※後天性女体化あり。 「ボクと契約して魔法少女になってよ」 「唐突に何言ってるんです?引きこもってる内に痴呆になったんですか?」 光差し花咲く理想郷にて魔術師がにこやかに行った提案を、ベディヴィエールはばっさりと切り捨てた。しかし魔術師もといマーリンが気を悪くする様子は無い。変わらず飄々とした笑みを浮かべている。 「まあまあ、とにかく聞いておくれよ。キミが持ってきた聖剣は規格外の代物でね。アルトリアに返却しやすいよう色々いじりたいんだけど、魔力がちょっと心許ないんだ。足りなくはないけど無理するとアヴァロンに軋みが生じかねない。分かるかい、ベディヴィエール?」 「はい」 「だから君に魔法少女になって貰いたいんだ。平行世界の魔物や魔人を退治するとこの杖に魔力が貯まる。一杯になったら持って帰ってきておくれ」 マーリンはどこからともなく杖――丸で囲んだ六芒星を緑色の大きなリボンで結んだような、可愛らしいモチーフが先端についている――を取り出すと、ベディヴィエールに差し出した。青りんご色の細長い柄を、彼は反射的に受け取ってしまう。 「……え?いや、すみません。それはちょっと意味が分からないのですが……」 「大丈夫、習うより慣れろって言うだろう?さあ、行きたまえ!これからキミはサー・ベディヴィエール改め魔法少女☆ベディヴィアちゃんだ!!」 マーリンが愛用の杖で地を突くと、ベディヴィエールの足元にぽっかり穴が空いた。彼の体は重力に従い、吸い込まれるようにそこへ落ちる。平行世界とやらへ通じるらしい時空の穴の側壁は絶えずぐねぐねと蠢いてとても不気味で、一縷の救いを求めて今や頭上遥かとなった入口を見上げれば――アヴァロンの光と花の中で腹を抱えてげらげら爆笑するマーリンの姿があった。 「このっ、ろくでなし魔術師ーーーーー!!!!!」 珍しくストレートに悪口を吐きながら、ベディヴィエールはどこまでもどこまでも落ちていくのだった。 魔法少女☆ベディヴィエールちゃん 気がつくと細く暗い路地に倒れていた。灰色の硬い道からは灰色の壁がぬっと直角に生えていて、それは区切れながらも延々と続いている。……全く見覚えのない風景だ。ほぼ世界中を旅して回ったつもりだったけれど、それでも知らない場所はあるのだなとベディヴィエールは変な方向に感心する。 空を見上げても星はなく、凡その場所すら掴めない。ひとまず立ち上がって土埃を払った。ついで服を探ってみたところ、武器らしきものは携帯しておらず、完全に身一つ。 さて、これからどうしたものか。夜明けを待つべきなのか、今の内に移動するべきか。 あのクソ魔術師。帰ったら覚えてろ。そんな汚い言葉決して口にはしないけど、心の中でベディヴィエールが確かにそう悪態を吐いたその時、 ――――キン!と。 耳慣れた音が聞こえてきて、神経を尖らせた。 壁に背をつけて耳を澄ませる。金属同士が何度もぶつかり合う固くて重い音。暫くじっとそれを聞いていたが、タイミングといい混じって聞こえてくる息遣いといい、やはり剣戟だろうと思われた。充分に気を付けつつ、壁を背にしたままそっと角を覗く。 どこかで見たような紫の甲冑を身に付けた長身の騎士が後ろに飛び去ると、やはりどこかで見たような赤い長髪の少女が騎士に駆け寄った。 「くっ……!流石に、固いな……!」 「でも、貴方ならまだやれますね?」 「ふ、無論。今度こそ決着をつけてみせる!」 「待って、治癒を掛けますから傷を見せて下さい」 赤髪の少女が紫の騎士に杖――赤い長い柄の上に、丸で囲んだ五芒星から蝙蝠の羽根を生やしたようなモチーフを乗せている――を翳すと、杖先の星が優しく淡く発光した。だが、 「――――私がそんな暇を与えるとでも?」 やはりどこかで見たような見事な金髪を月光に輝かせた騎士が跳躍し、紫の騎士に斬り掛かる。紫の騎士は寸前で赤髪の少女を突き飛ばし、剣を剣で受け止めた。だが傷が痛んだのか、ぐっと低い呻き声が漏れる。 「夜間の私の力は日中の三倍。ランスロット。貴方に勝ち目はない」 「これは異なことを。勝負とは最後まで分からない物。そうだろう、ガウェイン」 「死なないと分からない馬鹿が世間にはいると聞きますが……貴方はその類のようですね」 金髪の騎士が侮蔑を含めてすっと目を眇めたのを皮切りに、二人の騎士が先程耳にした剣戟を再開する。 『どうやら僕らはあの金髪の騎士を倒せばいいようだね。彼からは強力な魔力を感じるよ』 突如、どこからともなく話し掛けられた。 ベディヴィエールが驚かずに済んだのはその声がマーリンのものだったからだ。彼であればいつ何をしてもおかしくはない。ただ、彼より誠実で爽やかな話し方をされたような気がして、若干の違和感が残る。 ふわりふわりと。六芒星を円で囲み、緑のリボンで結んだような謎の物体が、暗闇から飛んで出てきた。あの時マーリンから受け取った杖のモチーフだ。 『やあ。僕の名前はマジカルエメラルド。長いからアーサーと呼んでくれていいよ』 「名前と通称、全く掠ってないですけど……?」 『通称とは時にそういうものだよ。僕のような不思議物体を目の当たりにしても全く驚かないなんて、君は中々肝が座っているね。頼もしいよ』 「……あの……ア、アーサーはマーリンではないんですね?」 何となく名前の後ろに『様』と敬称を付けたくなってしまって、結果どもった。 『マーリン?違うよ?』 アーサーはすぐに否定した。その言葉に嘘の響きはない。 『おっと。お喋りも程々にしておかないと。ええと、君の名前を聞いてもいいかい?』 「これは失礼しました。私はベディヴィエールと申します」 『ベディヴィエール。とても良い名だ。 ――――ベディヴィエール。マスター登録完了。コンパクトフルオープン。境界回廊最大展開』 「え?ちょ、ちょっと。アーサー?!この光は……!え、ええええ?!な、なな、何ですかこれ……?!」 アーサーが詠唱を始めると、白く目映い謎の光がベディヴィエールの体を隈無く包んだ。腕だの足だの、それらは各部でぱちんと弾けたかと思うと、今まで着ていた服のとは全く別の――ひらひらふわふわキラキラの、妖精じみたメルヘンな衣装が顕れる。それが全身に及んだところで、アーサーが力強く宣言した。 『よし、新生カレイドライナー、プリズマ☆ベディヴィア爆誕だ!!』 「はあーーーーーー?!?!?!?!?!」 言ってることは意味不明だが、アーサーの言葉の響きはあくまで真面目で誠実だった。 ベディヴィエールは自分の体を検める。青りんご色の妖精じみたデザインの服は理解不能な程に丈が短く、大の男にこんなもの着せてどうするんですか!と言おうとした際に――己の体が縮んでいることに気付いた。先程までより頭三つ分以上小さくなっている。 それに――それに、胸が、ある。しかも結構大きい。「アーサー、これは」と震える声で言った時、声も変わっていることに気付いた。少女というより繊細そうな女性の声といった感じだけれど、そういえば変声期前にはこんな声をしていたかも知れない。 『さっき言った通りだよ。これで君はプリズマ☆ベディヴィア。正義を貫き悪を倒す魔法少女だ』 「貴方本当にマーリンじゃないんですよね?!」 『違うよ。……と言っても、僕のような不思議物体の言うことなんてとても信じられないよね。それは分かるよ。でもね、ベディヴィア。僕は君に信じて欲しい。……無理かな?』 悄気た様子で言われると、何故だかベディヴィエールの胸は物凄く痛んだ。短剣で思い切り突き刺されたかのように、切なくて苦しくて堪らない。 アーサーが悲しそうにする様子なんて見たくない。彼を笑顔にする為なら私には何だって出来る。そんな気さえした。杖だから顔無いけど。 「…………、……信じます……」 『ありがとう。嬉しいよベディヴィア!』 ベディヴィエールにはそう返すしかなかっただけなのだが、アーサーはとても喜び、体全体を左右に大きく揺らして、……何だかすごくほっとした。自分でもおかしいと思うくらいに。 『さあ、それじゃあ僕を手に取って。あの金髪の騎士と戦うんだ!』 アーサーからにょきっと柄が伸びて、最初に見た時のような形状になった。青りんご色のそれをベディヴィエールはきゅっと握る。 「戦うのは別にいいんですけど……」 こんなメルヘンな杖を得物にして、あのどこかで見たような屈強な騎士に果たして敵うのだろうか? 疑問に駆られながらもベディヴィエール改めベディヴィアは、だがどうやらやるしかないらしいと角から躍り出た。決意を固めたというよりかは、まあ、いざとなったらきっとマーリンが何とかしてくれるだろう、と。そんな緩い心持ちだったけれど。 「そこの金髪の騎士!待ちなさい!」 「……新手ですか。何人来ようとも同じこと」 アーサーと茶番を演じていた所為で気付かなかったが、金髪の騎士は紫の騎士を打ち倒し、正に今とどめを刺そうとしているところだった。 ベディヴィアは金髪の騎士を睨み付ける。その瞬間――金髪の騎士の頬がかあっと赤く染まった。……怒らせてしまったのだろうか?だがこれから戦う間柄である以上、構うまい。 「その人から離れなさい!私が相手です!」 「…………っ!!」 アーサーを両手にしっかり握って、ベディヴィアは堂々と言い放つ。すると金髪の騎士は大きな衝撃を受けたかのように手で顔を覆い、ふらりとよろめいた。 「……大丈夫ですか?体調がよろしくないのですか?」 思わず気遣ってしまった。倒すべき相手とはいえベディヴィア自身が彼に何かされたわけではなく、別に恨む気持ちも無い。 「……私の名はガウェイン。愛らしい銀髪ロリ巨乳魔法少女、貴女の名は?」 「ろりきょにゅ……?私はベディヴィアです」 「ベディヴィア……美しい名だ。よく覚えておきましょう。貴女に免じて今宵は引きます。また今度……次は是非とも二人きりでお会いしたいものですね。夜景の美しいホテルの最上階辺りで」 「……他者が乱入する可能性は少ないに越したことない、ということですね?」 ガウェインの言葉を「各個撃破する。まずは貴様からだ」という意味で受け取ったらしいベディヴィアは緊張した面持ちだ。その勘違いをも愛おしいとばかりに少女の姿を蒼い瞳に焼き付けると、ガウェインは一際高く跳躍し、夜闇の中へ消えていった。 「ベディヴィアちゃんーーっっっ♡♡」 親しげにベディヴィアの名を呼び、がばっ!と抱きついてきたのは赤髪の少女であった。 「ふ、ふわっ?!貴女は先程の……」 「はい、魔法少女☆タントリスと申します。助けて頂いて本当にありがとうございました。ふふ、ベディヴィアちゃんは強い上にとても可愛いのですね♡」 「あの……っ!きょ、距離が近いです、タントリスちゃん……!」 「女の子同士ですし、こんなものでは♡」 頬を合わせ、首にしっかりと腕を回し、胴体も完全に密着している上にタントリスの脚はベディヴィアのかなり際どい場所に当たっている。どう考えてもおかしい気がしたが、元が男である以上ベディヴィアには何も言えなかった。 「魔法少女☆ベディヴィア。私からも礼を言わせて下さい。タントリスに仕えし御使いのランスロットと申します。