very close 粒子。量子。原子。――霊子。 精神がほろほろと解けていくのを感じる。アヴァロンに横たえられているマーリンの実際の肉体には何の変化も無いが、死とはこういうものだろうかと意識の片隅でぼんやり考えた。最果てで崩れ去った彼もこの感覚を味わっただろうか。そんな暇は無かっただろうか。或いは長い旅の間にでも、何度か味わったのかも知れない。聖剣は致命傷さえ癒してしまうことを思えば、きっと何度も。何度も。……何度も。 ――――ふっつりと。 緩やかに思考していたマーリンの意識が、完全に途切れた。 そうして次に目を開けた時。 マーリンが一番初めに見たのは、驚愕の表情で立ち尽くす藤丸立香の姿であった。睫毛一本動かす気配がない少年を前にして、かたやマーリンはぱちぱちと数回瞬きをした。首を左右に傾けた。手を握ったり開いたりした。最後に軽く足踏みする。どうやら擬似召喚は成功したらしい。 「こんにちは、カルデアのマスター君。私はマーリン。人呼んで花の魔術師。気さくにマーリンさんと呼んでくれ。堅苦しいのは苦手なんだ」 改めて名乗ってみたが、やはり少年に動く気配がない。歩み寄り、目の前でひらひらと手を振りかざしてみても全くの無反応だった。 マーリンは辺りを見回した。藤丸立香に同じく、スタッフは皆あんぐりと口を開けたまま硬直している。 「いや。は?え……マーリン……?!」 ほぼ意味をなさない内容はさておき一番最初に発声してみせたロマニ・アーキマンを瞳に映すと、マーリンは人懐こく(だがどことなく胡散臭く)にっこりと笑ってみせた。 「ロマニ君もこんにちは。カルデアの説明は私には必要ないよ。それよりマスター君を医務室へ運んでおくれ。立ったまま気絶してしまったようなんだ」 立香をロマニに預けると、マーリンは鼻歌を歌いながらカルデアを勝手に散策し始めた。千里眼でちょいちょい覗いてはいたものの、実際に歩いてみると(仮初の身体ではあるが区別するのが面倒なのでそういうことにしておいてほしい)やはり印象は大分違う。人々の声。息遣い。城勤めをしていた遥か昔を思い出す活気。これを味わえただけでも擬似召喚にチャレンジしてみた甲斐はあったなとやや浮かれたところで、 「……うげ」 ゴミ虫でも見たかのような、心底不快そうな声が聞こえてきた。棘があってなお愛らしい蛇いちごのようなその響きには聞き覚えがある。マーリンが視線を走らせると(肉体を持って活動するとやはり大部分の情報をつい視覚に依存してしまうものだな、と再認識した)つややかな深桃色の長髪を黒猫のようなフードから覗かせた小柄な少女と、バッチリ目が合った。 「これはこれは、アナじゃないか!……ん?ここではメドゥーサと呼んでいいんだっけ?とにかく元気そうで何よりだよ!」 マーリンは抱擁も辞さない勢いで両手を広げて迫ったが、メドゥーサはむしろ二歩ばかり後退る。 「マーリンも相変わらずのようですね。呼称はどちらでも。というかすぐに座に帰って下さい」 「私は座から来たわけではないよ?」 「とにかく近づかないで下さい。胡散臭いのが移ります」 子猫の威嚇のような言動と行動は逆に微笑ましいのだけれど、外套の下から物騒な鎖鎌(何気に不死殺しである)をチラつかせてくるのだから敵わない。マーリンは両手を上げた。降参の印だ。 「キミのつれなさも相変わらずだなぁ。こうして一番最初に出会えたのも何かの縁だと思うのに」 「断ち切れるものなら今すぐズタズタに断ち切りたい縁ですね。……今、来たところなんですか?」 「そうだとも。楽園の端から希望の地へ、花の祝福を届けにね」 「その祝福、クーリング・オフ利きません?」 「聖杯からの現代知識が憎い!」 それでもメドゥーサはマーリンを見捨てたりはしなかった。彼女の頑なな態度は先天性の真面目さと後天性の臆病さの裏返しなのだとマーリンは既に知っている。傷つけてしまうことに怯えて距離を取り、ならばと潔く孤独であることを選べてしまう。