ダイイング・ヴァンピール





 何もしていなくても汗が伝い落ちるような蒸し暑い昼下がりに、アンドラスは二の腕で額を拭う。この辺りは基本的に夏でもからりと乾いた気候だが(拠点を置いた理由の一つだ。湿気は腐敗を進ませる)、昨晩から今朝にかけて降った雨が湿気を置き土産にしていった。強い日差しで地面は既に白茶色になっているから、後は風が払ってくれるのを待つしかない。
 夏の間はこうなることを見越して検体を減らしている。地下室に並んでいるのも出来上がった標本や剥製ばかりだから懸念はない。最近は論文をめくり、新たな知識を消化吸収する日々を送っている。入手するだけ入手して、部屋の隅にうず高く積まれていた物たちだ。面白い知見もいくつか得た。涼しくなったらまた解剖三昧だ。
 それにしても今日は本当に暑い。今度はこめかみにじわりと滲んだ汗を拭った。そろそろ水分を補給した方がいいだろうと、区切りのいいところまで論文を読み進めて、その辺に置いてあった学会の招待状を栞代わりに挟む。出席するかどうかはまだ決めていない。多分、出ないだろう。返事もしないかも知れない。自分はただ解剖がしたいだけで、その他の雑事には一切興味が無い。
 ミントの葉を浮かべた水差しの水をグラスに注いだところで、恐らく男性のものと思わしき足音が聞こえてきて、アンドラスは窓を振り返る。
 カーテンの間から顔を出したのはタナトスだった。意外な訪問者に少々驚く。同じソロモンの軍勢ではあるものの、彼もアンドラスも本隊とは別行動を取ることが多いので殆ど話したことは無い。なのに彼の名前と顔をしっかりと覚えているのは、遺髪の配達という仕事が興味深かったからだ。
 アンドラスとしっかりと顔を合わせたこの状態で、タナトスは窓の木枠をこんこんこんと三回叩いた。ノックのつもりなんだろうけど、意味を成しているのかは謎である。
「用事なら表から来ればいいのに」
「回り込むのが面倒だった」
 そういえばそういう考え方をする男だった。
「それに用事は外にある。アクィエルがぶっ倒れてるから診てやってくれ。近くの木陰で休ませてる」
「……アクィエルが?」
 アクィエルの方は馴染み深い相手だ。血液以外の栄養摂取を受け付けない特殊体質をしていて、その辺りのリハビリはアンドラスに一任されている。
「棺のベルトは外したんだけど、衰弱し切ってる癖に何度言っても鎖手放さないから運べないんだよ。……見た方が早いと思うから、とにかく来てくれ。説明が面倒すぎる」
「オーケー。でもその前によかったら、これどうぞ」
 自分用に注いだミント水のグラスを渡す。タナトスは面食らった様子だったが「このまま活動していたら君も熱中症になってしまいそうだから」と付け加えると、納得顔で飲み干した。

 サンザシの並木道に棺が落ちているように見えた。その目測も別に誤りではないのだが、よくよく観察すると棺からはへその緒のように鎖が伸びていて、木陰で休むアクィエルと繋がっている。余談だけど吸血鬼を殺す為の杭の多くはサンザシ製だ。
 アンドラスはアクィエルの顔を覗き込む。いつもと変わらない真っ白な顔だが、目の下の隈がやや濃く出ているかも知れない。彼は常に血色が悪いから、顔から読み取れる情報が少ない。
「アクィエル、意識はある? 俺が誰だか分かる?」
 静かに呼びかけるとアクィエルはとても重たそうに瞼を開けた。赤い瞳は白皙の顔にやたらと目立つ。
「……アンドラスくん」
「どうしてこんな炎天下に外に出たんだ?」
「森の中にいたんだけど、蝶々くんが……」
「ハハ、大体予想通り。もう喋らなくていいから眠ってて」
「……うん……」
 アクィエルが再び瞼を閉じる。ぐったりしているだけで、眠っているわけではないようだけど。

 「日差しにやられたみたいだね。命に別状はないよ」と歩いて後からやってきたタナトスに診断を告げると、無感動に「そうか」とだけ返された。一応助けを求めてきた割りに、感情の起伏がイマイチよく分からない男である。そういう偏差はメギドにはよくあることだし、アンドラス自身、他人のことをとやかくは言えないが。
「診療所に運ぶの手伝ってくれるんだろ? アクィエルと棺、どっちがいい?」
「……棺かな」
「ありがとう。実は彼より棺の方が重いんだ」
「げ」
「アクィエル。棺はタナトスが運んでくれるから、手、放して」
 囁き掛けると、固く固く握られていたアクィエルの手から、ふっと力が抜けた。