貴女のお陰で命拾い致しました」 紫の騎士が跪き、ベディヴィアの手の甲にキスをする。淑女の手の甲に同じことをしたことはあるが、されるのは流石に初めてだなとぼんやり考えていると、タントリスがランスロットを裏拳でぶっ飛ばした。 「もう。ランスロットときたら私の犬の分際で誰彼構わず懐いて舐め回すから困ったものです」 「……ランスロットさん、壁にめり込んでますけど大丈夫なのですか……?」 「頑丈が取り柄のような下僕なので問題ありませんよ。あ、宜しければ私の家にいらっしゃいませんか?すぐ近くなんです。穢らわしい犬の唾液を早く洗い落とさないと」 「いえ、そんな。私は全くもって大丈夫なのですが……」 ぴくりともしないランスロットを気にかけるベディヴィアの腕を、タントリスは問答無用で引っ張っていく。まるで春の野を往くかのように軽やかにスキップしながら、上機嫌にふんふんと鼻歌を歌いつつ。 * ランスロットのような大男がいるとタントリスの1LDKの部屋は大分狭く見えた。けれどもそこは可愛らしい彼女にぴったりの愛らしいもので溢れている。枕元にぬいぐるみが並べられたベッドは天蓋付きだし、カーテンはフリフリのレースだし、真っ赤なソファの上にはふかふかのクッションが何個も積み重ねられていた。 「ここまで片付けるのは大変だった……」 ランスロットがぼそりと呟いた気がしたが、聞き直すのはなんとなく躊躇われたのでスルーする。 「ランスに突き飛ばされた所為で汚れてしまいました。まずはシャワーを浴びなくては。ベディヴィアちゃん、折角だし一緒にお風呂入りませんか?一人用だから浴室ちょっと狭いんですけども♡」 「い、いえ……そういうことならお先にどうぞ……」 当たり前に断っただけなのだが、タントリスはこの世の終わりみたいな絶望顔で「私は悲しい……」と呟くと、脱衣所の扉を静かに閉めた。 後にはベディヴィアとランスロット、それにアーサーだけが残される。ただしアーサーはまるでただの杖であるかのように、押し黙って喋らない。 「タントリスは同じ魔法少女という存在に出会ったのが初めてだから些かはしゃいでいるようだ。騒がしくてすまないな」 ランスロットが苦笑する。魔力で編まれているのだという甲冑をデリートすると、青地に『ARTS』とプリントされた絶妙にダサいデザインのジャージが現れた。あの厳しい甲冑の下にこんなの着てたのか。 お茶でも淹れようか。そう言うとランスロットはキッチンの棚を手馴れた様子で開ける。どうやら彼らは長く一緒に暮らしているらしい。 「私はこの世界のことをまだ何も知りませんし、仲良くして頂けるのはとても有難いことなのです」 「ふむ、平行世界というやつだな。聞いたことはあるが……」 白地に赤いハートが散ったポットとカップ。茶葉入れは森で遊ぶ子うさぎと子リス柄。いかにもタントリスが選びそうな可愛らしいデザインだ。それをランスロットが男らしい大きな手で扱っているとなんだか可笑しかった。上げたり下げたりする度、不器用にカチャカチャと音を立てさせるから余計に不格好だ。 「お茶、私が淹れましょうか?実は紅茶にはちょっと自信があるのです」 「む。そういうことなら頼めるだろうか。実は昨日もカップを割っていてだな……次に割ったら部屋を追い出すとまで言われてしまった」 そう言って肩と眉を下げたランスロットから、ベディヴィアはくすくす笑ってポットを受け取る。 「ランスロットさんはタントリスちゃんとどれくらい一緒にいるんですか?」 「二、三年になるな。早いものだ。……そういえば君の御使いはどこにいるんだ?」 「御使い?」 「魔法少女の力を授ける者。タントリスの場合は私だな。御使いは選んだ魔法少女を傍で支えるのがこの世界での規則だが……どうやら平行世界では事情が違うようだな」 「そうですね。私は何も説明されずに一人放り出されたので」 ベディヴィアは空笑いする。ただ、マーリンが付いてきたら付いてきたで物凄く苦労した気もする。あの魔術師ときたら居ても居なくても面倒だから困りものだ。 ポットに湯を入れ蓋をした。茶葉を蒸らす為にここから更に数分億置く。その間、カップは湯を注いで温めておく。お茶を淹れるのは趣味の一つで、見知らぬ平行世界にいるとはいえ気分が少し軽くなる。湯を注ぎ終わるとケトルを五徳に置き、口端を緩めたままランスロットを見上げたが――彼は、眉間に皺を寄せた難しい顔をしていた。 「事情は分かったし、タントリスは君に好意を抱いているようだが……。私としては君には早くここを立ち去って欲しい。君も魔法少女だ、魔力を集め願いを叶えることが目的だろう?であればいずれ、タントリスと獲物の奪い合いになってしまうだろう」 ランスロットの懸念に、ベディヴィアは小さく首を横に振る。 「確かに魔力を集めることが目的ではあります。しかし弱きを助け、強きを挫くのが騎士の務め。彼を――ガウェインを倒す間だけでも協力させて貰えませんか?」 「君には何の得もないのにか?」 「こうして屋根を貸して頂けるだけで充分です。普段は野宿ばかりですので」 「…………君は家出少女なのか?」 「あ、いえ!そういうわけでは!……ええと、ここを説明するとすごく長くなってしまうのですが……」 「ふう。サッパリしました。ベディヴィアもお湯、いかがです?」 そう言ってタオルで艶やかな赤髪を拭きながら出てきたのが赤髪の少女ではなくどう見ても赤髪の青年であった為、ベディヴィアはここで悲鳴を上げることになる。 * 「説明不足を詫びます。私はトリスタン。ただしこのランスロットから授かった力を行使すると魔法少女☆タントリスと化すのです。風呂に入ると元の美男子に戻ります」 「自分で美男子って言っちゃうんですね」 「ええ。美しいですから、私」 トリスタンはソファに横たわり、ハート型のクッションを胸に抱いている。彫刻のような完璧な美貌の前では、単にだらけていようと優雅に見えるものなのだと理解した。まるで一枚の絵画である。 確かに美しい男性ではあるが、だからと言ってこの少女趣味全開の部屋が適切であるかと言えば否だろう。現に彼が横たわったソファからは脚が盛大にはみ出している。上背がありすぎるのだ。 「で。実は私も男なんです!と言って風呂に入り普通に出てきた貴女を私はどう扱えばいいのでしょうか?ベディヴィア君とでもお呼びします?」 「本当に私も男なんです!名前はベディヴィエール!ほらね、男の名前でしょう?」 「……どう思いますか、ランス」 「……どちらともつき難い名前としか……」 トリスタンとランスロットは顔を寄せ合って一応はひそひそ話をしているが、如何せん1LDKなので大して距離がなく筒抜けである。 風呂上がりのベディヴィエールは現在、トリスタンから貸してもらったジャージを着用している。赤地に「BUSTER」とプリントされたそれは、袖と裾を三回捲れば何とか着られた。ちなみにトリスタンは緑地に「QUICK」とプリントされたジャージを着ている。とにかくダサいが着心地は悪くないし、何より貸してもらう立場で文句は言えない。 「体は女の子でも精神は男なのです!ブリテンの騎士で、しかも千五百歳のおじいちゃんなのです!」 「設定盛りすぎですよベディヴィエール」 「設定ではありません!」 「トリスタン、FTMというものがあってだな。体と心の性別が違う者を指し、またの名をトランスジェンダーと……」 「多分そういうのでもありません!!」 ベディヴィエールは必死に説明するが、トリスタンとランスロットに理解出来るはずもない。沈黙が降りかけたところで、すっかり冷めてしまった紅茶の最後の一口を啜り、ランスロットがふっと笑う。 「どの道、君にはソファで眠ってもらう予定だった。少女の姿であれば脚がはみ出さず眠れると思って我慢してくれないか」 「ベディヴィエールが男だったら私は是非一緒にベッドで眠りたかったですよ?ランスロットはガタイが良すぎて……」 トリスタンはむくれ顔だ。男に戻ったベディヴィエールはランスロットと大差ない長身だが黙っておく。 「まあそれはもういいです。幸い明日は休日。この街を軽く案内してあげますね」 「それじゃあ寝るか」とランスロットはクローゼットの上収納から毛布を一枚引っ張り出した。それをベディヴィエールに手渡しながら「暫く干してない毛布ですまないが」と謝るから「掛ける物が無いのが普通でしたからお構いなく」と微笑むと、悪い冗談を聞いたみたいな神妙な顔をされてしまった。 ★ 「やあベディヴィエール。魔法少女満喫してるかい?」 「してるわけないでしょうマーリン。早く元の世界に戻して下さい。世界が無理ならせめて体だけでも」 「えー、元の体に戻らないのは私の配慮なのになぁ。キミ身長大きいし、片腕無いし。悪目立ちすると思って身長削って腕に配分したのに。あとおっぱい」 「そこ、配分しなくてよかったですよ?」 「キミ顔可愛いんだしたまにはロリ巨乳少女になってちやほやされなよ」 「意味が分かりません。第一、こんな姿では戦うのにも苦労するでしょう?」 「アーサーがいるじゃないか。彼に頼ればいい」 「……あの不思議物体ですか?」 「カレイドエメラルド。魔法少女の力の源。でも彼はそれだけじゃあない」 「何だかまどろっこしい物言いですね。もっと単刀直入に仰って下さいませんか?」 「本っ当風情が無いなキミは。ほら、そろそろ夜が明けるよ。目覚めたまえ魔法少女☆ベディヴィアちゃん」 「次会った時に物理で倍返しにしますから覚えてて下さいね」 ☆ ソファに積まれたクッションに半ば埋もれながら、トリスタンとベディヴィエールは一台のスマホを覗き込んでいる。頬をぴたりと寄せ合う様子は非常に睦まじく、昨日今日会ったばかりとはとても思えない。 「これはYouTube。スマホで魔法少女の戦闘を撮影してここにアップロード……ええと、皆にも見られるように共有させる住民の方も多いんですよ」 「スマホ……先程トリスタンとスノーでジドリしたあれですね?」 「ええ、そうです。これが一年前にアップされた私の動画。……む、またコメントが増えていますね。 『魔法少女も結構増えたけどタントリスちゃんが一番』『タントリスちゃんの可愛さ色褪せない』『ランスロット裏山』……ふふ、流石は私です」 「ほらほら二人とも、いつまでもスマホ見てない。もうじき朝食が出来るぞ」 「わ、すみませんランスロットさん!つい夢中になってしまって」 ランスロットに窘められるとベディヴィエールは即座にソファから立ち上がったが、トリスタンは当然のように座ったまま動画を眺めている。 「パンを焼いたのですね。芳ばしい匂いがします」 「ホットサンドというんだ。雑誌で見て試しに作ったらトリスタンが気に入ってしまって、朝はこれじゃないと食べないと言うから……先日ついにホットサンドメーカーを購入した」 「ふふ。ランスロットさんはトリスタンが大好きなんですね」 ベディヴィエールが微笑み掛けると、ランスロットは何かを誤魔化すみたいにごほんと一つ咳払いをした。 