マーリンを邪険にする素振りの半分は爪弾き者同士安心して甘えているだけだとも知っている。もう半分は、本心だ。 「食堂まででよければ案内します。顔見知りとか親切な人とか……とにかく私よりも適切な方がいるでしょう。その人にバトンタッチしたら私は即部屋に戻ります。いいですね?」 「勿論だとも。いや、実に助かるよ。ありがとう、アナ」 「……お礼なんていいです」 メドゥーサがくるりと背を向けた。きっちり結われたおさげと少女らしい赤いリボンが可愛らしい。歩く度に左右にぴょこぴょこと揺れるそれに従い、マーリンは歩幅を狭くしてついていく。食堂の位置くらいマーリンは召喚前からちゃあんと把握しているけれど、彼女と一緒に行った方が愉しそうだ。 「アナ。カルデアはどうだい?上手くやれてる?」 「私に心配は不要です。……ここには成長した私も、姉様達もいらっしゃいますし」 「そうかい。なら、寂しくはないね」 「……とにかく心配は不要です。……ありがとうございます」 ありがとうだけを素直に伝えられないメドゥーサはやはり可愛らしくて、後ろにいるのをいいことに口元を緩める。 元々メドゥーサは寡黙なこと。そもそも大して距離がなかったことから、あとは碌に話せないまま食堂に着いてしまった。メドゥーサは足を止め、顎で軽く扉を指し示す。 「ここが食堂です。食事は基本的にエミヤというサーヴァントが取り仕切っています。……彼の料理はとても美味しいので、マーリンもたまには食べてみるといいと思います」 これで立ち去っていいものかメドゥーサは一瞬悩んだようだった。生真面目に脳内会議をした結果、やはり最後まで面倒を見るべきだと判断したらしく「では、ついて来て下さい」と言って入室する彼女にマーリンも続く。 「……うげ」 「なんでみんな同じ反応をするかな。流石の私も傷付くぞぅ」 食堂には折り合い良く(悪く?)ギルガメッシュとエルキドゥがいた。むしろ彼ら二人しかいない。そう遅くない時間であることを考えるとやや不自然だが、エルキドゥがギルガメッシュの膝の上に乗っていることを鑑みれば自然だと言えた。人並みの感性を持っていれば、そりゃあそそくさと退席するだろう。 メドゥーサは特に気にせずぺこりと頭を下げる。フードを被ったままではあったが、彼女の魔眼を知ってのことだろう。ギルガメッシュは無礼を責めなかった。 「ギルガメッシュ王並びにエルキドゥ様におかれましてはご機嫌麗しゅう存じ上げます。ついにこのカルデアにグランドろくでなし……いえ、魔術師マーリンが召喚されてしまったそうです。恐らくは何かの間違いで御座いましょうが、私の手には余りますのでどうか王の手にて存分にご処分を」 「嫌だなアナ、その言い方だと私がこれから処刑でもされるみたいじゃないか」 「……………………。」 「なんで無言なんだい?!」 黙って二人の様子を観察していたエルキドゥが、少年とも少女ともつかない声でくすくすと笑った。猫のような滑らかな所作でギルガメッシュの膝から降り立ち、素足のままで床を踏む。 「初めましてグランドキャスター。僕の名はエルキドゥ。君の話はギルから何度か聞いているよ。グランドの名に恥じない高等魔術を使うけど、とにかく胡散臭くて敵わないって。的確な説明のお陰で一目で分かった。流石はギルだね」 「初めましてエルキドゥ。大いなる大地の子、神の兵器よ。……それ、ギルガメッシュ王のことは褒めているけれど私のことは貶しているよね?」 「ただの事実だから貶める意図はないよ」 「ははは。成程、一番厄介なパターンだね!」 * 「…………?」 廊下を歩いていたベディヴィエールが歩みを止めたのは、何か、甘い香りがしたからだった。確かに食堂は程近い。けれどもこれは砂糖菓子や香辛料やハーブのそれではない。……活きた花の香りだろうか。 カルデアには女性も多く、花や香水は決して珍しい品ではない。廊下の残り香なんて茶飯事だ。なのに何故、つい歩みを止めてしまったのか。それは自分でもよく分からなかった。軽く首を傾げて、また歩き始める。 