鏡面にて揺れる


 彼女――マーリンと初めて顔を合わせた時のことは英霊となった今でも鮮明に覚えている。季節は風がまだ冷たさを含んでいた春先で、空から燦々と注ぐ光と雪による反射が彼女の髪と瞳を美しく彩っていた。マーリンのそれらは光のちょっとした入り方の違いで万華鏡のように色を変えるから、比喩ではなく見たままの話だ。そよ風や薄雲の陰りで虹色に変色する彼女の姿は不思議な幻でも見ているようで、その時まだ三つか四つだった僕の目はすっかり釘付けになってしまったのだ。
 マーリンは右手に携えた杖をしゃんと立てて、左手を胸元にそっと当てた。片方の足首を優雅に後ろへ引き、腰を落とすと同時に恭しく頭を下げる。妙に小慣れたカーテシーだったけれど、彼女が他者に頭を下げたことなんて、その長い生の中でもほんの数回しかないだろう。
「こんにちは。そしておはよう、今はただの少年でしかないアーサーくん。私はマーリン。花の魔術師マーリンという。キミの旅路を見守り微笑む、見ての通りの綺麗なお姉さんさ。……おや?」
 瞬きもせずに見つめていたので、名乗り終えたマーリンが不意に顔を上げると視線同士がかちりと噛み合った。複雑にきらめく彼女の瞳は、大まかに言えば紫をベースにしているようだった。
「私はこれからキミ専属の魔術師となる。けれども、その前に一つ約束して欲しいことがあるんだ。いいかい?」
 彼女の美しさに圧倒されて、言葉では返事が出来なかった。小さく頷いて同意を示す。
「アーサーくん。よぅく聞いて、そして理解したら今度はきちんと言葉で同意を返してくれたまえ。いつかこの国を手中に納めるキミ。――――私のことを、好きになってはいけないよ」
「……それは、どうして?」
 僕がマーリンへ初めて放った言葉はそんな冴えない疑問だった。けれども彼女は呆れるような素振りなんて露も見せなかったし、これだから子供はと侮る様子もなかった。僕という一個人に誠実に真正面から相対し、簡潔に補足する。
「私がキミの前からいなくなった後も、キミは強く生きていかなきゃならないからさ。……理解した?」
 聞き分けの悪い僕は、返事をしなかった。拒否として首を横に振りさえした。そもそもマーリンを一目見た瞬間から僕は彼女のことが大好きになっていたから、好きになってはいけないなんて、もう守れない約束だった。
 マーリンは薄い微笑みを浮かべていた。今なら分かるけど、彼女が終始貼り付けているこの笑みは優しさや慈愛からくるものではない。無感動から発生するただのテクスチャだ。
「……来年の今日、私はキミにもう一度同じ質問をするよ。その時にはきっと頷いて見せてね、アーサーくん」
 覚えているのはそこまでで、翌年の僕がどう返事をしたかは記憶にない。



 カルデアの使命は人理を取り戻すことで、大方のサーヴァントはその使命に協力する為に召喚を受けている。しかしアーサーが召喚を受けた理由は違った。あくまで自分の目的――獣を打ち滅ぼすこと――の為が第一であり、カルデアにいればその目的に最短でたどり着けると踏んだからに過ぎない。協力できることがあれば勿論協力する。けれどそれは義務感であり使命感ではない。故に、反抗的な態度を取る気はないが、積極的に関わろうという気もまたなかった。
 祖国を救済し、幾度かの聖杯戦争を潜り抜けた。そうしてやっとのことで辿り着いたアヴァロンで、彼女はいつもの調子で「残念でした」とアーサーを再度放り出した。そろそろやさぐれてもおかしくない状況なのに我ながらよくやっているとアーサーは自認している。

