光を嫌う蟲もいる。


 ぎぎ、と古びた蝶番の擦れる音がした。
 手元が放せないので視線だけそちらに向ければ、黒い棺桶の内側から血の気のない真っ白い手がぬらりと伸びて、その上蓋を開けるとこだった。事情を知らない者がこのシーンだけを見れば、叫ぶか腰を抜かすかするかも知れない。辺境にある変人解剖医の診療所とくればホラーとしてのロケーションもバッチリだ。あちこちの壁に落としきれない不気味な染みが飛び散っているし、棚には使いどころの知れない道具や薬品の瓶、身体の模型が雑多に並んでいる。ただアンドラスに言わせれば、こんなところに棺桶が一基無造作に置かれていたならそれはホラーではなくコメディだ。
「おはよう、アクィエル」
「おはようアンドラスくん。今、何時くらい?」
「そろそろ夕方。これを終わらせたら夕飯にしよう」
「うん」
 今回アクィエルを呼んだのは咀嚼の様子を見せてもらう為だった。夕方頃でいいと言ったのだが昼過ぎにはやってきた彼は、まだ時間があると告げると「それじゃあ少しだけ寝る」と言うなり背負っていた棺桶を床に降ろした。しかも慣れた動作でその中に滑り込んで健やかな寝息が聞こえ始めるまで、トータル三十秒も掛からなかったから、流石に笑いを堪えるのが大変だった。なんとまあ、自由に生きていることか。
 噛み菓子の習慣はずっと続けているようだし、アクィエルもそろそろ流動食を脱せるかも知れない。料理に悪魔の血(本当は化粧品用だが手軽なので、アクィエルに対しては調味料として使用している)を振りかけなければならないことに変わりはないが、生態としてもう仕方のないことなのだろう。
「……最近、タナトスくんを見かけないね。一緒にご飯が食べられたらいいなと思ったんだけど」
 アクィエルは棺桶の縁に肘をつき、頭に上蓋を乗せた状態でため息をついた。彼にとって棺桶の中はとても落ち着く場所なのだろうけど、見ている側としては相当面白い。それはヴィータたちは死体を納める為に使っている物なのだと、果たして彼は分かっているのだろうか。
「タナトスなら次にいつ来るか分からないって言ってたよ。名前も知らない行き倒れの男の遺髪を届けるとかでさ。髪を一房出して、これで分かることがあったら何でも教えてほしいって言われたけど、俺にも大したアドバイスは出来なかった。首ごと持ってきてくれればまだ診ようもあったんだけどな」
 アクィエルは目を真ん丸くした。真っ白な顔に真っ赤な目立つ瞳が嵌っている所為か、零れ落ちそうな程に大きく見える。
「……それって、いつぐらいの話?」
「少なくとも二か月は前」
 ソロモンの軍勢は団員の一人一人に各々の生活がある。アジトを根城としている者を除けば基本的にバラバラに行動しているから、数か月顔を見てない者がいてもそう珍しいことではない。本来タナトスはその中でも付き合いの悪さでは群を抜く男だけれど、アクィエルは気落ちしたようだった。
「……ねえ、アンドラスくん」
「何?」
「タナトスくんの仕事って、僕にはすごく難しく聞こえるんだけど、アンドラスくんには簡単?」
「雲を掴むような話だって俺も思うよ。タナトスにとっても簡単なことではないだろうね」
「そうだよね」
 頷いたのか俯いたのかよく分からなかったけれど、アクィエルは微かに首を動かすと壁際の長椅子にすとんと腰かけた。普段は頭の上で元気にぴょんと跳ねている髪の毛が何だか萎びて見える。タナトスと『友達』になる機会を虎視眈々と窺ってきた彼からすると、かなり残念な報せだったのだろう(タナトスの方はアクィエルのキラキラした視線を煩わしく思っているようだけど)。
 友達になりたいという下心があるにせよ、アクィエルはその辺の子供よりも余程純粋に他人に接してくる。ヴィータとメギドどころか、動物、虫、植物といった区別さえせずに友達になりたがるのだから恐れ入る。アンドラスの解剖欲だってそこまで無差別ではない(ちなみに幻獣であれば虫型、植物型の区別なく解剖したい)。
 熱意はあるのに妙にさらっとしたアクィエルの接触に、多くの団員は負けたり流されたりしていつの間にか『友達』になってしまう。そんな中でタナトスは「オレはお前の友達じゃない」と平素から面と向かって言い放ってみせる結構数少ない男だった。単純に真実を言っているだけではあるだろうけれど、大抵のことを「面倒だからそれでいい」と受け入れてしまう彼にしては珍しい。それだけ、アクィエルと友達になったら面倒だと思っているのだろうか。害を成すわけではないし、先手を打って決め事を言いつければ「友達の言うことなら!」と張り切って遵守してくれるし、それほどでもないとアンドラスは思うのだけれど。