寄り道することなく戻ったベディヴィエールの自室の前では――トリスタンが、ちょこんと三角座りをしていた。長身の彼に対して使っていい擬音だとはとても思えないが、大の男が足を縮めて三角座りをしている様子はどうにも滑稽で「ちょこん」以外に適切なものが浮かばない。通行の邪魔にならないよう苦肉の策として三角座りをしているのは分かるが、ならば立っていろとも思う。 「……何をしているのです?」 ベディヴィエールが冷ややかに問いかけると、トリスタンはまず「御機嫌よう」と呑気に挨拶をした。機嫌も何もあったものではないが、トリスタンがふと両眼を開いてじいっと見上げてきたので言葉に詰まる。トリスタンの金色の瞳には、猛禽類のような迫力がある。 「どうやら卿はまだご存知ないようで。……問題人物が召喚されたと風の噂で聞き及び、私はこうして警戒に当たっています」 そう言うと、トリスタンはまたそっと目を閉じた。 「はぁ……。よく分かりませんけど、部屋、寄って行きます?」 「ええ、是非。ついでに今夜は一緒のベッドで寝ていってもよろしいでしょうか」 「寝言は寝て言って下さい」 「私はとても悲しい……」 トリスタンは甘やかすとつけ上がる。駄目な時はぴしゃりと撥ね付けるのが一番だ。しかしそれはそれとして、座っている彼が立ち上がるための手くらいは貸してやった。 招いたからにはとベディヴィエールがお茶の準備をしている間、トリスタンは観葉植物の影を覗き込み、這い蹲ってベッドの下を覗き込み、それでも不足だとばかりに周囲をきょろきょろと見回していた。彼の奇行はいつものこととはいえ、今日はまた一段とひどい。 「一体誰が召喚されたというのです。貴方程の騎士がそのように躍起になって」 「出来れば口にしたくありません。まだ私は本人を見た訳では無いので……言葉にすることによって現実になってしまいそうで怖い」 「サー・パロミデスですか?」 「彼とは最終的に和解しましたよ、一応」 どうやら本当に話す気がないらしく、トリスタンはそこで口を噤んでしまった。情報を引き出すのを諦め、ベディヴィエールはミルクを入れておいたカップに紅茶を注ぐ。ニューフェイスの召喚となれば、どの道明日には自ずと皆の話題に上がるだろう。 「トリスタン、ガサ入れはその辺にして下さい。紅茶が入りましたよ」 声を掛けると、美しい顔を惜しげもなく窓にべたりと張り付かせていたトリスタンが振り返った。頬と額が赤くなってしまっているが、わざわざ指摘する程のことでもない。 「……私はミルク入れるのあまり好きではないんですけどね。味がぼやけて感じるというか……」 そしてカップを見るなりこれだ。いいご身分である。 「本当はノンカフェインのハーブティにしたいところなんですよ?でも、それだと貴方は口をつけませんし」 「ハーブってその辺の適当な草の味しません?」 「とんでもないこと言いますね。とにかく、そういうわけですのでミルク入りで我慢なさい」 紅茶を一口啜るとトリスタンの眉間に深い皺が寄った。好き嫌いの激しい子供でも見ているようだ。 「……ベディヴィエール」 「はいはい、口に合わなかったなら残して構いませんよ」 「いえ、飲めないほどではありません」 証明するかのようにもう一口紅茶を啜ると、トリスタンは言葉を続けた。 「貴方は、厳密には私の知るベディヴィエールではない。けれど私は『ベディヴィエール』と同じくらい貴方のことも大切に思っています。貴方もまた、私の大切な親友です」 「……何ですか。突然改まって」 頭の回転の早さからか、トリスタンはよくこんな風に突飛な発言をする。彼の中では理屈が通っているらしいが他者にそれを解することはまず出来ない。重苦しい会議の場で突然ド天然発言をかますのと同じように軽口から突如ド真面目な話を始めることも多く、今回は後者だ。 「貴方を傷つけるもの、傷つけたもの。私はそれらを易々と許すことは出来ないという話です。……自分自身も含めて」 「今夜はまた随分と感傷的ですね」 ルキウス帝でも召喚されたのだろうか。