リヴィング・ダンピール



 あれからというものの。タナトスは暇を見つけてはふらりとアンドラスの診療所を訪れた。目的は勿論地下室だ。暗くて静かで雑然としていて、何だかやたらと落ち着く。季節は夏から冬になっていたけれど、地下の温湿度は通年で変わりがない。いつでも同じように心地いいので、ぼーっとしていたら数時間過ぎていたことも、夜になっていたこともあった。
「あ。そういえば居たんだったね。忘れて鍵かけてたけど平気だった?」とアンドラスから言われたことさえあった。
 最近は時々手伝いを頼まれるようになった。「運ぶのを手伝って欲しい」とか「買い物を頼めるかな」とか、子供のおつかいレベルの話だ。そういう時は暗黙の了解で代金を貰わず仕事した。アンドラスは解剖狂だけど、グザファン辺りと比べると余程人道的で変にまともな男だという認識が深まっていった。
「タナトス。森へ行ってアクィエルへを呼んできてくれないか」
 という依頼もいつかは来るべきものだっただろうが、つい物凄く嫌な顔をしてしまった。アンドラスからも「もしかして用事でもある?」と確認されてしまったくらいだ。
「駄目ってわけじゃないけどさ。……森の中ってどうやって探せばいいんだ?」
 広大な森を隅々まで探し回るなんて面倒な真似はしたくなかった。
「簡単だよ。森の入り口で大声で名前を呼べばアクィエルの方から来てくれる。彼は耳が良いし足も早いからそんなに時間も食わない」
「……あいつは放し飼いの犬か何かか……?」



 森は町から続く平原よりも少し高い場所にあって、入り口は切り立った丘陵が交叉する複雑な地形をしていた。森の奥はそびえ立つ高い山々に連なり、からりと乾いた風がそこから吹き下ろす。
 丘陵を越える気なんてタナトスには更々無い。季節柄、足元に雪まで積もっているのだから当たり前だ。丘のすぐ下のところに立って、冷たい空気を思い切り吸い込む。予想以上の寒気が肺腑に流れ込んで咽そうになったが、堪えてアクィエルの名を呼んだ。声は山や森のあちこちに反響しながら、やがて消えた。
 ……もしかして俺は今、物凄く馬鹿げたことをやってるんじゃないか?
 一瞬虚しい気持ちになりかけたが、やがて地響きのような震えが足元から上がってきた。段々と大きくなる震えには一定のリズムがあり、どうやら四つ足の巨獣の疾走によるものだと予測する。それを肯定するように、森の樹々の間から巨大な黒茶色の塊が飛び出した。獣か幻獣かの判別はつかなかったが、面倒だなと思いつつ、とにかく暗器を構える。
「………………。」
 よく見ると、猛スピードで疾走する獣の前に何かがいた。
 獣と同じ速度で走っているそれは――(心底間違いであってほしかったが)どう見てもアクィエルだ。タナトスは暗器を取り落としそうになるくらいに脱力した。
「やっぱりタナトスくんの声だった!こんにちはタナトスくん!」
「挨拶はいいからまず後ろのをどうにかしろっ!」
「うんっ!」
 馬鹿みたいに素直な返事をして、アクィエルは足をぐっと強く踏み込む。ふわり、と重力を感じさせない動きで大きく跳躍すると、首を後ろに逸らして宙返りした。着ている外套の影が大きく広がって、タナトスの視界にはまるで一匹の巨大なコウモリのように映る。
 その勢いを殺さずに、アクィエルは獣の延髄周辺に思いっ切り蹴りを入れた。どうと昏倒した獣は丘をずり落ちながらちょうどタナトスの目の前までやってくる。移動の手間が省けて助かった。巨大だが、それは幻獣ではなくただの熊であるようだった。死んでいるわけではないと分かったのは吐息が白く煙るのが視認出来たからだ。
「驚かせてごめんタナトスくん。熊くんには気付いてたんだけど、早く返事しなきゃと思って」
「別に驚いてない」
 ただ、コイツ本当に馬鹿だなと思っただけだ。
「そっか、よかった。血を吸っちゃうから、もう少しだけ待ってて」
「血?」
「森で襲い掛かってくる獣がいたら撃退していいって、前にウァプラくんから言われた。その代わり血を一滴残さず飲み干せって。自然の摂理のひとつで、ジャクニク・キョウショクっていうんだって」
 ぼんやりしているイメージが強いアクィエルだけれど、こんな風にちゃんと喋れるのだなと少し見直した。難しい言葉はたどたどしい片言であったけれど、それは仕方のないことだ。今日の彼は目にしっかりと光が宿っているし、指の先まできちんと芯が通っている感じがする。寒い方が体質に合っているのかも知れない。暖かそうな格好には見えないが、寒がる様子もない。
 アクィエルは熊の首元に屈み、大きく口を開けた。上の歯列に鋭い犬歯が突き出ているのが微かに見えた気がしたけれど、さらりと落ちてきた長い白髪に阻まれてすぐによく分からなくなった。
 血の匂いはしなかった。匂いも温度も物音も、雪が何もかも柔らかく吸い込んでしまうようだった。指や耳などの末端がじんと痺れる白い静寂の中で、アクィエルの深く長い呼吸音だけがささやかに耳に届く。吸血なんて野蛮な行いであるはずなのに、背景が真白いからか妙な清潔感があった。神聖であるとさえ感じた。ここにしか世界が存在しなくなってしまったような、足元が浮つくような酩酊があった。