 彼――マーリンに会ったのは召喚を受けてからほんのすぐのことだった。カルデアの主要部を案内してくれるというマスターに従って歩いていると、よく響く、純正の鈴を振ったような笑い声が聞こえてきたのだ。
「……マスター、この声は?」
「多分、食堂から。これでカルデアの説明も全部終わりだよ。そこの角を右に曲がったところで……って、アーサー?!」
 教えてもらうなり、アーサーはマスターが指さした方向へと駆け出した。だってその笑い声はどう聞いても彼女の――マーリンの声だったのだ。『あんなことを言っていたけれど、彼女もカルデアに来てくれたんだ! なんだ優しいところもあるんじゃないか!』なんて、後から思えば絶対に有り得ないことをつい考えてしまったのだった。
 食堂ではサーヴァントたちが各々気兼ねの無い相手と固まって座っていた。その中に確かに、マーリンの後ろ姿を見つけた。一見して白色だけれど光の当たり方で輝き方を変える特徴的な虹色の髪が、確かにそこには座っていたのだ。
「マーリンっ!!」
 感極まって名を呼んだ。けれど虹色が振り返る動作を見せたその時には、アーサーはもう己の間違いに気付いていた。同じなのは髪の質感だけで、その人はどう見ても男性でしかない骨格をしていたのだ。
振り返った男は押し黙ったままアーサーを見つめる。いつかどこかで見たような顔だと、記憶を探っている様子だった。紫をベースにした男の瞳が彼女にそっくりだったから、これは男に化けたマーリンなのか、それとも全くの別人なのかと、アーサーはアーサーで暫く悩んだ。
「……お知り合いの方ですか、マーリン?」
 男の真向かいに座っていた少女が先に口を開いた。黒いリボンで金髪をまとめ、白百合のようなドレスをまとった彼女の声は、アーサーのよく知るマーリンに瓜二つだった。男は少女とアーサーを一度見比べると「ああ、」と得心がいったような声をあげる。
「そうか。……うん、知らないけれど、知り合いだ。すまなかったね『アーサー』、カルデアは『アルトリア』ばかり増えていくから、にわかにその可能性に思い至れなかった」
 前半は少女に向けて、後半はアーサーに向けてそう言うと、マーリンは席を立って深々と礼をした。右手を胸に当て、右足を引いたボウ・アンド・スクレープがあの日の彼女のカーテシーに重なる。
「――ご機嫌よう、そう在る可能性のアーサー・ペンドラゴン王。私はマーリン。人呼んで花の魔術師とは、言うまでもなかったかな? 気さくにマーリンと呼んで欲しい。堅苦しいのは苦手なんだ。……ということで早速一杯付き合って貰おうかな! アルトリア、悪いけど食後のデザートは一人で片づけておくれっ」
 マーリンは笑いながらアーサーの腕を捕まえて、ぐっと強引に引っ張った。こうして並んでみるとマーリンの背丈はアーサーよりも少し低いようだったけれど、とにかく腕力がやたら強い。半ば引き摺られるようにして、アーサーはよく分からない場所――階段を下ったので、地下だということだけは分かった――へと連れ込まれてしまったのだった。

 からんからん、と小気味いい音でドアベルが鳴った。薄暗くて多少狭い室内はカウンターで仕切られて、こちら側には椅子が何脚か置かれている。あちら側にはボトルがずらりと並べられた大きな棚があり、その前では口ひげを蓄えた初老の男性が静かにグラスを吹いていた。
……どう見ても、バーカウンターだった。
「いらっしゃい。久しぶりだネ」
 口振り、黒い長エプロン、青いネクタイという出で立ちからして、男性はこのバーのマスターなのだろう。なんでカルデアにこんな場所があるのかは、全く分からないけれど。
「潰れていなくてよかったよ。静かに話したい時はここに限る。マイルームは味気なくてさ」
 軽快な音楽が流れる中、マーリンは慣れた様子で着席して、アーサーに隣の椅子を勧めた。帰るとも言い出せず、とりあえず言われた通りに座る。
「一杯目はジントニックでいいかい? あ、お代は私が持つから気にしないで。キミがどういう経緯でここに至ったか、たっぷり聞かせてもらおうじゃないか」
 マーリンはにっこりと楽し気に笑った。月光のように美しい顔立ちは、笑うと途端に星屑のように可愛らしくなる。