ベディヴィエールとしては彼に対して今はこれといった感情はないのだが。 それきりトリスタンは黙ってしまったが、別に今更沈黙が重荷になる間柄ではない。恋人同士のように寄り添ってゆっくり紅茶を飲み干し終えると、トリスタンがベッドに潜り込もうとしたのですかさず外に摘み出した。 * 早起きして(いるつもりはないのだが、トリスタン曰く「卿は年寄りじみた早起きですよ」とのことである)トリスタンの部屋を訪ねたら、平手打ち、ベッドから突き落とすなどして文字通りに叩き起し、寝ぼけ眼の親友が人の邪魔にならないように注意しながら(寝ぼけていてもトリスタンが人や壁にぶつかることはないが、いかんせん身体が大きいので邪魔になることはある)二人並んで食堂へ向かう。それはカルデアに召喚されてからのベディヴィエールのモーニング・ルーティーンであった。 しかし。 この日はトリスタンの方が先に起床して、あろう事かベディヴィエールの部屋にモーニングコールに訪れた。身支度も完璧だ。服には皺ひとつ、髪には縺れひとつない。フェイルノートをしっかりと抱えて、戦に出掛けるかのようなぴりぴりした気配を纏っている。 未だ寝癖頭のベディヴィエールはある種の覚悟を決めた。これは相当な案件だ。誰が召喚されたか知らないからあまり覚悟のしようがないのだが、トリスタンをこんなにも早起きさせてしまう程の事態であるなら、それは逆説的に由々しき案件であると言える。 トリスタンを待たせて着替えて髪を結い、ベディヴィエールが心持ち緊張しながらやってきた食堂は――果たして、普段より大分賑やいでいるようだった。召喚された人物の話で持ち切りなのか、当の本人が盛り上げているのか。確認するべくベディヴィエールはそっと中を覗こうとしたが、トリスタンが割り込んで視界を遮った。 「おやおやおやおや!サー・トリスタンじゃあないか!これまた随分と久しい顔だね。……もしかしてベディヴィエールも一緒かい?キミたちは昔から随分と仲が良かったもの」 トリスタンの後頭部で姿は見えないが、それはよく聞き馴染んだ声だった。弾むような足取りで近づいてくる音と杖をつく音、それと一緒にふわりと甘く漂ってきたのは、昨日感じたあの香りだ。 「――ベディヴィエール」 すぐ近くまでやってきたマーリンに、名を呼ばれる。何故かちくりと胸が痛んだのは、彼の声色があまりにも懐かしく、また、妙に優しかったからだろうか。 「本当にキミなんだね。と、そう言い切ってしまうのはまだ早いのかな。まあ、とにかく今はややこしいことは抜きにしよう。また逢えて嬉しいよ、ベディ。元気でやっているかい?」 目を微かに眇め、少し首を傾げてマーリンが微笑む。彼の深雪色の髪と紫色の瞳は光の入り方が少し変わるその度に、輝き方をオパールのように複雑に変えた。何一つ以前と変わらないマーリンの姿がそこにあって、ベディヴィエールも自然と微笑む。 「はい。マーリン殿も息災のようで何よりです」 ――その一瞬。マーリンは狐に摘まれたような不可思議な顔をした。けれどもすぐに、穏やかな微笑へと戻る。 「私は何たって不老不死の身の上だからね。……右腕の調子はどうだい?不備はない?」 どことなく、試すような響きのある問いかけだった。 「右腕ですか?」とベディヴィエールが問い直すよりも一瞬早く、ぽろん、と。トリスタンがひとつ弦を鳴らして、ベディヴィエールの意識をマーリンから引き剥がした。 「御無礼ながら魔術師殿。ベディヴィエール卿にあまり近付かないで頂きたい」 敵意を隠さないトリスタンの物言いに、マーリンは口元の笑みはそのまま目だけをすっと細めた。 「トリスタン。キミも騎士であるならか弱い老人はもっと労るべきじゃないかな?」 「自分が彼に何をしたか、耄碌なさった頭には記憶が残っていないのでしょうか」 マーリンが口端を歪ませる。笑っているようにも見えたが、そうとは言い切れない微妙な表情だった。 「ふむ。