トリスタンはすまし顔でスマホから目を離さないが(彼は伏し目がちでどこを見ているのかイマイチよく分からないけど、多分)この距離ではひそひそ話さえしっかり聞こえてしまうことをベディヴィエールは知っている。 ランスロットから受け取った皿をテーブルに並べ、セットしておいたコーヒーメーカーからコーヒーを注ぐ。「紅茶は駄目です、朝はコーヒーじゃないと目が覚めません」とは十数分前のトリスタンの言葉だ。トリスタンのマグカップは赤いハート柄、ランスロットのは青いくじら柄で、ベディヴィエールのは客人用だというピンクのうさぎ柄。 「……何だか楽しそうだな、ベディヴィエール」 「はい、とても!こうして人と食卓を囲むのは一体何年ぶりになるやら。かびてなければ硬くなってもいないパンなんて最後にいつ食べたか思い出せません!」 満面の笑顔でとんでもないことを言い出すから、ランスロットは目頭を押さえつつベディヴィエールにだけ追加でもう一枚パンを焼いたし、トリスタンも何も文句を言わなかった。 アパートの扉を開けてまず目に入ったのは、天高く聳え立つ何基もの青灰色の塔だった。 「こんな塔初めて見ました。随分高くて、それにつるりとしていますね」というベディヴィエールの発言を、 「あれは塔ではなくビルと呼びます。まあタワービルなんて言ったりもしますけど」とトリスタンが訂正する。 青空に白雲が浮き小鳥が舞うのは変わらないけれど、この平行世界では技術が随分と発達しているようだった。平らな灰色の道はアスファルト。四角くて驚く程のスピードで走る乗り物は車。道の端に連なるのは電柱で、それを繋ぐ線は電線。電力と呼ばれる力が伝わっていて、人が触れれば最悪感電して死ぬという。 「でも鳥は電線に止まってますね?」 「電気は抵抗の少ないところを流れますから。鳥の脚より電線の中の方が心地いいからそちらを流れるとでも思えばよろしいかと」 そんな調子でこの世界のことを一つ一つトリスタンから教わる。彼はどんな質問でもはぐらかさずに分かりやすく教えてくれた。爪の垢を煎じてマーリンに飲ませたい。 仲睦まじい二人の後ろを、ランスロットは静かについて歩いている。トリスタンがベディヴィエールと笑い合う姿はなんだかとても自然で和やかで。会話に加わるよりも、そうやって後ろから眺めていたくなる。 「おや、トリスタンにランスロット。貴殿らが休日の昼間から外に出ているとは珍しいな」 凛とした声が二人の名を呼んだ。声元は垣根の向こうの庭先にて、洗いたてのシーツを干しているグラマーな女性のようだった。見事な金髪をぴっちりと几帳面に結い上げたその人は、やはりどこかで見たことあるような――まだないような。 「御機嫌よう、レディ・アルトリア。今日は友人が来ているのです。……ベディヴィエール、こちらはあのアパートの大家のアルトリアさんです」 「オオヤ?」 「簡単に言えば地主ですね。私にあの部屋を貸してくれている方です」 「成程。おはようございますレディ・アルトリア。トリスタンの友人のベディヴィエールと申します」 名乗って深々と頭を下げる。本当は――何故だろう。彼女の足元で傅きたいような衝動に駆られたけれど、それがこの場において適当な行動ではないことはよく分かる。 二秒程してから顔を上げると、怪訝な顔をしたアルトリアとかっちり目が合った。 「……どこに行くかは知らないが……。貴殿ら、時間に多少余裕はあるか?」 「ええ。街をぶらつくだけですので」 「ならば家に上がっていけ。年頃の少女がそんな恰好をしていては勿体ない」 ベディヴィエールは己の服――赤地に「BUSTER」とプリントされただぼだぼのジャージ。袖と裾が三回捲られている――を見直す。トリスタンとランスロットは自前の服に着替えたが、背が縮んでいるベディヴィエールに合うサイズの服はなかったのだ。着慣れてしまうとこの服も中々に楽でもうあまり違和感は無いのだけど……確かにこのまま街に出るのは適切ではないだろう。 「分かっていましたとも。これから原宿で可愛い服買おうと思ってたんですよ。嘘ではありません」 「貴殿の言う可愛い服とはあれだろう。ゴシック・アンド・ロリータとかいう。私はあれはあまり好かないな。年頃の少女は過度な装飾など無くとも可愛らしいものだ」 「私の好みはゴスロリではなく赤ロリですよレディ・アルトリア。ベディヴィエールに着せるなら甘ロリかと思いますが」 トリスタンとアルトリアが襖越しに会話する。アルトリアの家は都心には珍しい典型的な日本家屋というやつで、現在トリスタンとランスロットは襖で区切られた向こう側の客間で茶を啜っている。テレビもつけられてはいるけれど、あまり意識を向けられてはいないようだ。 重そうなタンスの引き出しを上から順に引っ張り出しては閉めて、一番下の段にきた時に「良かった、捨てていなかったか」とアルトリアはほっとしたように笑った。手に持っているのはシンプルだが品のいい白いブラウスと、青いロング丈のタックスカート。スカートと同色の青い細リボンが添えられているのは襟元で結ぶ為だろうか。 「背丈は合っていると思うのだが……ひとまず着てみて貰えないか」 「ありがとうございます。アルトリアさんが着ていた服なのですか?」 「いや、娘の物だ。まあ、これは私が買ってやったのだが……あの子の趣味には合わなかったらしく、着ているところは一度も見たことがない」 もし良ければそのまま貰って頂けるとこちらも有難い。そう言ってアルトリアは少し寂しそうに微笑んだ。 服は胸がちょっとだけきつかったけど、でも充分着られるし有難く貰うことにした。街に出たらトリスタンに頼んでアルトリアへのお礼を買わねばなるまい。と言うよりも、そもそもトリスタン達にも何か礼がしたい。マーリンが夢に出てきたらどうにか出来ないか訊いてみようか。 「すみませんアルトリアさん。初対面なのにこんなに良くして頂いて」 「そうだな。初対面のはずなのに……ふふ、可愛らしいからか私は貴女を妙に愛おしく思ってしまう。何だかとても懐かしい気分だ」 「あ、ありがとうございます……」 照れるベディヴィエールの髪を、アルトリアは大切な思い出に触るみたいな恭しさで一撫でした。 アルトリアの家を出て、更に暫く歩いてからベディヴィエールは小声でトリスタンに問いかける。 「……トリスタン。アルトリアさんっておいくつなんですか?」 「お若く見えるでしょう?……アラフォーの美魔女です」 * 竹下通りは若者だの旅行客だの何だかよく分からない人々だのでごった返していた。そんな中でもベディヴィエールは面白いものがあるとついふらふら歩いて行ってしまうから危なっかしい。普段はベディヴィエールと同じように気の向くままふらふら歩き回っているトリスタンも、今日ばかりは保護者の如くベディヴィエールにぴたりとついて歩いている。 「トリスタン!あれは!あれはなんですか?!虹色です!すごいのです!」 「綿飴という甘味ですよ。やめておきなさい。着色料で彩色しているから見た目は綺麗ですけど馬鹿みたいに甘くて三口で飽きます」 「うむ。そして残ったほぼ全部は私が食べさせられた」 「ああ、飽きたらランスロットに食べさせるという手がありましたね」 「とぅわ……」 「いいえ大丈夫です、私は食べ物を絶っ対に残しませんから!」 ゲテモノ肉でも余すところなく食べます!とベディヴィエールが殊更明るく言うので、ランスロットが再度目頭を押さえることになる。平行世界とはどれだけ過酷な世界なのか。この娘はそこで一体どんな生活をしてきたのか。 「トリスタン、あちらの行列は何ですか?」 「あれは……カップケーキの新店ですね!ランスロット、並びましょう」 「しかしトリスタン、そろそろ軍資金がだな……」 「レディ・アルトリアへの土産をあそこで買う。ということでどうでしょう?」 表情を曇らせたランスロットにトリスタンがさらりと提案する。加えてアルトリアの名を聞いたベディヴィエールから大きな瞳でじっと見つめられては、最早お手上げであった。 「……分かった、私の負けだ。ATMに行ってくる。先に並んでいてくれ」 ランスロットが肩を竦めたのを合図に、トリスタンとベディヴィエールは同時に破顔して、手に手を取って駆け出した。 ……ベディヴィエールには感謝しなければならないな。こんなに楽しそうにしているトリスタンは初めて見る。 二人の背中を見送って、ランスロットは今しがた通り過ぎてきたコンビニエンスストアを目指し、踵を返した。 「……実際のところ、トリスタンはランスロットさんのことどう思っているんですか?」 当人がいない今がチャンスとばかりにベディヴィエールが質問する。華やかな好奇心で深緑の瞳がキラキラしているのは、少女である体に精神が引っ張られているからだろう。しかしトリスタンはといえば相変わらずの涼しい顔だ。 「便利な犬ですね」 「そんなこと言って」 「残念ですけど、私は貴女が期待するような答えは持ち合わせていませんよ。……まあ、でも。ある程度の好意が無いと一緒に暮らすことは出来ないでしょう」 そう語るトリスタンの声は何だか少し寂しげだ。 気になって表情を窺おうとしても今のベディヴィエールの身長では難しい。つま先で立ち、少しでも顔を近づけようとしていたら、 「……キスして欲しいんですか?」 そう悪戯げに問われて、顔を九十度背ける。 トリスタンの控えめだが楽しげな笑い声が上から降ってきた。 もう。人をからかって。 トリスタンに文句を言うべく視線を戻そうとしたけれど――――見事な金色の髪が陽光を反射してきらりと輝くのを、ベディヴィエールは目の端で捉えた。 そう。あれは夜だったけれど。もしも昼に彼と間見えていたならきっとこんな風にきらきら輝くのだろうと、正にそう想像した通りの美しさだったのだ。 「あ、あのっ!トリスタン!」 「はい?」 そうやり取りする間にも、彼は早足で角を曲がってしまった。服装はその辺の通行人と変わらないが、あの髪と彫りの深い雄々しい顔は見間違いようもない。早く追いかけなくては見失ってしまう。 「……あの、大丈夫ですから!すぐに戻……れるかは分からないけど、とにかく私は大丈夫ですので!」 そう言いながら、ベディヴィエールは既に走り出している。トリスタンの引き止める声が聞こえてはいたけれど振り返ることはなく、獲物を前にした猟犬のように、ただ前だけを見て駆ける。 * 大通りから外れると路地は驚くほど閑散としていた。高いビルに挟まれたそこは暗く狭く、無造作に置かれたゴミや鉢植えを避けながら走る。真っ直ぐに見えて実は歪んでいるのか彼――ガウェインの姿は見当たらない。昨夜のような甲冑ではなく私服と思われる適度にラフな服装をしていたが、でも見間違いではないと思う。 この路地は一体どこへ通じているのか。もしかして何かの罠なのか。一度戻ってトリスタン達と合流するべきだろうか。 「……アーサー!」 『任せて』 走りながらトリスタンに持たせてもらったポーチの留め具を外すと、アーサーがふわりと飛んで出る。目映い光に包まれたのはほんの一瞬のこと。右足を出して、次に左足を出した時には魔法少女の姿になっていた。モチーフからステッキ状に姿を変えたアーサーを右手にぎゅっと握る。 