 事のあらましを聞いたマーリンはあっはっは、と声をあげて笑ったわけだけど、その豪快な様子にアーサーは相当面食らった。口の中を見せて笑うだなんて、アーサーの知るマーリンであれば天地がひっくり返っても有り得ないことだった。
「ああ、面白かった!何というか……キミはきっと言葉以上の苦労をしてここに辿り着いたのだろうね」
「まず私が女性の時点で目に見えた地雷じゃないか。即日滅亡しなかっただけそっちのブリテンは凄い」などと言いながら、マーリンはまだ肩を震わせている。
「もう一杯奢るよ。マスター、ベルモントをふたつ」
 マーリンが気前よくリクエストすると、バーテンダーが顎を引いて小さく頷いた。布巾と空のグラスを置き、スタンドからシェイカーを取る。ちなみにベルモントのカクテル言葉は優しい慰めである。
「マーリン、私は酒はあまり……」
 こっそりと耳打ちする。マーリンにしか聞こえないように声は十分に低めたはずだったが、バーテンダーの耳にも届いてしまったようで、一度その手が止まる。
「まさか下戸ではないだろう?」
「人前で前後不覚に陥るのが嫌なんだよ。昔、色々あったから」
「あー……、そうか。うん。いいよ。この先は無理には勧めない。でももう一杯くらい構わないだろう? 大きなアルトリアは私の道楽には付き合ってくれないし、小さなアルトリアやマスターくんはこんなところ付き合わせられない。王様が相手じゃうるさい小言付きの酒になると決まりきっているし、飲酒もご無沙汰なんだよ」
「もう一杯くらいは構わないけれど……。別に、無理に人と吞まなくても一人で呑めばいいじゃないか」
 当たり前のことをアーサーが言うと、マーリンは目を見開き、驚いたような表情をした。
「私は他人の感情を摘むことで『味』を間借りしている。一人で飲食しても見た目と匂いと触感しか分からないのだけれど……。そちらのマーリンからはその辺の事情は聞かされていないのかい?」
 そう言われて気付いたが、そもそもアーサーはマーリンが飲み食いしているところを見たことがなかった。彼女は朝餉にも夕餉にも宴にも参加しなかったし、道端の木に成る果実をアーサーが捥いでも「ボクはいい。キミがお食べ」と言って受け取らなかった。炎天下の行軍であろうと喉の渇きを訴えることはなかったし、フードの下を覗き見ればいつだって汗ひとつ掻かずに涼しい顔をしていた。姿はここにあっても、常に別のどこかにいるみたいな女性だった。
「……聞かされてなかった」
「そちらの私は、私以上に秘密主義みたいだねぇ。黙すれば黙する程に神秘性は増すから、そういう狙いなのかな」
「……貴方はお喋りが好きなようだけれど、神秘性とやらは気にしないのか?」
「女性であれば視線ひとつで男はいくらでも付いてくるだろうけど、私の場合は好みの女の子がいたら口説かなくてはいけないからね。ある程度、口は回らないと」
「マーリン。そういう軽口は私には必要ない」
「えー……。やり辛いなぁ」
 マーリンががりがりと頭を掻いたタイミングでベルモントが差し出された。自分でカクテルをリクエストをした癖に『他人から間借りしているだけで、自分では味が分からない』からか、マーリンは自発的にはグラスを持たず、アーサーの挙動をじいっと窺っている。気にしていなかったけれど、きっと一杯目もこんな感じだったのだろう。昔可愛がっていた飼い犬のカヴァスも、アーサーが棒切れを持つと「取ってこい!」という命令と共にそれが投げられる瞬間を、こんな風にじっと待っていたっけ、なんて思い出して、少し笑いそうになる。
「とりあえず、頂こうか」
 提案して、アーサーはグラスに手を伸ばした。「そうだね」とにこやかに返事をして、マーリンも後に続く。すました顔をしているけれど、彼の頭上にぴんと立った犬耳の幻影を見た気がした。
 こちらのマーリンは何となく分かりやすいというか、親しみやすいな。
 と、マーリンの方に気を取られたからか。酒を口に入れたものの、アーサーはその味にまで気が回らなかった。舌があるので勿論甘辛い味わいは感じたけれど、ぼんやりと流れて行ってしまった。
「……あんまり味しなかったな。アーサー。キミ、もしかして味音痴? 喉の熱さの方がずっと強い。マスター、お冷くれる?」
 マーリンは実に失礼な感想を漏らしたが、バーテンダーは慣れっこなのか、特に何も言わなかった。

「――アルトリアは見た目が見た目だから、私もある程度物事に口を挟まないとならなかった。キミのように立派な風格を持った王であれば、ボクも口を噤んで、ただ後ろに控えていたかも知れない」
 バーテンダーがコップに氷と水を入れる音に紛れて、マーリンが微かに呟いた。しかし、それはアーサーに向けた言葉ではなく、もしかしたらただの独り言だったのかも知れなかった。