……キミにそんなことを言う資格はあるのかな。手段はともかく、私は一応ベディの旅路を助けたつもりだ。対してキミはあの地で一体何をした。反転していたらノーカウントかい?例えそれが、自分の弱さによって自ら望んだ祝福であったとしても」 「――――――!」 空気が弾けたような、電流が走ったような鋭い音が響き渡り、食堂にいた全員が歓談を止めた。 対峙する二人の他には、ベディヴィエールを含めて何が起こったのか誰も理解してはいなかった。ただしトリスタンの弓の弦が震えていること、マーリンの髪がはらりと数本床に落ちたことから簡単に予想はつく。 トリスタンが、マーリンに向けて矢を放ったのだ。 「失礼。指が滑りました」 「無駄なしの弓の名で馳せたキミがかい?あはは、カルデアのぬるま湯に浸かってすっかり腕が落ちてしまったようだね」 「ならば長年引きこもっていた貴方の腕は、骨の髄まで腐り果てて内部で悪臭を放っていることでしょう。ええ、折角の不死者。髪ではなく遠慮なく首を落とすべきでした。次は外しません」 「ちょ、ちょっと!トリスタン?!」 思わずトリスタンの肩に手を掛けたが、目線さえ寄こさないまま邪険に払われた。 「口を挟まないで下さいベディヴィエール。これは私とこの腐れ外道の問題です」 「だよなァ!そうこなくっちゃ!」「いいぞやれやれー!」「管制室の連中がやってくるまで三分だ!三分でカタをつけろ!」戸惑っているのはベディヴィエールのみで、ノリのいいカルデアの英霊たちは無責任な野次を飛ばしながら手際よく食堂の机や椅子をどけてスペースを作った。水を差されては敵わないと思ったのか、ベディヴィエールは半ば担ぎ上げられるようにして「はいはい銀の騎士サマは特等席へどうぞ」と相対する二人の真正面へと座らされる。周囲を見渡せば各々料理だけはしっかりと腕に抱えて確保していたので少しほっとした。考えてみればこの程度の騒動、みんな慣れっこだ。 「よーし戦いだ!苦手だけど全力でいこうか!」 マーリンはそう言って腕捲りをしたが、彼の服は袖が広くなっている為にすぐにさらりと落ちてあまり意味は無い。立てた杖の先を左右に振って楽しげにしている彼とは対照的に、トリスタンは真昼の幽鬼のように静かに佇んでいる。 「――それでは、踊りましょう」 しかし先に仕掛けたのはトリスタンの方だった。優雅に弦に指を添えて、女性の髪でも扱うかのように優しく撫でる。星屑でも落としたかのような美しい音が響くと共に真空の刃が鋭く空間を断ち切る光景は、何度見ても違和感が消えない。 マーリンはひょいと飛び退いて初撃を余裕で躱した。二撃、三撃が立て続けに放たれ、後はもう数えるのも困難になる。トリスタンの指運びはまるで澱みがなく、のらりくらりとした普段の様子が嘘のようだ。音色は部屋中にわんわんと反響し、篠突く雨のように透き通る。あまりにも美しすぎていっそ悲しくなってしまう音色があちこちで弾け、カマチタチのように、或いは甲高い女性の悲鳴のように空間を引き裂く。 絶え間なく繰り出される攻撃に流石のマーリンも防戦一本のようだった。手の内を知っていても、対峙すれば変幻自在のトリスタンの業は一筋縄ではいかない。元より呪文は噛むとか言っている男だ。跳ね回りながら詠唱すれば弦に捕まるよりも先に舌を噛んで自滅するだろう。 為す術なく、マーリンは部屋の隅に追いやられた。壁を背にして、もう逃げる場所がない。妖精郷に引きこもっていた所為で本当に腕や勘が鈍ってしまっているのだろうか。次の一断ちで決着がつくだろうと大半のギャラリーが勝負を見切りかけたところで――――不意にトリスタンが目を見開き、弓を後ろへ勢いよく振り抜いた。立て続けに数メートル飛び退き、今まで自分が立っていた場所を強く睨みつける。 「……キミに幻術を見抜く才能があるとは知らなかったな。魔術の素養はないだろう?サーヴァントのスキルってやつかい?」 閉め切られているはずの室内にささやかなつむじ風が巻き起こり、先程までトリスタンが立っていた場所にマーリンの姿が顕現した。