今でさえ見失いかけているのだ。引き返す暇などあるわけがない。追えるところまでひとまず追おう。うまくいけば……そんなものがあるかは分からないが拠点のような物を見つけられたら御の字だ。 路地の間から白く光が漏れている。開けたところに出るようだ。鬼が出るか蛇が出るか。ベディヴィアは覚悟を決めて飛び出した。 「あれー、魔法少女じゃん!」 「えっまじで?カワイー!動画撮っちゃお!」 「わー、初めて見る子だ!髪きれー!」 「ねえねえ、名前は何ていうんですか?」 「魔法少女ちゃんこっち見てー!目線頂戴!」 「きゃっ!?ちょっと、押さないでよ!!」 「決めポーズとか決め台詞ないの?新人じゃ無理か」 「…………え?」 飛び出た場所は駅前の大通りで。あっという間にベディヴィアは野次馬に囲まれてしまった。 きょろきょろ辺りを見回すが、ガウェインの姿は見当たらない。というよりも人が多すぎて何が何だか分からない。 アーサーを握りしめながらベディヴィアは一歩後ずさる。予想外の事態に軽くパニックを起こしていた。アーサーの名を小さく呼んでみるけれど返事はない。彼はやはりベディヴィア以外の人間がいる前では喋らない、もしくは喋れないようだ。 「魔法少女ちゃん言葉通じてるー?」 「ねー、何か喋ってよー」 「あ、あの……、私……」 ベディヴィアが口を開くと人々はわっと歓声を上げた。カシャカシャという音と共に一斉にフラッシュが焚かれる。トリスタンとジドリした時のあれだ。害は無い。そう分かっているのに足が竦む。まるで三方から威圧されているようだった。今のベディヴィアの背丈は少女のそれで、人垣はさながら生きた壁であった。 ――話は一分程前に遡る。 背後からわっと上がった歓声に、ガウェインは思わず足を止めた。 「え、何?芸能人?」 「魔法少女だってさ!新人の子!」 スマホを見ながら前を歩いていた二人の女性が、はしゃぎながら今来た方へ駆けて行く。 魔法少女は正義の存在として街の平和を守る傍ら、その清純な愛らしさ(噂によると魔法少女は処女しかなり得ないらしい)や神秘性から人々からはアイドルのような存在としての人気も高い。 そんな彼女らに敵対するガウェイン達は『悪の組織』などと世間では呼ばれていたりするが、別に世界征服を目論んでいるわけでもなければ、人々に害を与えるわけでもない。自らの願いの為に、魔力を持つ他者を狩る。少女であるかそうでないかの違いがあるだけで両者の本質に大差はない。互いを喰らい合う二匹の蛇のような間柄だ。 「長い銀髪」「深緑色の瞳」「青りんご色の服と杖」。ただ立ち止まっているだけで、新人魔法少女に関する情報は周囲から次々に飛び込んできた。試しにスマホを開いてみれば、彼女の写真は早速ネットにアップされている。 人々に囲まれ戸惑うベディヴィアの表情はか弱く、憐れみを誘った。……ガウェインは大きくため息をついて路地裏に入る。悪の組織側の人間はその名称から魔法少女以上に露出を嫌っているが、放っておけるわけはなかった。 このまま留まっていても事態は好転しない。 当初の混乱をやっと脱したベディヴィアは小さく息をついて自分を落ち着かせた。ここ千五百年ばかり人を避けて生きてきたので焦ったが、つまるところ人だと思わなければいいのだ。狼とかかぼちゃとか。その辺はまあ何でもい。 右足を一歩後ろに下げた。先程の後ずさりとは違う、確かな意思の元の行動だ。前に進めない以上、後退するしかない。今しがた来た細路地を戻るべく踵を返す。しかし―――すぐ後ろに、誰かがいることに気付いて目を大きく見開いた。 「……全く。貴女は一体何をしているのか」 ため息混じりの言葉と共にベディヴィアの目の前が黒く染まった。逞しい腕に抱きすくめられる感触に、先程までとは違うベクトルで頭が混乱する。 ガウェインの衣服の裏地が黒色の正体であったとは、彼の腕から解かれた時に気が付いた。 * 「助けて頂いてありがとうございます。……敵なのにすみません」 今自分で言った通り敵対しているはずのガウェインに、ベディヴィアは深々と無防備に礼をした。 首を落とそうと思えば簡単に出来るはずなのに、ガウェインにそんな素振りは全くない。「これくらい何でもありませんよ」とやや頬を赤らめながら、彼女が顔を上げるのをただ見守る。 そこは小さな公園で、立地的に朝から夕まで南の巨大ビルの日影の中にあるのだろうと思われた。暗い上に細い路地にしか面していない公園には子供はおろか大人の姿もない。 頭を上げたベディヴィアは、ガウェインに不思議そうに問う。 「昨日この世界に来たばかりでよく事情を知らないのですが……ガウェインさんは魔法少女と敵対しているのではないのですか?」 「ええ、仰る通りです」 「では何故私を助けたりしたのです?」 「貴女のように愛らしい……あ、いや。貴女のように未熟な魔法少女、倒したところで何にもならないからです」 「成程。ガウェインさんは合理的且つ懐の大きな御方なのですね」 ベディヴィアは納得して一人でうんうんと頷く。ガウェインはといえば表情だけはクールなまま、褒められた嬉しさから外套の中で小さくガッツポーズをした。 「ベディヴィア。よろしければ家まで送らせて頂けませんか?貴女一人で街を歩かせるのは心配です」 「でも……実は私、昨晩ガウェインさんと戦っていた魔法少女のところにご厄介になっていまして……」 「拠点を割る気はありません。魔法少女とは正々堂々戦って勝敗を決めると自らに誓っています。貴女が「ここまででいいです」と言って下されば大人しく帰りますので、ご安心を」 そう言うとベディヴィアはほっとしたように頬を緩ませて頷いた。太陽の位置から大体の方角は分かるが、この街は作りがかなりごちゃごちゃしていて一人で歩くには不安があった。あまり遅くなってはトリスタン達に余計な心配を掛けてしまう。 「この姿では目立ちますね。変身を解除するので、貴女も解除をお願いします」 ふわりと一陣の風が吹き抜けて、ベディヴィアが思わずぱちりと瞬きをした次の瞬間には、ガウェインの姿は甲冑から私服へと変わっていた。 「……。ガウェインさん、後ろを向いて貰っていいでしょうか?」 「……構いませんが、何故です?」 「……一瞬だけなんですけど……変身を解く時、裸になってしまうのです」 頬を桃色に染めて眉をハの字にしたベディヴィアに、嘘をついている様子はない。ガウェインは咳払いをしてさっと後ろを向いた。もしこの隙に後ろからバッサリやられたとしても、魔法少女の作戦勝ちと言うしかない。 「……アーサー」 ベディヴィアは小声でアーサーに話し掛ける。アーサーもそれに小声で応えた。 『君も彼も、少々人が良すぎるんじゃないかな』 「特に恨む気持ちも無いもので」 『君達のような人間ばかりなら、世界から争いなんてすぐになくなるだろうにね』 言葉はやや皮肉げだが、アーサーの語調は微笑を含んだように優しい。 ぱちんと眩い光が弾け、ベディヴィアからベディヴィエールの姿へと戻る。ふわふわ浮かぶアーサーをポーチへ収めると、ベディヴィエールはガウェインの服の袖を摘んでそっと引いた。 「お待たせ致しました」 白いブラウスと青いスカートを身につけたベディヴィエールの出で立ちを見たガウェインは、一瞬驚いたかのように表情を強ばらせた。 「……その服、」 「……似合っていませんか……?」 「あ、いえ。品があってとてもよくお似合いですよ、レディ」 では参りましょうとガウェインが左手を差し出した。その手を握っていいものか悩み、ベディヴィエールは指先でそろりと彼の袖口に触れる。するとガウェインは分厚い手の平でしっかりとベディヴィエールの手を握り込み、にっこりと満足気に微笑んだ。 人に溢れる街角も、ガウェインがさり気なくエスコートしてくれるのでスムーズに歩くことが出来た。彼のように凛々しく頼もしい青年と恋人になれたなら、女性は何も不安に思うことなくいつも幸せでいられるだろう。 「ガウェインさんは、何故魔法少女と戦うのですか?」 気になっていたことを聞いてみた。こんなに優しくおおらかな彼が、何故トリスタンたちと争わなければならないのだろうか。 「願いを叶える為です」 「願い?」 「……少女であれば、御使いから魔法の力を得て魔法少女となり、願いを叶えることが可能です。しかし、逆に言えば少女でない者はどんなに強い願いがあろうと叶えようがない。だから私達は彼女達を狩る側に回り、その力を奪うことで自らの願いを成就させるのです」 「……そうだったんですか」 「新人だからでしょうか、貴女からはほぼ魔力を感じません。今は本当に戦う意味が無いのです。……ただし、魔法少女☆タントリスは見逃せない。ベテランの彼女は高い魔力を有している。恐らく彼女を狩ることで私の願いは成就するし、私を狩れれば彼女の願いは成就するでしょう」 「……ガウェインさんの願いって、何なんですか?」 「悪巧みはしていませんよ。しかしレディ。これ以上はどうか、ご容赦を」 唇に人差し指を当て、ガウェインは悪戯げにウインクして見せた。 * 幾つか角を曲がると何となく見覚えのある路地に出た。ここはどこだっけと思考を手繰り寄せるよりも先に、トリスタンの艶やかな赤髪と長身のランスロットが目に留まる。彼らもどうやらベディヴィエールに気が付いたらしく、ほっとした顔でトリスタンが駆けてきた。 「ベディヴィエール!」 勢いが死なないと思ったら、そのままがばっと抱きしめられた。 「突然いなくなっては心配するでしょう?ああ、でもよかった。安心しました。今頃偽スカウトに連れられて安ホテルでいかがわしい撮影でもしているのではないかと気が気じゃありませんでした。あの後貴女専用の首輪を買ったので、これから外に出る時はそれを付けて出ましょうね」 「?すみませんでした、トリスタン」 意味は分からなかったが、とても心配を掛けてしまったことだけはよく分かった。トリスタンの背に腕を回し、ベディヴィエールもぎゅっと力を込める。 「ガウェイン殿、ベディヴィエールとお知り合いだったのですか?」 「いいえ、たまたま駅前で行き合っただけです。困っている様子だったので声をお掛けしました」 抱き合うトリスタンとベディヴィエールを他所に、ランスロットとガウェインがごく自然に会話する。ベディヴィエールは不思議そうに目をぱちぱちさせた。 「……トリスタン、ガウェインさんとお知り合いなんですか?」 「ガウェイン殿はレディ・アルトリアの御子息ですよ」 「え、えええええ?!?!あんなにお若いのにこんなに大きな息子さんが?!?!」 「アラフォーの美魔女だって言ったでしょう」 「……ほう。そんなに家賃を値上げされたいか、トリスタン」 背筋が凍りつくような冷ややかな声が、垣根の向こうから聞こえてきた。そうだ、見覚えがあると思ったらここはアルトリアの家の前なのだ。 「これはレディ・アルトリア、ご機嫌麗しゅう。年月など貴女の美貌の前ではただの数字に過ぎません。……ので、どうかご慈悲を」 いつも飄々としているトリスタンも流石に焦っているようだった。