え、最期を看取り、修道院で生涯を終える彼女がいた。男女二人の子宝に恵まれながらも騎士に復職し、やはり同じ結末を迎える彼女も視た。だからもしも男女の双子が産まれていたらもう少し警戒を続けようと思っていたけれど――産まれたのは女の子が一人だった。これは見たことがない分岐だ。
 マーリン自身に種を作る機能は無い。だからベディヴィエールが身篭ることはもう無い。種のない精液なら作り出せるし、せっかく夫婦になったのだ、現実でのセックスもこれから存分に楽しむつもりだけど。
 彼女と赤子は無限の未来の轍の上にいる。ベディヴィエールではない人物がアーサーを看取る未来も確かに存在はしていたから、恐らく運命はベディヴィエールを手放し、そちらに傾いてくれたのだろう。
 出来ることならマーリンは、ベディヴィエールにこそ二度と剣を握って欲しくなかった。ひとたび剣を摂れば、彼女はやはり尽きるまでアーサーに付き従ってしまうに決まっているからだ。
 赤子を抱くベディヴィエールの右腕をマーリンは愛おしげに眺める。この白くたおやかな美しい腕を損いたくない。代わりに他の誰かの腕や命が犠牲になろうともそんなこと構いはしない。ベディヴィエールが幸せな未来が、今やマーリンが一番見たい未来だった。とても稀有な幸福の上に立っているのだと、有難いことに彼女は気が付いていない。何も知らずに、きれいなままで一生を終えてほしい。



 ベディヴィエールがキャメロットを訪れたのは出産から一ヶ月後のことだった。城下の教会にて、アーサーに赤子の洗礼名をつけて貰う為の外出だ。
「ボク一人でもこの子連れていけるよ?」とマーリンは妙に渋ったが、別に産後の肥立ちが悪いわけでもない。充分に外出出来る体調だし、久しぶりに皆の顔を見たいのです。何よりもこの子の洗礼に立ち会わないわけにはいかないでしょう?と言われれば反論は出来ず、マーリンが手綱を握った馬車で城下へと向かう。
 マーリンは少しピリピリしているようだった。しかし久々に見るキャメロットは変わらず活気に満ち溢れて華やかで、ベディヴィエールはすぐにそちらへ心を奪われた。懐かしい気持ちで過ぎ行く街並みや人々を眺める。緩く結った美しい銀の髪からベディヴィエールに気付き、手を振ってくれる住人もいた。にこりと微笑んで手を振り返す。
 ……ランスロットという名の騎士は既にキャメロットを訪れていたし、彼とギネヴィアが恋に落ちるのはやはり止められなかった。だが、マーリンはベディヴィエールには何ひとつ話していない。「子は父母に預けてキャメロットに戻ります」などと彼女が言い出さないよう、いつでも悠然と微笑み、彼女が安心出来そうな明るい話題だけを選んで話していたのだ。ベディヴィエールが何も知らずに帰れるようにしたかったし、もし余計なことを知ったとしても、あの時のように記憶を消去するつもりだった 。