同時に、壁際のマーリンは無数の花びらとなって掻き消える。 「魔術もスキルも必要ありません。単に不審な衣擦れの音がしただけです」 「あの騒音の中でかい?獣みたいな聴覚だ」 「姑息な手を使ってくるだろうと思っていたので、見えるものが全てではないとは初めから心に留めていましたよ。見えないものを操るのは、お互い様ですし」 トリスタンはおもむろに片手を持ち上げて空中を滑らせた。すると、「おや」という大して焦った様子もない声と共にマーリンの身体がくるりとひっくり返り宙に浮いた。逆さ吊りである。今までうまく隠されていた弦が、光にきらりと反射する。 「私の宝具は弓ではなく、弦の方でして」 「この手ってあの頃も使ってた?」 「森で獣を狩る時などには」 「成程。私は遠駆けには同行しなかったものね」 逆さになったまま悠然と腕を組んでいるマーリンの言葉を肯定するように、トリスタンがにこりと美しく微笑む。 「先程の発言を取り消して頂けるなら、すぐに降ろして差し上げますが?」 「結構。縄抜けなんて私にとってはりんごを捥ぐより簡単だ」 「私の弦をそこらの縄と一緒にされるとは癪ですが……抜け出さない理由を、お聞きしても?」 トリスタンがやや警戒を強めた。 「必要のない手間はかけない主義でね」 マーリンが目を眇めて嗤うと、トリスタンの足元に赤紫色の魔法円が突如禍々しく浮き上がった。 「平たく言えば魔力を分解する陣だ。既に発動させてあるから、後は私がその気になりさえすればエーテルの塊であるキミは瞬きをする間もなく存在を消去される」 「私とてその気を起こせば貴殿を秒で八つ裂きに出来るわけですが……。所長代理の方もいらっしゃいましたし、ここは痛み分けですね」 トリスタンの言葉の後半に重ねる形で、誰かがどたばたと慌ただしく廊下を走ってくる音がした。 「マーーーーーーーーーーリンっっ!!!!お前ってやつは全く!!召喚されて早々揉め事を起こすなっっ!!!!」 「三日くらい置いた方がよかった?」 「そういう問題じゃないって知ってる癖に訊くなっ!!」 青筋を立てて怒鳴り込んできたロマニ・アーキマンに対し、マーリンは逆さ吊りになったまま悠々と返事をする。 「所長代理殿。この方を挑発したのは私です。……覚悟は初めから決めてありますので、叱責も処罰もどうか私に」 長い睫毛を悲しげに震わせて、トリスタンがしおらしく片膝をついた。ロマニはそんなトリスタンとマーリンを交互に何度か見比べると、力強く断言した。 「やっぱりマーリンが悪いと思う」 「えっ?!なんでだいロマニ君?!?!」 「そもそもこの世の大体の事はお前が原因だろ。空が青いのはマーリンの所為、雪が白いのもマーリンの所為。というわけで罰としてマーリンは今日の残りを独房に入って反省すること。……抜け出すなよ?」 「自室に戻るのが面倒だな。独房を私のマイルームにしてもいいかい?」 「アホかーーーーっ!!!!」 ロマニの怒声を聞くと、マーリンは満足気にアハハと笑ってひとつ指を鳴らした。部屋中に張り巡らされたトリスタンの弦が魔術によって無数の花びらと化し、はらはらと美しく舞い落ちる。桃源郷を思わせる光景に女性陣からは一斉にため息が漏れた。 拘束から抜け出したマーリンは、重力を無視した動きでふわりと地に降り立つ。そしてベディヴィエールに向けて、一際柔らかく微笑んで見せた。 * 「……すみませんでした」 「謝るくらいならあんな騒ぎ初めから起こさないで下さい」 大きな背中をしょんぼりと丸め、トリスタンはベディヴィエールの後ろをとぼとぼと歩いている。 「何故ロマニ殿は私を裁いて下さらないのか……」 「裁かずともよく反省しているのが分かるからでしょう。貴方は自分で自分を裁量出来る。他者が裁くよりも自罰させた方が効果的なくらいには」 「私は悲しい……」 「……トリスタン」 ベディヴィエールが不意に歩みを止めた。踵を返し、トリスタンと向かい合う。 「私はか弱い乙女ではありません。