アルトリアは微かに笑気を含んだ口振りで「安心しろ、冗談だ」と返答する。 「ハハハ、それではトリスタンの口がまた滑る前に部屋へ戻ろう。ベディヴィエール、レディ・アルトリアとガウェイン殿に挨拶を」 「レディ・アルトリア。ご心配をお掛けしてしまったようで申し訳ありません。それから……ガウェインさん。とても助かったのです。ありがとうございました」 「困った女性をお見掛けしたら助けるのが紳士の務め。必要とあらばまた、いつでもお声を掛けて下さい」 恭しく一礼するガウェインに小さく微笑み手を振って、ベディヴィエール達はアパートに戻るのだった。 * 「それでは試しにつけてみましょうか」 トリスタンはアパートに戻るなり、上機嫌な様子で黒い小さな紙袋を取り出した。中から出てきたのは滑らかなコーティングを施された青りんご色の輪だ。白いフリルで縁取られて、中心の留め具を兼ねているらしい黒い小さなリボンの下からは銀色の細い鎖が伸びている。 「トリスタン。それは……?」 「首輪ですよ?さっき言ったじゃないですか。奮発して鍵付きを購入してしまいました。鍵以外では外せないからこれで安心です」 「何が安心なんですか……?な、なんか顔が怖いですよ!?こっち来ないで下さい!」 「この美男子に向かって顔が怖いとは、酷い人です。ランス、押さえて」 トリスタンが鋭く命令すると、ランスロットはベディヴィエールの背後に回り込み、素早く羽交い締めにした。 「……ベディヴィエール、心配は無い。トリスタンは飽きっぽいから一回つけて見せれば満足する……と思う。多分。恐らく。きっと」 「希望的観測じゃないですか!?……ひゃっ!!」 滑らかだが無機質な感触が首元にまとわりつき、ベディヴィエールは思わず情けない声を上げてしまった。トリスタンは手早く金具を止め、小さな鍵をかちりと締めた。鍵はすぐにランスロットに渡す。多分、自分が持っていてはうっかり紛失しかねない自覚があるのだ。 「ふふ。ベディヴィエール、とてもよく似合っていますよ」 トリスタンは恍惚の表情で手に持った鎖を軽く引いた。軽い金属音と共に、慣性に従ってベディヴィエールの身体がトリスタンの方へ傾ぐ。窮屈そうな表情が一段と加虐心をそそった。 「ベディヴィエール、ご主人様と言ってみて下さい」 「ご……ご主人様……?」 「可愛い。愛玩動物か家畜のようですね。さあ、これからどうしましょう。一緒に遊んで欲しい?美味しいおやつが欲しい?」 「これ、何だか息が詰まります……!っ、外して下さい……!」 「そんな細い首で何を言っているんですか。余裕もちゃんとあるでしょう。……それに元はと言えば心配を掛けさせた貴女が悪いのですよ?ちゃんと反省してます?」 「反省ならしてます、ごめんなさい!もう勝手なことしませんから、外して下さい……!」 「だめです、信用出来ません。……ランス。帰ったばかりで悪いんですけど、一時間くらい散歩してきてくれません?ベディヴィエールをじっくり反省させますので。……あ、でもその前にタントリスの姿にして下さい。女の子同士なら問題ないのですよね?このままだと普通に犯しかねないので、私」 「……ベディヴィエール、健闘を祈る」 「何の健闘ですかーーーーー?!?!?!」 一時間程してランスロットが帰宅した時、タントリスは妙に肌つやの良いぴかぴかの頬を目が死んだベディヴィエールにすりすりと擦り寄せていた。辛うじて裸では無かったが、二人とも衣服が大きく乱れている。……具体的に何があったかは聞くまい。 ランスロットはまずベディヴィエールの首輪を外してやり、次に風呂に湯を張った。先に元気なタントリス、その後に気持ちだけは何とか持ち直したよろよろのベディヴィエールを入らせた。 ベディヴィエールがやたら長風呂だったので心配して薄く扉を開けて中を窺うと「元は男だから大丈夫元は男だから大丈夫」と何度も何度も呪文を唱えるかのように呟いていた。見なかったことにしてそっと扉を閉める。 湯上りには外出先のコンビニで買ってきたプリンを食べさせてやった。その頃にはベディヴィエールの蒼白だった顔色も大分良くなっていた。口数も増え、プラスチックの小さなスプーンを咥えながら「あ、そういえば」と自ら口火を切る。 「トリスタン達はガウェインさんと仲が良いんですか?」 「ええ、そうですね。大家の息子ということを差し引いても、まあそれなりかと」 「…………ガウェインさんの正体には気付いてます?」 訝しげなベディヴィエールと対照的に、トリスタンもランスロットも豆鉄砲を食らった鳩のような顔をしている。 「正体……?彼はまだ大学生だと聞いていますがホストでもやってるんですか?」 あっけらかんと、そんなことさえ言った。 「本当に気付いてないんですか?姿も声も変わらないのに?」 「ランス。ベディヴィエールが何を言っているか分かります?」 「……トリスタン、仕置きが少しキツすぎたのでは……?」 「それは関係ありませんっっ!!」 ★ 「やあベディヴィエール。随分気持ち良さそうだったね」 「ぶち殺しますよ」 「ハハハ、私は不死だからそれは無理だよ」 「せめて殺す気で殴らせて下さいませんか」 「口調は丁寧だけど内容は蛮族だよね。八つ当たりはやめておくれよ」 「そもそも誰のせいでこんな目に遭っていると思っているのですかっ!!……もういいです。それより、ガウェインさんがあの騎士と同一人物だと、トリスタンもランスロットも何故気付かないのでしょう?姿も声も、名前さえも変わらないのに」 「変身前後で殆ど姿が違わないのに、親しい知り合いにも正体がバレない。これは魔法少女のお約束なんだよ。ガウェインの方だって、トリスタンやランスロットが魔法少女と御使いだとは気付いていない」 「何だか呑気な話ですね」 「キミもそっちの世界に行ってからずっと似た状況にいるけど、気付いてる?」 「そういえば……はい。皆、確かに見覚えがあるのですが、それが誰なのかはどうしても思い出せなくて……」 「うん。でもそれは別に魔術的な要因が働いているわけではないんだ。ただの形式化されし定例。不変なるはテンプレート」 「特に理由はないから深く考えるなということですか?」 「相変わらず情緒に乏しいなキミは」 「その件は了承しました。……あと、トリスタン達に何かお礼は出来ないものでしょうか。こんなに良くして貰っているのに、私には何も返せなくて心苦しいのです。どうにかなりませんか?」 「サー・ベディヴィエール」 「はい」 「勘違いをしてはいけない。その世界は魔力を集める為だけに飛んだ世界だ。確かに、他者の協力があった方がスムーズに事は運ぶだろう。でも、キミには何よりも優先すべき使命がこちらの世界にあるはずだ。ランスロットも懸念していたけれど、いざとなったら魔力を巡ってトリスタンとだって戦わなきゃならない」 「……余計な情けを掛けるな、と仰っているのですか?」 「流石にそこまでは言っていないさ。……そろそろ夜明けだね。Good Luck、魔法少女☆ベディヴィアちゃん」 「Bloody hell」 「魔法少女の姿でスラングはやめてくれないかい!?」 ☆☆☆ 「友人の個展が始まったので一緒にひやかしに行きませんか?せっかくだから近くの展示も五ヵ所くらいハシゴしましょう」 そうトリスタンに誘われれば、特にやることのないベディヴィエールに断る理由は無い。ランスロットが作り置きしていってくれたホットサンドをレンジで温め直しながら一つ返事でOKした。 トリスタン曰く、ランスロットは至極真っ当に役所勤めをしているらしい。事実、彼は六時に起きて身支度を整え、七時には燃えるゴミの袋を片手に颯爽と部屋を出て行った。ランスロットと一緒に起きたベディヴィエールが皿を洗い洗濯物を干し終え、トリスタンが起きてきたのは八時過ぎだ。しかもテレビを点けてしまうとトリスタンはなかなか動かず、二人が家を出たのは結局十時を回ってからである。 家から電車までの道のりは免除してくれたが、目的の駅に降り立つとトリスタンは待ってましたとばかりにベディヴィエールに首輪をつけた。わざわざ持ってきていたらしい。その癖「失くすといけないので貴女が持ってて下さい」と言って他ならぬベディヴィエール自身に鍵を渡すのだから呆れてしまう。後が怖いので外さないけど。 「……本当にこれで行くのですか……?」 「ええ。何か問題でも?」 「問題しか見つからないです」 「四つん這いになれとまでは言いませんよ?これはプレイの一環ではなく、実用品としてつけている首輪ですから」 トリスタンの思考の飛び方はベディヴィエールの常識の範疇外にあった。これ以上は藪をつついて蛇を出すことになりかねないと口を噤む。 本日ベディヴィエールが着用している服は首輪と同色の青りんご色のワンピース。トリスタンが購入したというそれはフリルをふんだんに使用したふわふわ甘々なデザインで、魔法少女の衣装にも引けを取らない。 首輪のリードを握るトリスタンはといえば、ベディヴィエールと対照的にモノクローム且つシンプルな装いだ。「コンセプトはご主人。カジュアルとフォーマルの境界線を意識しました」とご丁寧に説明までしてくれた。具体的に言うと(ランスロットがアイロンを当てた)白いパリッとしたシャツに(ランスロットが皺にならないように吊るしてくれた)黒いスラックスとベストを合わせている。 「この髪の色だから彩度高い服は合わせるの結構難しいんですよね。あ、ピアスだけは貴女とお揃いの色にしました」と嬉々として語った通り、青りんご色の小さなピアスが耳にそっと色を添えている。 「堂々としていればいいんですよ。ここは新宿も歌舞伎町なのですから。みんな素知らぬ顔して歩いてますけど、首輪を付けたり付けられたりしたい方が本当はたくさんいらっしゃいます。夜になるとよく分かりますよ」 「はあ、そうなんですか」 「ええ。ヒールで踏んだり鞭で叩いたり蝋を垂らしたりするのに比べれば、拘束具くらい可愛いものです」 絶対にその認識は間違っていると思うのだが、トリスタンににこやかに言われると反論の言葉がどこにも無い。なんていうか、何を言っても無駄なんだろうなと、そこで思考が停止してしまう。 「それじゃ行きましょう。こっちです」 当たり前みたいにトリスタンが鎖を引き、ベディヴィエールは仕方なくそれについていく。 高いビルのそびえ立つ新宿の裏路地は昼間でも薄暗い。方向が分かりにくい上に碁盤の目のような道も多いから、慣れていないと今どこを歩いているのかよく分からなくなり、迷いやすい。トリスタンは勿論慣れた様子で迷いなく進んでいる。涼し気な横顔は何だか少し楽しそうだ。 やがて立ち止まったのは周囲に比べるとやや背の低い四階建てのビルだった。両隣のビルはそれぞれ倍くらいの高さがあるから、やや肩身が狭そうに見える。トリスタンはそこの階段で上に昇るのではなくて、下に降りた。どうやら地下があるらしい。 手摺がないので、灰色の冷たい壁(打ちっぱなしのコンクリート)に直接手を添えて階段を降りる。行き止まりにあった扉は金属製で少し重たそうに見えたが、トリスタンが押さえていてくれたので隙間をくぐるだけで済んだ。 