 ――「死」を目の当たりにしていると、強く強く感じた。

 犬歯を一、二本突き立てたくらいで熊の血が簡単に抜き切れるわけがないが、アクィエルはほんの十分程で「飲み終わった」と言って立ち上がった。そこでやっと自分が呼吸をし忘れていたことに気付いて、タナトスは大きく息を吐く。
「どうだった、タナトスくん」
「どうだったって、何が?」
「タナトスくんは生物が死んでいくのを見るのが好きだって聞いたことがあるから。どうだった?」
「……悪くなかった」
「そっか」
 アクィエルは無邪気ににこりと笑ったが、その口の中が妙に赤々として見えて何だか落ち着かなかった。
「死骸はアンドラスくんかニスロクくんのところに持っていくと処理して貰える。ニスロクくんは出張が多いから、僕はいつもアンドラスくんのところへ持っていくけど。剥製も食肉も、血抜きは早い方がいいからちょうどいいって褒めて貰えるんだ。張り切りすぎてミイラにしちゃったこともあるけど、最近具合が分かってきた」
 アクィエルは喋りながら、自分の倍以上ある大きな熊の死骸をよいしょと背負った。勿論、彼の背中には棺という先客がいる。以前、棺だけで汗だくになった経験のあるタナトスとしては、本当にどういう筋力なんだと訝しまざるを得ない。



 診療所の応接室に当たる部屋の暖炉には既に火が入れてあった。タナトスは暖気にほっと息をつき、雪で湿った外套を脱いで壁に掛けた。アクィエルは何も気にせずそのまま壁際の長椅子にすとんと座ったが、彼の恰好から外套を取ると何だかおかしな具合になるから、これはこれでいいだろう。
「まさかあんなに大きな熊を狩ってくるなんて思わなかった。剥製用の充填が足りないし、毛皮は売って、中身は俺がニスロクに渡しておくよ」
 マグカップふたつを盆に載せてやってきたアンドラスは、喋りながら足で器用にドアを閉めた。
「何だかごめんねアンドラスくん」
「気にすることないさ。解剖出来るし、収入になるし、美味しい料理になって返ってくるし、俺にはいい事しかない」
 いつもの薄笑いを浮かべて、アンドラスはアクィエルにマグカップを渡す。
「……ありがとう。それでアンドラスくんの方の要件は?」
「生まれつき奇形のあった子羊がいよいよ歩けなくなったって。でもただ屠殺するんじゃなく、標本にして後学に役立てて欲しいって依頼だ。明日の昼頃に伺う。いつも通り、なるべく苦しませないように頼むよ」
「うん。任せて」
 何食わぬ顔で着いていこうかなと考えながら、タナトスもアンドラスからマグカップを受け取った。中身はホットコーヒーで、ブランデーがちょっぴり垂らしてあるようだった。流石、気が利く。横目でそっとアクィエルのマグカップを覗き込んでみると、そちらには濃いキャラメル色の液体が注いであった。
「ヤギ乳のカフェオレ。アクィエルは液体ならそれなりに摂取できるから」
 質問するまでもなくアンドラスが答える。アクィエルは何故か得意げな表情でカップの中身をこちらに向けてきたが、血液以外も摂取可能なことは誰かに誇るようなことではないと言いたい。
「アンタ、人の心が読めるわけ……?」
「ハハ、まさか。俺に分かるのは視線の方向と表情筋の動き方と血色と呼吸数の変化くらいだよ」
 視線や表情筋でここまで他人の思考を読み取れる方が逆に不気味だが、アンドラスに不審者の自覚はないだろう。
「ところで君たちは臓物平気だよね? 腑分け、今やっちゃっても構わないかな?」
「うん、いいよ」
「やってくれ、良い肴になる」
 アクィエルとタナトスはほぼ同時に頷いた。つまりどちらも即答である。
「有難いし俺が言えたことじゃないけど、君たちは感性が独特だよな」
 小型の斧を片手に外に出ていったアンドラスは、暫くすると熊の右腕らしき物体を持って帰ってきた。幼子ほどの質量はあるだろうそれを、布を敷いた手術台の上にごろりと無造作に転がす。傍の台に置いてある道具箱の中身は手術道具ではなく、大振りの工具みたいな道具類だ。
「分断した四肢から始める。君たちはそれ飲み終わったら胴体をバラす時に手伝って。ああ、急がなくていいよ。外は氷点下だから腐敗しないし。何なら明日や明後日でも構わないくらいだ」
「ガウンは着ないのか?」
 手袋を嵌めただけのアンドラスを見て、タナトスは訊ねる。
「アクィエルがしっかりやってくれてるから、血が吹き出したり飛び散ったりはしないんだ」
 名前を出されて、アクィエルはまたちょっと得意げな顔をした。しかし自慢に思っているというよりも、アンドラスの役に立てていることが純粋に嬉しいようだった。