「……マーリン、何してるんだ?」
「見て分からないかい? キャスパリーグのぬいぐるみを作っているんだよ。本体は縫い終わるから、あとはケープをつけたら完成だ」
「いや、それは分かるんだけど……」
「ああ、訊いているのは作っている理由の方かい? 去年のバレンタインにマスターくんにこれをプレゼントしたら思いのほか気に入って貰えてね。今年も欲しいと言われたから、リクエストにお応えしてもう一個作ってるんだ」
 マスターくんが両手に嵌めて遊ぶわけじゃないだろうし、これは実質マシュ・キリエライトの分かなと思っているけれどね。
 そう付け加えるとマーリンは慣れた動作で針をくるくると回転させて、余った糸を犬歯で切った。
「随分器用なんだね」
「魔術師ってそういうものだろう? 予め作られている物にまじないを掛けることも多かったけれど、ボクはここぞという時にはまじないを込めながら必ず一から自分で作ったよ。意中の女の子へのプレゼントとかね」
 ちなみに、アーサーはマーリンが針を持っている姿なんて生前は一度も見たことが無い。
「そのぬいぐるみには、どんなまじないを?」
「アハハ。これはマスターくんへの応援を込めて、ただただ趣味で作っただけだとも」
 ゆるく微笑むマーリンの表情に嘘は感じられなかった。一瞬納得して会話を切り上げそうになったけれど――すぐに、それ以前の疑問が浮かんできた。
「いや、というか、そもそも何で自分の部屋じゃなくて僕の部屋でやってるんだ?!」
「え? ちょっとした気分転換だよ。自分の部屋だとうまく作業に集中出来ない時ってない?」
「僕は何事も自分の部屋の方が捗るけどな」
「キミはそういうタイプかも知れないね。ボクも基本的にはそうなんだけど、たまに雑音が欲しくなるんだよね」
「人の部屋を雑音扱いか……」
「おっと失言。でも要は刺激なんだよ、刺激。だからそう気を悪くしないでくれたまえ」

 盃を酌み交わすとぐっと気持ちが縮まる、というのはどこの世界であっても変わらないらしく(文化も歴史も相似しているがアーサーは本当に別世界からやってきているので、この表現は大げさではない)、あれからマーリンは割と気安くアーサーの部屋にやってくるようになった。マーリンの場合は部屋に来るというより、気付くと勝手に部屋に居る、の方が表現として正しいけれど。
 アーサーが人を避けているのはカルデアでも有名な話だが、マーリンは更にその上を行き、殆ど人目に触れない状態であるらしい。召喚されてすぐに彼と顔を合わせられた偶然は、実は結構な確率を超えてのことだったという。
「ボクを見ると苦虫を噛んだような顔をする人が多いからね」とマーリンが何でもないことみたいに語った時に、アーサーはうまく返答ができなかったが――とにかく。そんな非社交的な二人が一人称も崩して親しく会話を交わしているなんて、他の人々は知るはずもなかった。
 一応、アーサーはベディヴィエールとはそれなりにコミュニ―ケーションを取っている。忠義深い彼は朝、もしくは夜の七時過ぎに決まってアーサーの部屋を訪れて、必要な情報や起こった出来事を簡潔に伝えてくれる。勿論その対象はアーサーだけでなく、アーサー王と呼ばれた人全員である。カルデアでは結構な数になるし大変だと思うのだが、彼は全く苦にならないらしかった。
 夜の七時の訪問の場合だと、稀にマーリンはアーサーの部屋にいた。しかしベディヴィエールがドアの向こう側で名乗ると(彼は必ずノックして、名乗って、アーサーの返答を待ってからドアを開ける)マーリンは一瞬で姿を消し去ってしまう。
「知らない間柄じゃないんだし、顔くらい出せばいいのに」とアーサーが苦笑すると「この前ちょっとした負い目を作ってしまって、顔を合わせるのに少し覚悟が要るんだよ……でも出来れば彼には優しく接してやって欲しい……」と、しどろもどろになって答える。
 アーサーの世界のマーリンは人間を『良い声でさえずる小鳥』程度にしか考えていないようだったけれど、こちらのマーリンは人間の人格を認めた上で結構気を遣っているようだから不思議だった。
 