 アーサーは教会入口のポーチで待っていた。ベディヴィエールの姿を見つけるなり、手摺に片手を付き、ほんの少年みたいな動作で大きく手を振ってくる。手摺を乗り越えてくるのではと思ったが、流石にそれはなかった。だとしてもとても待ちきれないといった様子だ。赤子を抱いているので腕を振り返せない代わりに、ベディヴィエールは満面の笑顔を向けて応えた。
 馬車を繋ぎ終えたマーリンが追い付くと、野茨のアーチをくぐって、ベディヴィエールはやっとアーサーと言葉を交わした。
「久しぶりだね、ベディヴィエール」
「御無沙汰しております、我が王」
 彼の笑顔を思い出さない日は一日たりとも無かったけれど(やや誇張が入っている。出産してからは毎日がドタバタで、思い出さない日も時にはあった)間近で久々に見るアーサーの笑顔は太陽みたいに眩しくて、ベディヴィエールはちょっと照れてしまった。実はアーサーもベディヴィエールに対して同じ感想を抱いていたのだけれど、お互いそれとは気づいていない。唯一気付いているマーリンも、わざわざ教えてやる気はなかった。
 ベディヴィエールの腕の中をアーサーはそっと覗き込む。白い産衣を着せられた赤子の透き通った緑の瞳が、じいっとアーサーを見詰めてきた。
「可愛らしいね。女の子だとマーリンから聞いているよ。僕を見て……これは笑っているのかい?」
「ええ。きっと、そうです。最近少し笑ってくれるようになったのです」
「……抱いてもいい?」
「勿論です。首元に腕を添えて……そう。流石、お上手ですね」
「君がいた頃から、名付け親はよくやっていたもの」
 生え始めた髪は麦の穂に似た金髪、瞳は鮮やかで透き通った緑眼。金髪緑眼とだけ聞くと、母親のベディヴィエール似なのだと皆はごく自然に考えてくれたが、こうしてアーサーの手に抱かれれば――金髪も緑眼も彼譲りの色なのだと、ベディヴィエールもマーリンも認めざるを得なかった。アーサーが赤子をあやす姿は娘を腕に抱いた父親の光景にしか見えなかったし、それは紛れもない真実である。
「洗礼名はもう決めてあるのかい、アーサー?」
 声質が同じなのでマーリンが喋るとややこしいが、ベディヴィエールはとうに慣れている。アーサーの喋り方は誠実で、マーリンはやや軽薄だ。
「いくつか候補は決めてあるよ。……この子の名は確かアルトリア、だったね?」
「そうだとも。アルトリア・アンブローズ。アーサー。キミの名の女性形だ。ボクとベディヴィエールで決めた名だよ」
 マーリンは元々孤児の扱いで姓を持たなかったが、城勤めをするに当たって仮に名乗り始めた姓がアンブローズであった。あまり積極的には使用していなかったから、結婚して初めてベディヴィエールはそれを知ったのだけど。
「……リリィはどうだろう。アルトリア・リリィ・アンブローズ。……悪くないだろう?」
 同意を求めるように、アーサーはマーリンとベディヴィエールの顔を交互に見比べた。
「ボクはとても良いと思う。ベディヴィエールはどう?」
「ええ。我が王――良き御名を有難うございます」
 両親揃って頷くのを見て、アーサーもほっとしたようだった。透き通った緑の瞳でじーっと見てくるアルトリアの額に、西風のように軽やかに唇を押し当てる。
「野辺に咲く花のように健やかに、清らかに。この子の未来に祝福を」
「アーサー。……アルトリアに手を出さないでね……?」
「僕は既婚者だよ?というか、いくら何でも幼すぎるだろう!?」

 教会にて恙無く洗礼を終えると、王妃と騎士たちに一通り赤子の顔見せをして、ベディヴィエールはすぐに家へ帰って行った。アーサーは数日間城へ滞在していくよう勧めたのだが「でも最近、病が流行り始めているだろう?」とマーリンが断ったのだ。……そんな兆候は特になかったのだが、マーリンが言うならそうなのだろうと、アーサーも強くは引き止めなかった。

 余計なことは何ひとつ知らせず、ベディヴィエールを帰すことが出来た。マーリンはほっと息をつく。
 本当はこうして一生彼女を守っていってあげたいのだけれど――覆せない運命の足音を、マーリンの耳は既に聞き取っていた。



「ねえ、ベディヴィエール」
「はい、何でしょう?」
「今、この世で一番ボクが愛しているのはキミだよ。二番目はアルトリアだ」
「はあ。そうですか」
「え、それだけ?涙を流して感動するとか無いの?」
「ありませんよ。だって……、よく分かっていますから」
「アハハ、そっか。……うん。キミが分かってくれているなら、ボクはそれでいいんだ。例え世界中の人々が何を言おうとも構わない」
「……あの」
「何だい?」
「…………私も。あなたをあいして、います。えっと……せかいで、いちばん。あ、いや、二番目でしょうか?一番はアルトリアなので……」
「アルトリアが相手じゃあ仕方ない。ボクは二番手でいいよ」
 マーリンは殊更優しくベディヴィエールの唇に口付けると、馬に跨っていつも通りに出掛けて行った。
 ――――そして翌日になっても、そのまた翌日になっても、何日待っても、帰って来なかった。

 ヴィヴィアンという美しい妖精に惚れ込み騙されたマーリンは、世界の最果てにある塔に永久に閉じ込められた。
皆そう噂していたが、ベディヴィエールは一向に信じなかった。最後にマーリンと交わしたやり取りは、きっとそういうことなのだ。
 歳月を経てアルトリアは活発で可憐な少女に成長していた。同じだけベディヴィエールは歳を取っていたけれど、彼女の銀の髪も柔らかな微笑みも、全く色褪せてはいなかった。故にプロポーズする男が後を絶たなかったが、ベディヴィエールは「すみません。私が愛しているのはあのどうしようもない御人だけなのです」と微笑んで、全て断っていた。