 タナトスくんはお喋りな方じゃない。それに今日と昨日までとは何も変わらないはずなのに――今日はアンドラスくんの診療所がとても静かに思えて不思議だった。アンドラスくんはさっき少しだけ僕とお話ししてくれた以外はノコギリで楽しそうに献体(以前「死体」と言ったらこう訂正された)の腕を胴体から切り離し続けていて、部屋には鈍い音がずっと響き続けているから、静かって言うのは本当は違うのかも知れないけれど。
 骨を切断する音は、骨を砕く音と比べると少し物足りない。でもこれはこれで悪くない。僕は今まで骨そのものに興味を持ったことはなかった。でもアンドラスくんの切断した骨は惚れ惚れするくらいに真っ直ぐな断面をしていて、骨の内側の部分を触らせてもらうと、ざらざらと、いつまでも触っていたくなるような面白い感触がした。幻獣を狩った後で何度か手足の骨を折ってみたけれど、こんな風にうまくいかない。あとソロモンくんから「そういうことはやめた方がいいと思う」とやんわり止められた。
 診療所で解剖を見学するのも、もう両手じゃ足りないくらいの数になっている。アンドラスくんは初めは喜々としてヴィータの体の構造を僕に解説してくれたけれど、全部すっかり説明し終えてしまったから、今は何か特殊な症例が出ない限り黙ったままだ。どんなに丁寧に説明してもらっても、アンドラスくんが何を言っているか分からないことは多い。でも彼はいつもとても楽しそうな顔で話してくれるから、つい僕も嬉しくなって、笑顔で相槌を打ってしまう。
 組織固定液――生物の細胞を変化させて長く置いておけるようにする液体にはホルマリンという名前がある。饐えたような独特の臭気があって、初めて嗅いだ時は思わず鼻を摘まんでしまった。しかも髪や服に臭いが移りやすいから、例えばそのままアジトへ行くとベヒモスくんに逃げられてしまう。アンドラスくんはどうしても急用で出かけなければならない時はモーリュの花の香水を使うらしい。アンドラスくんから妙に良い匂いがすると思ったことが以前にも何度かあったから、そういうことだったのかと納得した。
「アクィエルも使っていいよ。普段使いしてないから全然減らないんだ」
 そう言って、アンドラスくんが香水を吹き掛けてくれたこともあった。でも、僕は自分から良い匂いがすると何だかすごくそわそわしてしまって、特に棺桶に入るとその香りばかり気になってしまって落ち着かなかったから、その一度きりにしてもらった。森に帰る時は途中で川に入って髪や服を洗う。アジトや誰かの家を訪ねる時はアンドラスくんの家(診療所と続きになっている)でお風呂を借りる。お風呂は暑くてのぼせるからちょっと苦手だけど仕方がない。
 アンドラスくんやソロモンくん、それに女の子たちは「お風呂に入るとさっぱりする」と言う。でも僕はお風呂に入った後は少し気分が悪くなる。いつもはじっと大人しくしている全身の血が、方々で暴れ回って身体の外へ出ていこうとしているような心地になる。彼らと僕は生き物としてやっぱり別物なのだ。
 勿論。だからといって友達になれないわけではない。アンドラスくんもソロモンくんも、ウサギくんもカマキリくんも薔薇くんも、みんな僕の友達。
 でもタナトスくんはまだ、友達じゃない。



 妙な怖気がして、タナトスは閉じていた目を開けた。睡眠は生態としては必須ではないが、どの道体に疲労は溜まるし、休息は折々に必要になる。そうなった時に最も効率が良いのは座って(条件が良ければ横たわって)視界を閉じて思考も切ることであり――結局のところは睡眠が最適解となる。
「――まだ研究論文の段階だけど、魚は眠っていないんじゃなくて脳の一部を交換で休ませることで起き続けているらしい。メギドの睡眠事情についても同じなんじゃないかな」
 いつだったか、アンドラスがアカデミックに語ったことを思い出す。
「アンドラスくん、それって僕と魚くんはお揃いかも知れないってこと?」
「まだ研究段階だけどね」
 と、底抜けに間抜けな会話が後続したこともオマケに思い出してげんなりした。

 正中にあった太陽がもう大分傾いて、空は濃い橙色だ。ヴィータたちは家に帰る時間帯で、だけどタナトスはこれから歩き出す。移動は夜の方が静かで好ましい。暇潰し代わりに話しかけてくる暇な旅人の多さにはほとほと閉口する。夜盗の方がまだマシだった。問答無用でブッ倒してしまえばいいのだから話が早い。
 街には二、三ヵ所目星をつけたから、後は情報収集をするだけだ。見つかるか見つからないかは分からない。多分、本当のところはどちらでもいいのだと思う。重要なのはタナトスが死と向き合う過程であり、結果の方は基本的にオマケだ。「普段はあれだけものぐさな癖に、これに関してだけは本当に手間を惜しまないわよねアンタ。わけ分かんないわ」とグザファンに言われれば睨みつけるが、言っている内容は間違ってないと自分でも思う。死はタナトスをどこまでも魅了して止まない。
 ――この案件を片付けたら何をしようか。
 そんな言葉がふと思い浮かんだのは、以前ソロモンが進軍中にそんなようなことを呟いていたからかも知れない。どんな相手であろうとも、常に戻ってくることを前提にしているのだから図太い男だ。
 今現在の自分が帰ろうと思って踵を返す場所はどこだろう。昔はそんな場所なかった。少し前まではミノソンのカジノだった(用事がないと完全に放任してくる分、ミノソンには一応一言連絡しておこうかという気になる。グザファンは知らない)。ソロモンの軍団にはアジトがあるが、下手に近づいて何かに巻き込まれるのはごめんだ。好んでは近寄らない。……ここで思考を止めた。

 外套の内側を探り、油紙に包んだ遺髪のひと房を取り出す。傷んだ赤毛をぼんやり眺めて『自分がいつも通りである』ことをよく確認して仕舞う。
 夜明け前の空に似たタナトスの青灰色の瞳は、月も星も見上げない。余計なものは何も要らない。ヴィータたちの暮らす街に灯る、遠い光だけを真正面から映す。松明の火に魅せられた羽虫のように早足で近づいていく。


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