 マーリンはサイドテーブルに針箱を置いて椅子に座っていたので、アーサーはすぐ隣のベッドに腰掛け、ぬいぐるみを覗き込む。
「……妙にクオリティ高くないかい?」
「ふふ。つい本気を出してしまったよ。製品化、狙えると思うかい?」
「魔猫キャスパリーグを刺激するのは僕としてはやめてほしいよ。今は大分落ち着いたようだけど」
「アレも見事な猫被りをしたものだよねぇ、魔猫だけに」
 マーリンはぬいぐるみを手に嵌めるとアーサーの目の前に差し出して、前脚部分をぱたぱたと動かして見せた。
「ほらね。キスしたくなるような愛らしさだろう?」
 まるで挑発しているように聞こえたのはアーサーの記憶の問題だ。何たって以前は毎日こんな風に『マーリン』にからかわれていたのだから、彼女に重なってしまっても仕方なかった。アーサーの淡い恋心を知った上で、彼女はわざとこういう物言いをしてきた。そんな揶揄に対して幼い頃のアーサーはただ照れたり拗ねたりするしかなかった。次第に慣れたし、身長が彼女に並ぶようになった頃には強気に踏み出してみることもあったけれど、どの道マーリンはアーサーがどんな行動をしようと面白がってけらけら笑うだけだった。思い出して、少し切なくなる。
「本当だね――思わずキスしたくなる」
 アーサーはマーリンの手首を掴んだ。しっかりと筋肉のついた腕は、花の茎のように簡単に折れてしまいそうだった彼女のものとは全然違う。けれども不意をついたからか、引けばすんなりと寄せることが出来た。アーサーは目を伏せて、ぬいぐるみの鼻先――キャスパリーグを模した黒い三角ボタンにそっと唇を寄せた。プラスチックの硬い感触がする一方で、頬を掠めるフェイクファーはふわふわとくすぐったい。
「……そういうことするんだ、キミ」
「意外かい?」
「いや全然。むしろやりそう。しかも似合いすぎてて全く嫌味さも無い」
「それ、褒めてる? 貶してる?」
 アーサーは緩く微笑んだ。揶揄されるのではなくきちんと反応があることは、やっぱり嬉しかった。
「でもキミが口付けした物をマスターくんに贈るのは癪だから、上書きさせて貰おうかな」
 マーリンはそう言うとくるりと手首を返し、今しがたアーサーがキスしたばかりのそこに軽く口付けた。
 ……間接キスじゃないか、これ?
 意識した瞬間、アーサーの頬はかっと熱くなった。そして、こういう面白そうな変化をマーリンが見逃してくれるはずはない。にやりと笑う顔の邪悪さは、彼も彼女も全く同じだ。
「おやおや。こんな間接キスひとつで赤くなってしまうなんて、この王子様はまた随分と純粋なようだね」
「うるっさいな、放っておいてよ」
「あははは、そんな喋り方もするんだね、キミ」
「こんなぞんざいな喋り方、マーリンかケイ兄さんにしかしないよ! とにかく少し黙ってて」
「イエス、マジェスティ」
 片眼を瞑って恭しく口に指を当てて、マーリンはやっと押し黙った。

 たかが間接キスごときに動揺したわけではない。相手がマーリンだからこそこんなにも動揺したのだ。
 勿論、アーサーの世界のマーリンと、汎人類史のマーリンは別人だ。こちらのマーリンは男性で、あのマーリンよりも繊細で、何となく人間味があって、可愛らしいけれども同性で――。
 ……なんて考えてしまっている時点で手遅れなのだと、誰に言われるまでもなくアーサーも自ずと気付いた。



「マーリン。話があるから、今夜八時に君の部屋で待っていてほしい」
「え。王にご足労頂くなんて心苦しいな。そういうことならボクがキミの部屋に行くよ」
「…………。そういうの今はいいから、とにかく絶対に居て」
「……まあ、別にいいけどさ……」
 アーサーの真剣な表情、それから提示を譲らなかった二点から見るに――これは愛の告白だな、とマーリンは既に読み切っていた。
 こんな日がその内来るかも知れないと何となく予期はしていた。千里眼なんて大層なものを使ったわけじゃない。読んだのは未来ではなくアーサーの感情、『好意』の変移だ。
 最初の内はアーサーはマーリンを『あちらのマーリン』と混同しているだけだった。心の中で密かにマーリンと『彼女』を比べ、同じところや違うところを見つけては一喜一憂していた。別に不快感はなかった。マーリンの方だって、彼とアルトリアを心の中でひっそり比べては、ニヤニヤとほくそ笑んでいたからだ。
 しかし秤の重りを右から左へ一つずつ動かすみたいに、アーサーの方は少しずつ感情の軸がずれていった。そもそもマーリンとアルトリアのように、アーサーと『彼女』も多分愛し合っていたわけではないのだ(『彼女』がマーリンと同じ精神構造をしているなら当然とも言える)。『彼女』のことは諦めたけど、その後で似たような雰囲気を持ったマーリンが現れたものだから、結果としてこうなった。筋道としてはそういうことなのだ。
 だからといって別にマーリンは何もしなかった。異世界存在とはいえ、彼は一応は勝手知ったるアーサー王だ。アーサー王であるならば常に分別のある行動をするという前提で、アーサーのことを見ていた。予期はしていたものの、まさかこんな行動に出るなんて思いもしなかったのだ。