 道を極めた者が行うとあらゆる行為は簡単そうに見えるというが、これはその最もたるものの一つだろうと、解剖術を眺めながらタナトスは思う。面白い程簡単に毛皮が肉から剥がされて、筋や骨、脂肪が見る見る内に選り分けられていく。タナトスからすれば高度な芸術を鑑賞しているようなものだった。アンドラスがいつになく凶悪な笑顔で刃物を奮っていることも含めて、だ。
「……なぁ、森に棲んでる生き物ってみんなお前の友達なんだよな?」
 手持ち無沙汰というわけではないけれど、珍しくタナトスの方から話かけてやると、アクィエルの顔がぱっと明るくなった。そういうところが嫌なんだけどなとは、わざわざ言ったりしない。
「そうだよ。みんな友達」
「この熊も?」
「友達だった。でも襲い掛かってきたら友達じゃなくなるんだって。ソロモンくんとかアジトのみんなからそう教わった」
「元々友達じゃなかった、じゃなく?」
「友達だったよ。一緒の森で暮らしてたし」
 自分の言葉に何も疑いも抱いていないのが恐ろしい。童話並みの世界観だ。
「お前にとっての友達って、何?」
「友達がいれば一人じゃない。だからたくさんほしい」
「多いより少ない方が手間がなくていいと思うけどな、俺は。そういうのって量より質だろ」
「でも友達が一人しかいなかったら、その友達がいなくなってしまった時にすごく悲しい。耐えられないくらいに」
「――どちらの意見も一理あるね。良い友達が一人いれば十分だとは俺も思うけど、不死者であろうと死ぬときは死ぬわけだし」
 解剖する手は止めないまま、アンドラスが会話に参加してきた。あらゆる意味で意外だったのでタナトスは軽く目を瞠る。
「まるで友達がいるみたいな言い方するじゃないか、アンタ」
「いるよ友達。ヴィータだけど」
 さらりと放たれたアンドラスの言葉で、タナトスの表情が凍り付いた。
「…………そのヴィータ、何者だ? 騙されてるんじゃないか?」
「子供の頃から十数年もかい? 俺も一応ヴィータとして生きてきたんだからそこまで不思議じゃないだろう」
 アンドラスはそう言って笑い飛ばしたが、タナトスからすると十分不思議である。メギドであってもアンドラスの隣に立つのは難しそうなのに。
「その友達はどんなヴィータなの?」
 今度はアクィエルがそわそわした様子で訊ねる。友達の友達は友達というトンデモ理論を展開しているアクィエルだから、どんな相手なのか気になって仕方がないのだろう。
「普通だよ。俺に付き合えるくらいだし頭のネジが外れてるところもあるんだろうけど……。ううん、うまく説明出来なくて悩むくらいには普通かな」
「普通だけど特別なんだね。そういうのって、いいね」
 アクィエルの幼稚な感想に、ふと、アンドラスが手を止めた。
「……。そうかも知れないな」
 バグみたいな一瞬の空白の後にアンドラスが肯定すると、アクィエルは嬉し気に目を細めた。
 そんな二人を尻目にタナトスは呆れたようにため息をつく。心底下らなかった。


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