金属の扉の向こう側も、やはり素っ気ない灰色の冷たい壁に八方を囲まれていた。本来ならひたすらうら寂しいだけ部屋だろう。しかし現在、そこには木製の美しい彫刻が何体も鎮座し、独特の雰囲気を醸し出している。 「おお、トリスタンか。良いところに来たな。丁度今、第一陣目の客とWeb雑誌の取材が帰った」 入口脇の受付に座った男性が、艶のあるハスキーな声で出迎えてくれた。美しい長髪と目元に差してある紅のせいで一瞬女性と見間違えてしまったけれど。 「おはようございます政殿。……それとも始皇帝殿とお呼びしましょうか?社長業は本日はお休みなのですか?」 「呼称は好きにせよ。荊軻の個展の初日だぞ、会議は蘭に都合をつけさせた。涙目になってはいたがな。……それにしても今日はまた随分と愛らしい伴を連れているではないか。誘拐でもしたのか?」 「いいえ。月がきれいな晩に拾ったのです」 トリスタンはあながち嘘をついていないが、冗談と取った男が声高に笑う。 ――すると部屋の奥から男の顔を目掛けて一直線にナイフが飛んできた。床に対して平行軌道を描く容赦ないそれを、だが男は余裕の表情で止める。しかも刃先を二本の指で挟むという恐ろしく高度な方法で。ベディヴィエールは驚いて目を丸くしたが、トリスタンは無反応だ。 「貴様喧しいぞ。ここは声がよく反響するから死んだように黙っているか、もしくは死ねと言っただろう」 「だが客人だぞ荊軻。脳内に直接話しかけて出迎えろとでも言うのか?流石の朕もそれはちょっと無理」 足音も無く現れたのは、雨に濡れたような漆黒の髪が白装束によく映える美しい女性であった。怒りの為に目尻がきりりとつり上がっているのがより強気な印象を与えるが……それにしても人に対してナイフを投擲するようには見えないのでやはり驚く。 「んんん?トリスタンじゃないか!来てくれるだろうとは思っていたが、平日昼間からとは優雅なことだな。それにまさかの女連れか!……どこで拐かしたんだ?」 「拐かしたとは失礼な。悪人はこの子の方ですよ、ベディヴィエールが先に私の心を盗んだのです」 荊軻は大爆笑だった。腹を抱えて一頻り笑った後で「貴殿のそういうセンスが私は本当にツボなんだ」と涙を拭う。受付の男は何故かあまり面白くなさそうな表情をしていた。 「これ、もしかしてみんな荊軻さんが作った彫刻なんですか?」 ベディヴィエールが指さして問うと、荊軻は気持ちよく大きく頷いた。 「私は昔から小刀で物を切ったり刺したりするのが大好きでね。暗殺者になろうかとも思ったんだが、縁あってめでたく真っ当な職にありつけたというわけさ。まあ、真っ当と言っても芸術家なんて博打打ちみたいなものだがな」 荊軻は男の手からナイフを奪い、手の中でくるくると回した。まるでナイフが体の一部であるかのようだ。 「働かずとも朕の扶養でやっていけるものを……」 受付の男が不機嫌そうにぼやく。そういえば二人の手にはそれぞれ銀色の指輪が嵌めてあった。ただし男の指輪は左手の薬指、荊軻のそれは右手の薬指に嵌めてある。 「誰が貴様なんぞの世話になるか。そこまで落魄れるくらいなら野垂れ死ぬのを選ぶぞ私は」 「折角結婚したのに、これだ」 「泥酔した私にサインだけさせて、貴様が勝手に届を出したんじゃないか」 「まさか翌日には多額の保険金を掛けられた挙句、毎日のように匕首で襲われるとは思わなかったぞ」 「殺されたくなかったら離婚しろ」 「それは断る」 会話の中身が物騒すぎて、どこまで本気にしていいのか分からない。険悪な仲なのか一周回って仲良しなのかも不明だ。ちらりとトリスタンの顔色を窺ってみても、彼は彼で寝てるか起きてるかすら分からない有様で何の参考にもならない。 「おっと、すまなかったな客人の前で。とにかくどうぞ見ていってくれ。手を触れるのはNGだが、写真を撮ってSNSにアップするのは大歓迎だぞ」 受付机に積まれたちらしを抜き取り、荊軻は二人に一枚ずつ差し出した。 荊軻は平均よりやや身長はあるものの、細く色白なとても華奢な女性に見えた。なのにどこにそんなパワーがあるのか、後ろ足で立つ軍馬や、彼女の背丈を軽く超えた力強い龍の彫刻の迫力に圧倒される。かと思えばうさぎや小鳥をモチーフにした可愛らしい習作もあった。手で包んだら体温さえ感じられそうなめらかな仕上がりだ。いくら眺めていても退屈しない。受付で貰ったチラシには、アジアを中心に活躍する国際的な彫刻家だと表記されていた。 「……こんなすごい人と一体どこで知り合ったんです?」 「カラオケですよ」 「カラオケ?!」 「間違って入った部屋に彼女がいたんですよ。知ってる歌のイントロだったからそのままデュエットして、彼女が注文していた紹興酒のボトルを分けてもらいながら話してる内にお互い傷心中と分かって……まあ彼女の場合ご成婚直後だから少し違うけど。とにかく意気投合してLINEを交換しました。『恋はドラクル』という知る人ぞ知る迷曲、知ってます?」 「全く知りません」 「帰ったら聴かせます。インスピレーションをビシバシ刺激してくるドえらい曲ですよ」 あまり興味はなかったが、話の流れが流れなだけにハッキリ嫌とは言えず、ベディヴィエールは返事を濁した。 * 「機会があったらまた立ち寄ってくれ」 会場奥にて創作を行っているらしい荊軻は、小刀を片手に持ったまま階段の上り口まで見送ってくれた。トリスタンとベディヴィエールは「ええ、是非また」と笑って小さく手を振る。 来た時には閉まっていたビル目の前のバナナジュース屋が開店していたので、Sサイズを一つずつ購入した。甘くて濃厚などろりとした液をストローで少しずつ吸い上げる。 「……そういえばトリスタンは何か仕事をしているのですか?」 「強いて言うならモデルですね。服を着るやつではありませんけど」 「どんなことするのです?」 「よろしければ今度一緒にやります?人前で裸になったり身体中に絵を描かれたり縛り上げられたり石膏で固められるのに抵抗がなければですけど」 「……結構です」 「ふふふ。私ほどの美男子になると会社勤めをするよりも身体を売った方が効率よく稼げてしまいまして」 「その言い方はなんか違う気がしますけどね」 とにかくトリスタンが芸術系の情報に明るく、拘束等に偏見の無いわけはよく分かった。 路上に設置されていた屑篭にカップを捨て、次の会場へ向かう。退廃だのポップカルチャーだのレトロフューチャーだの、ベディヴィエールには意味の分からない作品も多々あったけれど、トリスタンが機嫌良くしていることもあって何となく楽しい。 昼食らしい昼食は摂らなかった。ランスロットがいたら確実に怒られているだろうけど、歩いている途中に点在するドーナツやワッフルやクレープなどのスイーツ店を片っ端から回り、気になるメニューを適当に摘んで終わらせた。 とても楽しくて、終始二人は笑っていた。 ――お陰で、あっという間に時間は過ぎ去ってしまった。 「……そろそろ戻って夕食の支度をしないとですね」 空の大半が橙色に染まるのを見てベディヴィエールが言うと、 「まだいいです。何かテイクアウトして帰ればいいじゃないですか」 とトリスタンが唇を尖らせる。 「そうはいきません、ランスロットさん頑張ってくれているんですから。――でも。本当に、今日はとても楽しかったのです」 「ええ、本当に。……もしも今夜魔力が満ちてしまったら、私はベディヴィエールにこのままずっと留まって欲しいと願ってしまうかも知れません」 「ふふ。せっかくの願い事が勿体ないですよ」 「いいえ。――そもそも今の私には、願いらしい願いは無いのですから」 トリスタンは、時折見せるあの寂しげな表情を浮かべた。知らない場所に一人で置き去りにされた、孤独な子供みたいな顔だ。 「願い事が無いのに戦っているのですか?」 「初めは、ちゃんと願い事がありましたよ。でも今は……何だかよく分からなくなってしまって……」 歯切れの悪い言葉に、ベディヴィエールは首を傾げた。トリスタンは口端を皮肉げに歪め、どこか諦めに似た微笑みで応える。 「あの頃の私は寂しかったのです。ただそれだけだったから……今は傍にいてくれる人がいて、すごく満たされてしまっていて……。ふふ、すみません。本当に意味不明ですね。忘れて下さい」 夕焼けを見ていると感傷的になってしまっていけません。首輪を外して、もう帰りましょう。そう言った時には、トリスタンはいつも通りの飄々とした彼だった。 ベディヴィエールは首輪を外し(なんせ鍵は自分で持っている)、まだ違和感の残る首元を撫でながら、夕焼けを見るトリスタンの後ろ姿を眺めた。 彼は見事な赤毛をしているから、夕焼けの赤に霞んで蕩けてそのままいなくなってしまいそうに思えて――ベディヴィエールは手を伸ばし、きゅっと強く彼の指先を握ったのだった。 ★ ――その晩のことだった。 不意に目が覚めてしまったが、辺りはまだまだ真っ暗であった。大した時間眠った気はしないのに頭は奇妙に冴えている。それに、何だか体中がぴりぴりする。全身の産毛が静電気か何かで逆立ってるみたいな嫌な感覚だ。 不穏な空気を感じたベディヴィエールが身体を起こすよりも一瞬早く、トリスタンとランスロットがほぼ同時に起き上がった。 「ランスロット、」 「ああ、行こう」 「……一体どこにですか?」 置いてけぼりのベディヴィエールがそう問うと、トリスタンは強ばった声で答えた。 「ガウェインが結界を張っています。……我々を誘っているんですよ」 私寝起きは駄目なんですよと、朝だと目覚めてから起きるまでに三十分以上は布団の中でごろごろしている癖に、トリスタンはまるで軍人のようなきびきびした素早い動作で起き上がった。ランスロットがそれに続き、では私もとベディヴィエールが上半身を起こしたところで、トリスタンが「ベディヴィエールは残って下さい」とさらり言い放った。 「……何故です?ここで何かやるべきことがあるのですか?」 「いいえ、特にありませんよ。先日は本当に助かりました、ありがとうございます。しかし共に過ごしていて気付きましたが……貴女はまだまだ駆け出しの魔法少女でしょう?あのような難敵を最初の獲物にすることはありません」 「でも、」 「ベディヴィエール。貴女の願いを聞いてもいいですか?」 ベディヴィエールの言葉を遮るように、トリスタンが問いかけた。暗に聞く耳はないと、反論は許さないと言っているのだろう。 「……会わなければならない人がいるのです。長い間、私はその人を探してきました。……とても、長い間」 「貴女はきっと他の誰かの為に願いを使うのだろうと思っていました。優しいベディヴィエール。でも今は自分のことだけを考えなさい」 トリスタンの考えは変えられない。そう悟ったベディヴィエールは助けを求めるべくランスロットに目を向ける。だが彼は痛ましげに目を伏せて、ベディヴィエールと視線を合わせるのを避けた。 「ランスロットさん……!」 「私はトリスタンの御使いだ。彼に考えがあるのなら、それに従う」 「そういうわけです。