 英国紳士の礼儀として、午後八時からきっかり五分遅れてアーサーはやってきた。鍵は開けておいたけど、彼にドアなんて開けさせるわけにはいかない。ノックの音を聞くとマーリンは「少しだけ待って」と一声かけて駆け寄り、カルデア式の半自動扉を開ける。
 まず見えたのは真っ白いバラの花束だ。物資不足のカルデアだから両手いっぱいのとはいかないが、それでも花束として成立する本数の白バラが紫色のリボンでひとつに纏められていた。
 視線を上げると、アーサーの緊張した面持ちがそこにあった。服装は白のタキシード。清廉な衣装は彼にとてもよく似合っているが――情報処理が追いつかなくてぼうっとしていると「……とりあえず入れてくれる?」と潜めた声で言われてしまった。慌てて一歩後ろに下がる。流石の彼も、この出で立ちでここまでやってくるのは恥ずかしかったらしい。
「アーサー、その格好って……」
「え、どこか変? ベディヴィエールに整えてもらったから、おかしなところはない筈だけど」
 ベディヴィエールも巻き込んでいるのかと心の中で突っ込む。
「作法としてはおかしくないけど、TPOとしておかしくないかい?」
「おかしくなんてない。カルデアではこれが僕の一番の正装なんだから」
「成程。それほどの要件があってここに来たってことだよね」
「そうだよ。……マーリン。今日は君に告白しに来た。僕は君が、君として好きだ。先に言っておくけど『僕の世界』のマーリンは切っ掛けではあったけど、今のこの気持ちには関係ない。キスとか褥事とかそういうことじゃな……いや、そういうことも出来たら嬉しいんだけど……とにかく今は、僕のこの気持ちを君が赦してくれたら嬉しい。ただそれだけでいいんだ」
 アーサーは花束を持ち変えると、機敏な動作で跪いた。マーリンへと白バラを手向ける格好だ。気持ちを赦してもらうだけでこの騒ぎか。こんな古風な告白、今の時代では笑い飛ばされて然るべきだが――彼がやるとバッチリ決まってしまうから、とてもズルい。
「……ボクが断ったら、キミはこの花束をどうするわけ?」
「元々はただの魔力だから、リソースに戻すけど」
「そこは冷静なんだね」
 思わず少し笑ってしまった。マーリンへの淡い想いを秘め続け、最後の最後に告白した彼女を思い出す。少女らしいあの繊細さに比べて、彼のこの豪胆さはどうなんだ。
 ……アーサーは、僕の知るアーサー王ではないんだ。
 そう実感した時に、心のどこかで何かがするりと解けた。もしかしてアーサーも、マーリンに対してこの感情の動きを味わったのだろうか。
 その上で。他ならぬ彼自身がこう言ってるんだし、ちょっとくらいお遊びに付き合ってあげてもいいんじゃない? と、マーリンは悪戯げににこりと笑った。
「よし、いいとも! 汎人類史のグランドキャスターである花の魔術師、このマーリンお兄さんが、異世界のアーサー王であるキミの望み通り――――セフレになってあげようじゃないかっ!!」
「……え。いや、ちょっと待ってくれマーリン、僕はそんなこと望んでないけど?!?!?!」
「あれ、違った? セックス出来たら嬉しいって言ってなかったっけ?」
「そんな言い方してないし、大事なのはその後だから! 全くこれだから『マーリン』は……。もう一回じっくり聞かせるから、あそこの椅子に座って」
「ええ……。なんかこれ、告白じゃなくてお説教みたいなんだけど……」

 ――前途は多難である。

dustbunny
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