 何が入っているのか知らないが本当にやたらと重い棺を引き摺って、タナトスは診療所まで戻ってきた。大した距離ではないのに軽く息切れしている。こんなもん持ち歩いてたら誰だってバテるだろうに、理解に苦しむ行動だ。八つ当たりで棺を蹴飛ばしたい気持ちを抑えて、丁寧に入口すぐの壁に立て掛けた。……仮にも人の持ち物だし、本人が大切そうにしているのだから仕方がない。本当はアクィエルの傍まで持っていってやるべきなのだろうが、これ以上持ち歩きたくなかった。
 解剖医であるアンドラスの診療所にはベッドは三つしかない。その中でも一番奥の、一番日が当たらない場所にアクィエルは寝かされていた。
「地下に氷箱があるから、この氷嚢袋に氷を詰めてきて。一番奥のところにある胸くらいの高さの棚だよ」
「当たり前みたいにこき使うなよ……面倒すぎる……」
「君がバイタル取ってくれるんなら、俺が代わってもいいんだけどね」
 仕方なく、氷嚢袋を受け取った。
「氷だけ? ……血はいいのか?」
「血液は夏場だとあまり保存が利かないんだ。渡せそうな案件が出来た時だけアクィエルを呼んで、あとは動物や幻獣の血で繋いでもらってる。ああ、君が血を提供してくれるって言うなら、すぐに輸血の準備するけど?」
「………………。」
 思わず自分の腕をじっと眺めてしまった。戦闘中に怪我をして血を流すことはあっても、血を抜かれたことはない。一体どんな心地がするのだろう。
「へぇ、迷うんだ。思ってたより善良なんだね。先にも言った通り、日差しにやられただけだから輸血は必要ないよ。アクィエルの場合、血はあるに越したことはないけど」
「お前な……」
 盛大にため息をつく。別にそういうわけじゃない、という弁解はしない。手間を割いたところでただの言い訳だと思われそうで嫌だった。
「……タナトスくん、ごめん、僕の所為で……」
 死にかけの芋虫が喋ったみたいなか弱い掠れ声で、アクィエルが呻く。
「……謝ってるけど?」
「言われなくても聞こえてる」
 アンドラスにだけ返事をして地下室に向かう。別にいい、なんて律儀に返答したところで、何も分かっていないアクィエルはどうせまた同じように「ごめん」と謝るのだ。
 人と関わることは面倒が増えることに他ならない。心底、嫌になる。そもそもアクィエルなんて面倒臭さが服を着て歩いてるみたいな奴である。体質だけの話ではない。記憶の大半を失っている白痴だから、ただ会話をするのもままならないのだ。
 最初は正直、何も見なかったことにしようかとも思った。もうちょっとで木陰というところであえなく行き倒れていたアクィエル(棺が上になってたから、最初は棺が放棄されているのかと思ったけど)を見つけたのが、もし仕事の途中だったなら、少なくともここまで付き合ってはいない。仕方なくアクィエルを木に凭れさせた辺りか、或いはアンドラスを呼んだ辺りで「じゃあ、俺は仕事があるから」と言ってさっさと離脱していただろう。それが運悪く仕事の帰りだった所為で、重い棺を運んだ挙句に氷嚢袋に氷なんて詰めている。さっきアンドラスから言われたように、思っているより自分は善良な性質をしているのだろうかと錯覚してしまいそうになる。でもそういう話ではないことは、自分が一番よく分かっている。
 ……考えるのが面倒になってきたので、思考を切り上げて周囲に視線を巡らせた。アンドラスの地下室は心地よく涼しく、珍しげな標本や剥製がぎっしりと並んでいる。思いがけない幸運だった。動物だの幻獣だのヴィータだの、もしかしてメギドも混じっているのではないかと思える雑多な死の気配に囲まれて、胸が踊る。働き分の報酬として後でじっくり見物させてもらおうと決めた。
 死は素晴らしい。死について考える時だけは、何も面倒に思わない。

「……氷、詰めてきた」
「ご苦労さま」
 カルテらしき帳簿を書きつけているアンドラスに代わって、アクィエルの額に氷嚢をセットする。どうせぼーっと突っ立てたら「やってくれるかい?」と言われるに決まっているのだから、先取りした方が賢い。
 氷嚢の冷たさで、アクィエルの表情が明らかに安らぐ。別にそれを見て安堵したりはしない。ただ、労力が無駄にならなかったことに対してなら、ほっとした。
「思ってたよりずっと働いてくれたから驚いたよ。君はもっと怠惰だと思ってた」
「何も言われなきゃ何もしない。でも、アンタはどんどん指示を出してくるから」
「立ってるものなら親でも使うのが医者だよ」
 ぱたん、とアンドラスが帳簿を閉じる。
「働きの分の報酬は払うよ。いくら欲しい?」
「金より、アンタの地下室の見物がしたい」
「へぇ……良い趣味してるね」
「作ったやつに言われたくないな」
「嫌味じゃなくて本気で言ったんだけど。製作者としても冥利に尽きる。アクィエルが目を覚ましたら呼びに行くから、それまで好きに見てていいよ。一、二時間は寝てるんじゃないかな」
「なんでアイツと帰ること前程なんだ……」
「折角なんだから送ってあげなよ」
「嫌だ」
 ついさっきまで苦し気に息を詰めていたアクィエルは今では健やかに寝息なんて立てている。暢気な寝顔を見ていると鼻でも摘まんでやりたくなったが、勿論そんな無駄なことはしない。死の気配を求めて、早速地下室へと向かう。



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