ベディヴィエール、お留守番は頼みましたよ」 就寝のために解かれていたベディヴィエールの髪を優しくひと撫でして、トリスタンがすっと顔を上げる。戦うことを。或いはもしかして命を掛けることだろうか。とにかくその顔は何らかの決意を固めた顔だった。 踵を返したその時には、彼――いや、彼女は魔法少女の姿になっていた。ひらひらキラキラふわふわの、真っ赤な彼女の戦闘服。左手には勿論同色の真っ赤な杖をしっかりと携えている。 現在のベディヴィエールと変わらない可憐でいたいけな少女の姿のタントリスは「では、行ってきますね」と微笑み、紫の甲冑の騎士を従えて家を出た。 ★★★ 満ち満ちた月の欠け無き円が美しい。 ガウェインはベディヴィアと初めて邂逅した街角で待っていた。周囲に張り巡らされた結界により、魔力を帯びた者しか中心部のガウェインには辿り着けない。これは人避けであると共に挑発でもある。魔力が感知できる者をこうして誘い出すのだ。大振りの剣の先端をアスファルトの地表に立て、目を閉じて集中する。 ……よく知る二つの魔力を探知した。ランスロットとタントリスのものだ。しかしまだ遠い。まだ、目は開けない。 魔法少女が戦って御使いがそのサポートに回るのが通常の形態なのだが、ランスロットとタントリスは何故か役割が逆転している。戦わせないのなら一体何の為に魔法少女の力を与えたのやらと思わざるを得ないが、彼らとガウェインとはそんなことを問答する仲ではない。今夜、決着をつける。そうすれば二度と会うことは無い。どちらかが魔力を失い、どちらかが願いを叶えるのだ。 程なくして――ざりっと砂塵を踏む音が聞こえた。恐らくはわざと音を立てたのだ。あちらもガウェインの位置は把握していたはず。ガウェインは炎天の空に似た強い蒼の瞳を開く。 気高い濃紫の甲冑を纏いし長身の騎士、ランスロットが立っていた。何かを確認し合うかのように、二人は数瞬の間ただ視線を合わせる。 立ち位置は未だ互いの間合いの外。黙したまま、やがて示し合わせたかのようなタイミングで剣をゆるりと構えた。ぴたりと腕を静止させると、鍔がカチリと小さく音を立てる。 ランスロットの後方ではタントリスが静かに弓を構えていた。弓と言うよりかは竪琴のような、繊細で優美なデザインをしている。見目の整ったタントリスがそんなものを携えているとまるで勝利の女神と相対しているようだ、と思ったところで馬鹿げた考えを振り払う。勝つのはこちらだ。 タントリスのそれは積極的には振るわれないことをガウェインは既に知っている。ランスロットもガウェインも一騎打ちを好み、そうなると最早弓では援護の仕様がないのだ。下手に射ればランスロットに怪我をさせてしまう。タントリスの弓の技術は一流で、だからこそ射ない。自分に出来ることを弁えているのだ。 ……周囲にベディヴィアの気配はない。彼女の性格からしてタントリス達と共に現れるだろうと思っていたが、ガウェインの忠告を受け入れたのか、或いはタントリス達に止められたのか。どちらにせよ構わない。もうすぐガウェインの願いは成就する。阻む者は――――例えそれが愛らしいベディヴィアであったとしても、薙ぎ倒すのみだ。 月光に弦が鈍くきらめくのが見え、ガウェインは反射で剣を体の前に立てた。タントリスが使う弓の矢は真空の刃。形はないが、所詮魔力で練られているそれは魔力で以て引き裂けばあえなく霧散する。 それと同時に、ランスロットが咆哮を上げながら打ち込んできた。 「ガウェイン!今宵こそは決着をつけさせて貰う!」 「望む所だ!」 上段から振り下ろされたランスロットの剣を受け止め、力任せに押し返す。ランスロットは強い。今までに戦ってきた誰よりも強い。しかし、ガウェインの方が強い。幾度も剣を合わせているガウェインにはそれが誰よりもよく分かった。ランスロットの方だってそうだろう。 ただしランスロットの剣は防御に長けている。だから小さな傷はつけられても、結局致命傷は与えられない。それにランスロットが不利に傾けばタントリスが手を出してくる。獲物にとどめを刺そうとするとどうしてもこちらの動きにも一瞬の隙が生まれてしまうものだ。それを見逃す彼女ではない。単体であれば既に破っているだろうに、二人揃うと固い。攻めあぐねている内にいつもタイムオーバーとなってしまうのだ。 でも今夜は違う。剣戟を重ねる内にガウェインのスピードが明確にランスロットを凌ぎ始めた。集中は剣を奮う程に増す。ランスロットの動きが最初よりも遅く見える。己の不利を既にランスロットも気付いているだろうが逃しはしない。引く暇など与えずに、畳み掛ける。 「くっ……!」 「――満月の夜の私の力は普段の三倍。今までの私とは、違うっ!!」 ガウェインの振り抜きの一閃が完全にランスロットの剣を打ち破った。ランスロットは体勢を崩し、たたらを踏む。だが彼の瞳はまだ負けてはいない。ガウェインをしっかりと見据え、次の手に対応しようとしていた。 その濃紫の瞳に――――蒼い炎が映った。 ガウェインの瞳を映したかのような完全燃焼の蒼色は、まるで彼の剣の刀身を薪にしたかの如く燃え上がる。その焔は意思を持っているかのように、ランスロット目掛けて襲い掛かってきた。 「ぐあああああっ!?」 「っ、ランスロット!!!」 タントリスの悲痛な声が響いた。 それは実物の炎ではなく魔力の業火。満月の夜にだけ使えるガウェインの奥の手だった。実際の肉体を燃やしはしないが、魔術回路には確実に深手を負わせる。 ランスロットは呻き声を上げながら無様に地に転がっている。魔術回路を焼くことは神経を焼くことと変わりない。彼は今、死んだ方がマシと思える程の激痛に苛まれているはずである。 氷の張った湖のような冷たい蒼色の瞳が、タントリスを見据える。彼女は震えてはいなかった。自らを護ってきてくれた騎士、いつでも盾となってくれた男の敗北を前にして、だが揺るがず気丈にガウェインを睨み返してきた。 きりっと上がったまなじりは長い睫毛に縁取られ、中心には満月も恥じらう見事な金色の虹彩。今更ながらに、とても美しい少女だと賞賛せざるを得ない。ガウェインでなければ美しさに免じてついつい情けを掛けてしまっていただろう。 「その美貌でランスロットを惑わせてきたわけですか。確かに、人間というよりも天使や女神に近しい美しさだ」 「……それは、どういう意味です?」 「今まで何人もの魔法少女と戦ってきましたが、御使いを表立って戦わせる少女は貴女が初めてです。……処女でなければ魔法少女に変身出来ないと聞きますから、身体を駆使したわけでは無いのでしょうけれど」 「この……っ、下衆が!!」 意外と気が短いのか、それともランスロットの敗北はやはり堪えているのか、タントリスは簡単に挑発に乗ってくれた。短慮に放たれた真空刃は難なく躱せる代物。ガウェインは足裏に力を込めて地を蹴り、加速する。肉薄は一瞬だった。十メートルは離れた位置にいたガウェインがあっという間に目の前にいる事実を、タントリスは大きく瞳を見開いて受け止める。ガウェインが無造作に剣を振り上げる動作をも、彼女はただただ、ただただ呆然と眺めていた。夜間に車の前に飛び出した猫が驚いて逃げられないのと一緒だ。思いがけない現実を受け止めるのに手一杯で、行動にまで思考が及ばない。 ――討ち取った。 ガウェインはそう確信したが――――まるで歴戦の騎士のような、強い力で剣を阻まれた。 タントリスのかんばせとガウェインの剣の間に割って入っているのは、ベディヴィアの青りんご色の杖だった。タントリスの背後から突然顕れた少女は、だが少女だとはとても思えない怪力でガウェインの剣を受け止め続けている。 「……ベディヴィア。見事な気配遮断でした。未熟な魔法少女だと思っていましたが、なかなかどうして完璧な偽装でしたよ」 「性格は最低ですが魔術だけは一流の知り合いがいるのです」 ガウェインが彼女の杖を振り払って引いたのは、決してベディヴィアに手心を加えたからではない。タントリスの目に再び光が宿るのを見て、警戒したからだった。 タントリスはガウェインを見据え弓を構えた体勢のまま、ベディヴィアに問う。 「ベディヴィアちゃん、どうしてここにいるのです!貴女は家で待っていてと言ったでしょう?!」 「返事をした覚えはありません。……私が彼を抑えます。タントリスちゃんは早く、ランスロットさんの手当てを!」 ベディヴィアに指摘されるとタントリスはハッとした顔をして、ランスロットに駆け寄った。彼の手を握り杖を翳しながら浮かべた痛ましげな表情は、ベディヴィアにはやはり恋する少女のそれに見えた。 「……今宵こそ我が願いを成就させる。ベディヴィア。阻むものは例え貴女であっても、打ち倒します!」 「貴方の願いを砕くつもりはありませんが、私はタントリスちゃん達を守ると決めたのです!」 ベディヴィアが杖を構えると、ガウェインはすぐさま打ち込んできた。こんなメルヘン&キュートな得物では何の抑止力も無い。しかしながら見た目よりもアーサーは頑丈に出来ているらしく、ガウェインの猛攻を受けても全く傷がつかない。流石マーリン製の杖なだけはある。 ガウェインは、例え元のベディヴィエールの姿であっても押し負けそうな強敵に思えた。こんな華奢な少女の腕で彼のような屈強な騎士と普通に打ち合えているなんて、魔術的なブーストが掛かっているのだろうけれど何だか奇妙な感覚だ。剣戟の衝撃は確かに手の内にある。しかし、かなり軽い。まるで後ろから誰かがベディヴィアの手に透明な手を添えてくれているかのようだった。大きな手の平で、温かく、優しく――――そう。やっぱり、誰かが、確かにベディヴィアの手を握ってくれている。 「…………アーサー?」 何故か、杖の名を呼んでいた。アーサーは嬉しそうに答える。 「そうだよ、ベディヴィア。……真名解放。アーサー・ペンドラゴン。今の君にはこの名が誰を示すのかきっと分からないだろうね。僕は多少なりとも君を知っていて、出来る限りその力になりたいと願っている者だ」 突如、メルヘンな杖では有り得ない鋭い金属音が響いた。ランスロットとガウェインが打ち合っていた時に幾度となく響いていたこの音は、剣戟のそれだ。 全員が目を凝らした。ベディヴィアの杖が美しく光り耀き、形状を変えるのを見た。 それは一振りの剣だった。清浄なる蒼と煌びやかな金色の柄。刀身は本来白銀だが、膨大なる魔力が通されている今はやはり黄金色に輝いている。 ガウェインは思わず目を瞑り後退る。残光が瞼の裏でチカチカした。圧倒的で、強烈な光だった。 ベディヴィアはといえば――強い光の中で目を見開き、剣を必死で眺め、霞んだ記憶を手繰り寄せようとしていた。 この剣には確かに見覚えがある。手がこの重みを知ってさえいる。胸を引き裂きたくなるほどの絶望的な罪悪感の全てがここにある。 謝りたい。でも誰に謝ればいいのか分からない。いっそこんなもの棄ててしまいたい。でも手を離すことなど絶対に赦されない。そうだ、赦されない。どう足掻いても、赦されることはない。命を以てしても償えない罪がここにある。 「――思い出さなくていい。よく似ているけれどこれは僕の剣なんだ。