 更に数年が経過する。キャメロットで戦争が起こると、皆がしきりに噂するようになった。ベディヴィエールは……あまり驚かなかった。こうなることを、何故か以前から知っていたような気がする。
 ギネヴィアの不義を巡り、キャメロットの崩壊は最早取り返しのつかないレベルになっていた。王の元へと馳せ参じることも考えたが――既に、ベディヴィエールの一番大切な人はアーサーではなくアルトリアになっていた。それにアルトリアはアーサーの血を引いている。この子を守ることは、結果的にアーサーの血筋を守ることになるのだ。
アルトリアは結局、三歳の誕生日からマーリンにみっちりと剣を仕込まれていた。彼がいなくなってからはベディヴィエールがなし崩し的に相手をしてやったが、その時には既にアルトリアの方が腕前が上だった。国で一番かは分からないけれど、少なくともこの町では一番の剣士である。
 しかし試合と戦はまた別物だ。戦では何が起こるかは分からない。……アルトリアは戦を知らないが、ベディヴィエールは戦を知っている。男たちが戦手としてキャメロットへ赴くのを、ベディヴィエールはアルトリアをしっかりと抱きしめながら見送った。



 ――あの時、マーリンもベディヴィエールも選べなかった自分だ。愛の本質なんて、分かるはずがなかったのだ。
 片脚と剣を引き摺りカムランの丘を一人下るアーサーはそう自嘲した。マーリンの言っていた通り、結果的に不幸な女性を一人増やしてしまった。けれどあの結婚がなければ、ブリテンをここまで纏めることはそもそも不可能だった。何もかもを手にすることは、やはり神でも無い限り不可能なのだろう。人の身である自分にはこれが限界だ。後のことは、後の世の人々に任せるしかない。
 反乱軍の筆頭であるモードレッドには確実にトドメを刺した。だが、こちらも致命傷を受けてしまった。他に生き残りがいるのかいないのかは分からないが、少なくとも今、彼の歩みを阻む者はない。
 持ち主を不老不死にする剣の加護が働いているとはいえ、未だこうして歩けているのが不思議でならなかった。もしかしたら歩かされているのかも知れないな、と思う。血に濡れた丘を離れ、誰かに導かれるかの如く、アーサーは静かな森の下草をふらふらと踏み分けていく。
 彼が立ち止まったのは清らかな湖の傍だった。魂が出ていってしまいそうなくらいに重たくひとつ息をつき、傍らの大樹の根元に腰掛け目を閉じる。微かにふわりと花の香がした気がするが、定かではない。
 ほんの少しだけ休憩するつもりでいたけれど、思いの外長くそうしてしまったかも知れない。……次にアーサーが目を醒ました時、彼の手の内に聖剣は無かった。いや、それどころかそこは湖の傍、森の中ですらなかった。
 ――色とりどりの一面の花畑のど真ん中に、彼はごろんと寝転がっていた。
 ふふ、と。鈴を転がしたような天真爛漫な声で女が笑う。
「やあ、ご機嫌は如何かなマイ・ロード。ここは花咲き光射す楽園。永遠の理想郷であるアヴァロンだ。キミは見事ゴールへ辿り着いたというわけさ。……この姿で会うのは本当の本当にお久しぶりだね、アーサー」
 あの頃と同じように白く丈の長いローブで豊満な肉体を包み、豊かな白髪をふわふわと風に靡かせて、マーリンは艶然と微笑んだ。
 まだ呆然としているアーサーを無視して、彼女は勝手に話し続ける。
「剣はボクがヴィヴィアンに返しておいたよ。受け取ってくれるか心配だったけど、大丈夫だった。地獄に落ちろとドスの効いた声で言われたりはしたけどね」
 ……アーサーの知るヴィヴィアンはそういうことを言うタイプの妖精ではなかったが、きっとマーリンとの間に何か確執があるのだろう。
「ねえ、マイ・ロード。本当はね、キミを看取るのはサー・ベディヴィエールの役目だったんだよ。……どう?ボクで残念だった?」
「……いや、君で良かったよマーリン。彼女に担わせるには残酷すぎる役目だ」
「そう言ってくれると、ボクも彼女も救われるよ。……では、塔に行こうか。アーサー・ペンドラゴン。大いなるウーサーの子。我が愛しき赤き竜。キミの物語はこれにて終わりだ。お疲れ様」
 差し伸べられたマーリンの白い手をしっかり握って、アーサーは身体を起こした。痛みや違和感はどこにも無い。そのことは逆に本当に全てが終わったのだと――この理想郷は俗に言うあの世なのだと、アーサーに思い知らせた。
 マーリンに手を引かれ、二人は可憐な花を踏み分けていく。途中でひらりと目の前を横切るものがあり、蝶々かと思えば妖精であった。マーリンが「彼女達もキミのことを歓迎しているんだよ、王子様」と楽しげに笑う。
 平和で幸福で温かだ。結局自分は全て中途半端にしたまま世を去ってしまったのに、こんなところに来てしまっていいのだろうかと思える。世界はまだまだ続いている。混乱した世の中で、生き続けている民がいる。
「…………マーリン」
 アーサーが足を止めた。指先だけで緩く繋がれていた二人の手は、ふっつりと離れてしまった。
「どうしたの、アーサー。……いくらボクでもキミの死を覆すことは出来ないよ?」
「そんなことじゃないよ。僕はもう、充分に生きたしね。……ただ、マーリン。君は閉じ込められただけの生者だし、この理想郷から出られないわけでもない。そうだね?」
 ヴィヴィアンへ剣を返したのが彼女であるなら、そういうことであるはずだった。マーリンも縦に首を振る。
「ここに封じられることはボクの運命だったんだ。キミの結婚を止めようとした時みたいに、抗ってはみたんだけど覆らなかった。脱出も何度も試してみたんだけど、駄目だった。……でも、キミを出迎えには行けた。ボクは最果ての塔からキミを迎える、ナビゲーションの役目だったようだね」
「じゃあ、僕が辿り着いたこの後は?君は一体、どうする」
「どうするって……アーサー。キミは一体何が言いたいんだい?」
「ベディヴィエールの元へ行ってあげたらいいんじゃないかと思ったんだよ。彼女はまだ生きているだろう?僕は一人でもやっていける。今までずっと誰かに囲まれて過ごしてた分、妖精たちと静かに暮らしていくさ」
「…………。」
 マーリンはぽかんと口を開けている。脱出を諦めてからは、考えてもみなかったのだろう。
「……やっぱり無理かな?」
「……いや、もう道筋は出来たから……。ベディが死ぬまでくらいの期間なら、ヴィヴィアンの目を誤魔化せると思う。その間、キミにも協力して貰うことになるけど」
 アーサーは笑って頷いた。そのくらい、お易い御用だった。
「僕が最後に彼女達に会ったのは半年前だったかな。アルトリアは町一番の美少女に成長していたよ。もうレディと呼んで差し支えない年頃だ。ベディヴィエールもあの頃と変わらないよ。未亡人の色香が堪らないって不届きなことを言っている騎士もたくさんいたし、アルトリアとベディヴィエールの両方に求婚した猛者もいると聞いた」
「ここから見てたよ。呪い殺そうかと思った」
「父親ってやつは怖いね」
 他人事のようにアハハと笑うアーサーを見て、マーリンはいじわるく目を眇めた。
「……アルトリアだけどね、あの子、キミの子だよ。気付いてる?」
「…………。」
「彼女、キミとベディの子なんだ」
「マーリン、嘘……だよね?え、ベディヴィエールと僕の……?いや、嘘だろう?ちょ、そんな大事なこと、なんで生きている間に言ってくれなかったんだ!?今更言われても困るじゃないか!!」
「さてと!善は急がなくちゃ!今から準備を始めれば一週間後にはベディヴィエールのとこに向かえるかな?塔のこと、一度しか説明しないからちゃんと覚えておくれよアーサー!」
「待ってくれマーリン!塔なんて後回しでいいから、とにかく今の発言の説明をしてくれ!!」