自分のことは自分で片をつけられます。……貴方が、あの人をあそこまで怒る必要はありましたか?」 「そんなことは私が一番よく存じていますとも。その上で私は、あの浅慮な男と貴方を引き合わせたくはなかった」 「……トリスタン」 「何ですか、ベディヴィエール」 「……ふふ。ありがとうございます」 負けを認めるみたいに、ベディヴィエールが小さく笑む。だから、トリスタンも笑みを返す。 『そういうところがいけない。私のよく知る貴方であれば、ここで食い下がって最終的に取っ組み合いになっている。貴方もそうであれば、私も安心して放っておけるのに』とは口に出さない。 * 「ではベディヴィエール。私は貴方の部屋の前で待っていますので加勢が必要な時は遠慮なく呼んで下さいね」 「自分の部屋に戻りなさい」 「親友が頼ってくれない……私は悲しい……」 そんな会話を交わして、トリスタンと別れた。ベディヴィエールが何を考えて、どう行動しようとしていて、人からはどう見守って欲しいか。何も言わなくてもトリスタンには筒抜けであるらしい。そういう機微に敏いからこそ、時には人の痛いところを正確に見抜いて抉ることも出来るのだろう。 独房は居住地区から離れた場所にあり、自分の歩く音以外は空調の音さえ聞こえなかった。大きな文字で『反省中』と段ボールの切れ端にマジックで書かれた札が掛かった扉を三回ノックすると「どうぞ、鍵なら開いているよ」とまるで自室に客人を招くような呑気な声が聞こえてきた。彼は本当にここをマイルームにしてしまうつもりなのだろうかと一瞬訝しむ。 大抵の扉が自動化されているカルデアには珍しく、そこの扉は手動式だった。入口がやや低く設計されているので入室には背を丸める必要があったが、中に入ってしまえば普通の部屋と天井の高さは変わらない。小窓が一つきりのそこは狭く、薄暗く、空調は利いている筈だが何となくひんやりしていた。 「抜け出さなかったのですね」 「キミが来てくれるかもと思っていたから」 「千里眼は使っていないのですか?」 「その方が面白そうじゃないか。ここに来てからはまだ使っていないよ」 ベッドに横たわっていたマーリンがのそりと体を起こす。マットが剥き出しのそれは見るからに固そうで寝心地が良さそうには見えないが、当人はあまり気にしていない様子である。悠然と笑み、ベッド傍に置いてある椅子を指さした。座れと言っているのだ。 「で、ベディヴィエール。キミは一体どこまで覚えているんだい?」 回りくどく煙に巻くような発言を好む、マーリンらしくない単刀直入さだった。 「気付かれていたのですか?……私の記憶が無いことに」 「推測と、あとは反応で何となくだけど」 「……城勤めをしていた頃のことはよく覚えています。聖剣を返せなかったことや、長く放浪していたことも。しかし特異点キャメロットに関わることは何も覚えていません。カルデアに残っていた分の記録は確認したのですが……私の身に起こったことだとは、とても思えません」 「確率としてはそちらの方が高いと思っていた。特異点キャメロットは確かに「あった」が、今となっては「なかった」とも言える。であれば記憶の欠落くらいあって然るべきだろう」 「……記憶はないけれど、『あれ』を経験したのは私自身である、ということですか?」 「そう考えた方が自然だけど、断言は勿論出来ない。私にだって『視えない』ことくらいある」 ベディヴィエールは僅かな沈黙の後――意を決したように、口を開いた。 「……『この腕が星の聖剣であることは決して誰にも話してはいけないよ』と、誰かに強く忠告されたこと。特異点にまつわることで、それだけは唯一覚えていました。召喚を受けた時には私よりもダ・ヴィンチ殿の方がこの腕についてよく知っているくらいだったし、逆に簡単な仕組みをレクチャーされたりしましたし、マスターからは「もうバレてるよ?」なんてあっさり言われてしまったりしましたけど……。でも、それでも私の口からは何ひとつ話さなかった。