ベディヴィア。この別世界にいる時だけは、君は君の罪を思い出さなくていい。ああ見えてマーリンは優しいから、自責の念に駆られる君の気持ちが少しの間だけでも安らぐよう、全部分かってて送り出したんだ。本当は部外者である僕が君の記憶を呼んでしまって悪いんだけど……でも、彼を倒すにはこれしかなさそうだから」 今は一振りの剣の姿をしているアーサーが、優しく優しく語り掛ける。 剣にばかり気を取られていたが、ベディヴィアは己の衣服もいつの間にか変化していることに気が付いた。青りんごの妖精じみたメルヘンなそれではなく、清らかな青を一点の曇りのない白で縁取った、ドレスにも似た優雅な衣装を纏っている。これにもやはり見覚えがある。詳しいことは思い出せない。でも自分には会わなければならない人がいることは知っていて、償い切れない、それでも投げ出せない罪があることを知っていて――それが分かっていれば、充分だった。 私は罪人だ。だからこそ今は顔を上げるのだ。 「……アーサー、力を貸して下さい」 「ああ、決着をつけよう」 空気が震えるのをガウェインは感じた。大気が動く。彼女の剣を中心にして、大きな魔力が渦を巻く。彼もまた剣を握る手に力を込め直した。 「……この剣は盈月の現身。あらゆる不浄を清める空明の氷輪」 「束ねるは星の息吹。輝ける命の奔流。……受けて、頂きますっ!!」 ガウェインは力強く、ベディヴィアは半ば泣き叫ぶようにして、その聖剣の真名を解放する。 「■■■・■■■■――――――――!!!!!」 異なる二つの巨大な魔力の塊がぶつかり合う衝撃は暴風となって周囲に吹き荒れた。タントリスは思わずランスロットの身体に覆い被さって庇う。目を閉じてしまうと唸る風の音以外には最早何も聞こえない。ただただ、風が赤髪をびたびたと嬲っていくのを感じる。 ……どれだけの間そうしていたのかは分からない。ただ、この世の終わりのような魔力の衝突も、当たり前だがやがては止んだ。慎重にそっと、タントリスは双眸を開く。 肩で息をしながらも未だに睨み合うガウェインとベディヴィアの姿がそこにはあった。あの魔力の相克を二人とも立ったまま耐え切ったらしい。どちらも姿はズタボロだ。魔力で負った傷もあるだろうし、かまいたちのような風の中で直接負った傷もあるだろう。 「くっ……!」 ガウェインが地に片膝をつく。剣を支えにしてなんとか顔だけはベディヴィアに向けていたが、やがて魔力が尽きたらしく、剣は金色の泡沫となって中空に消える。甲冑も同様にして消え去ってしまった。後には黒いインナーを身に付けた、傷付いたただの男が残される。 「貴方の、負けです。ガウェインさん」 絞り出すようにベディヴィアが諭す。だがその言葉を聞くと、ガウェインの瞳にはむしろ炎が灯った。血を吐くような勢いで、或いは牙を剥き出しにした猛犬のように、負けを認められず吼え立てる。 「まだ、……っ、まだ、私は……戦える!ここで諦めるわけにはいかない、あと、本当にあともう少しで……っ!」 「いいや、ガウェイン。お前の敗北だ」 決して大きな声量で発された声ではなかった。ただ魔力のぶつかり合いの余波で周囲がしんと静まり返っていたことや彼女の元々よく通る声質のお陰で、その声はまるで天からの声であるかのように凛と広く響いた。 「……母上、何故ここに」 「お前が今まで何をしてきたかは大体知っている。母親であり地主だからな。……数年後に私の跡を継げば分かるだろうが、地主を甘く見てはならないぞ。結界のせいで踏み込むことが出来ず、確信は持てなかったがな」 声の主は、アルトリアであった。 コツコツと靴の踵を鳴らしながら、彼女はガウェインのすぐ目の前まで歩いていく。そうして彼の前で屈むと、その金髪をくしゃりと撫でた。微かに浮かべた表情は労りだ。 「あの心優しい子が……ガレスが、このようなことを望むと思うか?」 「それは……」 ガウェインが顔を歪めて口篭る。 「……ガレスとは、どなたですか?」 聞き慣れない名を、ベディヴィアはこっそりタントリスに問い掛けた。 「レディ・アルトリアの娘さんです。ガウェイン殿の妹御に当たるのですが数年前に事故で身罷られています。……ガウェイン殿の忘れ物を届けに行った帰り道、アクセルとブレーキを踏み間違えた車に撥ねられたのだとか」 タントリスはランスロットの上半身を抱きかかえて杖を翳し続けているが、彼の意識はまだ戻りそうに無い。普段はやや無表情といえるくらいに飄々としている彼女が、今は心配そうな表情を隠そうともしない。ベディヴィアと話している間もランスロットから視線を外しはしなかった。 黙っていたガウェインが、苦しげに語り始めた。 「母上。ガレスは優しく、明るく、もっと長く生きるべき子でした。……ガレスは望まなくとも、私は望む。あの子を生き返らせる手段がそこにあるのです。もう一度魔力を溜め、いつか必ず……!」 「……魔法とは厄介な代物だな。本来なら時と共に折り合いをつけていくべきことが、希望をちらつかせるといつまで経っても諦められなくなる」 「母上……!」 「死者を甦らせてはならないとは私は思わない。あの子が帰ってきてくれたら、確かに日々は活気づくだろう」 「ならば、何故!」 「人は弱い。……一度反魂を受け入れてしまえば、大切な誰かが亡くなる度に際限なくそれを望むようになってしまいそうで、私は恐ろしい」 分かるか。ガウェイン。 アルトリアの問いかけにガウェインは返事はしなかった。数瞬後に微かに頷いたようには見えたけれど、微かすぎて定かではない。がっくりと肩を落としたまま、彼は最後にぽつりと口を開いた。 「……母上。ガレスはあの服を気に入っていましたよ。「子供っぽい私にはまだ似合わなくて」と恥ずかしがって鏡の前で当ててみるだけでしたが……いつかあの服が似合うレディになる日を、とても楽しみにしていました」 「……そうか。…………充分だ」 アルトリアが小さく微笑み、ガウェインは――重い重い肩の荷を今やっと降ろしたかのように、大きく大きく息をついた。 「御令嬢方、我が愚息がご迷惑をお掛けした。どうか許してやって欲しい」 「ええ、勿論。お互い様ですからお気になさらず」 深々と頭を下げるアルトリアとガウェインに、ベディヴィアはにこりと微笑みかける。 アルトリアの肩に支えられながらガウェインが帰っていく。その二つの背が闇に紛れて見えなくなるまで、ベディヴィアは見送り続けたのだった。 * ――ふと、気が付く。手にしている杖(アーサーの形状もベディヴィアの衣装も、いつの間にか元通りになっていた)のモチーフがきらきらと黄金色に輝いている。ガウェインの剣を砕いた時に散った中空の煌めきが収束され、内側から眩く発光しているようだった。 「マーリン、僕だよ。聞こえるかい?」 アーサーが誠実な声色で呼び掛ける。何だか、今までよりも声がハッキリしていた。まるですぐそこに凛々しい青年が立っていて、ちゃんと声帯を使って声を出しているような存在感がある。 『え、もう魔力溜まったの?思ったより大分早いなぁ。流石だね魔法少女☆ベディヴィアちゃん。あ。もうサー・ベディヴィエールと呼んだ方がいいかな?』 アーサーの呼び掛けにマーリンが応える。きょろきょろ辺りを見回してみたけれど彼の姿はどこにもない。声はどこからともなく聞こえてきて、全く掴みどころがない。 『帰り道作るからちょっと待ってて。えーと……杖どこに置いたっけ?玄関かな?』 よっこいしょ、という掛け声の後、ドンガラがっしゃーん!!!とやかましい騒音が聞こえてきた。 一体何をしているんだあの人は。 呆れているベディヴィアの肩をとんとんと躊躇いがちに叩く者がいた。沈痛な表情のタントリスである。 「――――ベディヴィアちゃん、ごめんなさい」 そう一言謝ると、彼女はするりと腕をベディヴィアの首に絡ませて、唐突に口付けてきた。咄嗟のことで口は閉じられなかった。簡単に唇を割られ、タントリスの舌がベディヴィアの舌に熱くねっとりと絡みつく。搾取するみたいな口付けだった。身体からどんどん力が抜けていく。 ……おかしい。確かに彼女はとてもキスが上手いけれど。それにしてもこの脱力感は普通ではない。そう気付いた時には手遅れで、突き飛ばしたくても力がうまく入らない。タントリスはベディヴィアの口腔を好きなだけ嬲り、やがて糸を引かせながら唇を離した。間髪入れずに彼女はランスロットへ駆け寄り、屈み、口付ける。 「た、た、た、タントリスちゃんっっ?!?!」 自分がタントリスとキスをするより、彼女がランスロットとキスしているところを見る方が、ずっとずっと動揺は大きかった。 ベディヴィアはくるりと後ろを向く。でもそれだけでは、ちゅ、ちゅ、と生々しい水音が全然聞こえてしまうと気付き、両手でばちーん!と顔を挟むようにして耳を塞いだ。力を込めすぎて若干痛かったけれど、火照った頭を冷やすのにはちょうどいい。 『あいたたた……酷い目に遭った。それじゃあ早速帰り道を……って、あれ?ベディヴィエール、キミ、魔力を何かに使った?』 「……え?」 耳を塞いでいたけれど、マーリンの声は脳内に直接響いた。ベディヴィアはアーサーを確認する。……煌めきの失せた、青りんご色のただただメルヘンな杖がそこにはあった。すっかり、いつも通りである。アーサーがやれやれと言わんばかりに息をつく。 『彼女……タントリスに口移しで魔力を奪われたんだよ。そして魔術回路を焼き切られた御使いへの処置に使われた』 マーリンと声質が被ってややこしいが、今回のそれはアーサーの誠実な声色だ。先程までの実在する青年のような存在感は薄まり、今まで通りのやや遠い調子の声だったけれど。 ランスロットが短く呻き声を上げた。タントリスがそろりと唇を離す。彼が濃紫の瞳を開けて彼女の姿を映すと、タントリスは泣きそうな顔で無理やりに笑った。その表情はやはりベディヴィアには、恋する少女のそれに見えるのだ。 「…………ト、リ……」 「まだ喋らないで。ガウェインはベディヴィアちゃんが倒して下さいましたから、安心して」 簡潔な説明にランスロットは首を引いて小さく頷く。どうやら意識もハッキリしているらしい。改めてほっとした様子のタントリスは一度顔を上げ、それからとてもすまなそうに、ベディヴィアに頭を下げた。 「ベディヴィアちゃん、本当にごめんなさい。出かける前はあんなに大きなことを言ったのに……ランスロットを失うかも知れないと思ったら……つい、」 「……顔を上げて下さいタントリスちゃん。ランスロットさんが助かって、私もとても嬉しいのです」 「ベディヴィアちゃん……」 「ただ、もう暫くこの世界にいなくてはならなくなってしまいました。……私を、お家に置いて下さいますか?」 「ええ、ええ、勿論です!」 可憐なる少女達が笑い合って手を握り合う。幻想の花びらが散って見えそうな、何とも美しい光景だ。 ……うん。よく分かんないけど、まだ仕事せずに済みそうだな。 魔術師は得心した様子で一度頷くと、泥棒も裸足で逃げ出すだろう散らかり過ぎた部屋の床を踏み分けて。光差す花園へ、気ままな散歩に出たのだった。 |