 顔が隠れてしまう程の大量の白百合――マドンナリリーの花束を抱えた老人がベディヴィエールの家のドアを叩いたのは、それから一週間後のことだった。腰の曲がった老人の割に足取りはしっかりしていたし、両腕いっぱいに抱えた百合の花も、一本も落としはしなかった。
 家から出てきたのはアルトリアだった。勘が良く魔術にも慣れている彼女は一目でからくりを見抜き、すぐにベディヴィエールの名を呼んだ。
 アルトリアとベディヴィエール。並んだ二人に花束を差し出すと、老人は「おお、おお。これはなんと美しいレディ達でしょう。どうかこの孤独で哀れな老人と結婚してやっては下さいませんか?」と芝居がかった大仰さで求婚した。その穏やかだが軽薄な声を、聞き違える二人ではない。
 アルトリアは「――ふふ。結婚なんかより私はまず剣の稽古をつけて貰いたいですね」とにこやかに断った。
 ベディヴィエールは驚きすぎて口も利けない様子だったが、アルトリアに優しく背中を押されると――やっと、現実を受け止められたようだった。
「……あなたは。あなたは、本当に最低です!」
 と声を荒らげてぼろぼろと泣きながら青年――そう。その時には老人は、白髪の美しい青年の姿になっていた――を抱きしめた。
「長い間ごめんよ、ベディヴィエール。アルトリアを育ててくれてありがとう。後はずっと、キミといるから」
「あなたの言葉なんて、信用出来ません!」
「まあ、そうだろうね。今は無理でもこれから時間を掛けて、信じていってくれればいいさ」
 青年はベディヴィエールの顎を滑らかに持ち上げて、美しい硝子細工を相手にしているかのように、優しく静かに唇を重ねた。
 ……全く、手のかかる両親です。アルトリアはそう言わんばかりに肩を竦めると、ベディヴィエールがマーリンに飛びついた拍子に周辺に散らばったたくさんの白百合を一本一本拾い始めた。それは春先の野辺の融雪を連想させるような、幸福で温かな光景であった。



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