腕を解析させて欲しいとダ・ヴィンチ殿から頼まれた時もお断りしました。模造品であろうと、これは星の聖剣。私の一任で判断していいことだとは思えなかった」 ベディヴィエールは左手で右の腕にそっと触れた。それを見て、マーリンは微かに眉根を寄せる。 「そんな顔はやめなさい。キミにとってそれは――アガートラムは、決して良いものではなかったはずだ。そんな風に大切に想わなくていい。今からでも解析させてやって構わないさ。どの道、今彼らが知り得ている以上の情報なんて出てこないしね」 一秒でも間を置いたら、ベディヴィエールは否定の言葉をきっぱりと返していただろう。しかしそんな暇など与えず、マーリンは言葉を続ける。 「しかし、従順なキミがカルデアからの頼みを拒むとは流石に驚いた。手入れはどうしているんだい?」 「……小まめに磨いてはいます。銀は曇りやすいですから。でも動きが鈍くなることはないので、そのくらいです」 「ふむ。私は我ながらいい仕事をしたようだ。少し見せて貰っていいかな?」 「勿論。外しますので、少々お待ちを」 「そのままでいい。こっちにおいで」 招かれるがままにマーリンの隣に腰掛けると花の香りが一層強まった。むせ返りそうだと、ベディヴィエールは思う。 銀腕の肘の関節を支えて、マーリンは肩口から手の甲までをさらりと撫でた。義手であるそれに感覚は無いが……少しだけ居た堪れない気持ちになる。まるで本物の腕を撫でられたようだった。 「やっぱり。これ、真名開放してもキミに痛みはないね?」 「はい。そう……ですね、特に痛みなどはないです」 不思議そうにするベディヴィエールを見て、マーリンが苦笑する。 「私がキミにこれをあげた時はね、真名解放する度に魂が全焼させるという物凄い仕様だったんだ。何たって星の聖剣だし、ただの人間が使うならそれしか手段がなかったわけだけど――残酷なことをしたなと、私も少しは胸を痛めた。だから、よかったよ」 「……ええと、」 「思い出さなくていい。そんな記憶、キレイさっぱり忘れてしまうのが一番だ。荷が勝ちすぎていた星の聖剣の力ではなく、今ではマスター君との繋がりこそがキミの力というわけか。上々だね。……リツカくんのこと、好きかい?」 「ええ、彼はとても良いマスターです。マーリン殿も、きっとすぐに彼のことが好きになります」 「ハハハ、マスターくんのファンだからこそ、遥々こんなところへやってきた私だよ?……長話になってしまったね。そろそろ部屋へお戻り。どうせトリスタンは部屋の前でキミを待っているのだろう。マーリン殿は平伏して謝っていたと、彼によく伝えておいてくれたまえ」 「嘘じゃないですか。承諾しかねます」 「キミだって火種を残したくはないだろう?」 「伝えたところでバレますよ。私は嘘が下手だし、トリスタンはそういう機微にとても敏いのです。ご自分で誠心誠意謝罪して下さい」 「誠心誠意か。私には心がないから不可能だね。精々、顔を合わせないように気をつけるとしよう。トリスタンの方でもきっとそうしてくれるだろうしね」 ベディヴィエールは不満げにしていたが、マーリンが「これで話はおしまいだ」とばかりに手をひらひらと振ってみせると、諦めたように席を立った。 「……マーリン、」 扉に手を掛けたベディヴィエールが静かに呼ぶ。マーリンが視線を向けると、ベディヴィエールはどことなく誇らしげな笑みを浮かべる。 「アガートラムは良いものではなかったかも知れませんが、そう悪いものでもありませんでしたよ。覚えてはいませんが、そう感じるのです」 丁寧に一礼すると、彼は髪束を軽やかに翻して部屋を出ていった。 やがてその足音さえ完全に聞こえなくなると、マーリンは小窓の外を眺め始めた。……小さな窓が、ここには一つ。アヴァロンにいた時と大差ないなと自嘲する。しかし真っ白なだけの雪原は、マーリンにとって一面に咲く花畑より目新しい。 「うん。よかった。……とてもよかった」 目を伏せて、自分に言い聞かせるように呟く。 |