Walked Alone 重たい手足を引き擦って一人歩く。剣なんて本当は投げ捨ててしまいたいがそうもいかない。それはこの剣が聖剣だから、なんて崇高な精神からではない。今しがた壊滅させてきた群盗共の残党が追いついてきて背後からアーサーを襲うのではないかという恐怖からだった。 もつれそうな足取りで、それでも何度も振り返って背後に誰もいないことを確認した。震える手で、聖剣の柄を何度も強く握り直す。今無事でいるのはこの聖剣のお陰だという気がした。だから万が一剣を取り落としたらその瞬間に悪いことが起こりそうで怖かった。きちんと剣帯に納めてあるにも関わらず、どうしても剣の柄を握らずにいられなかった。 これが凡庸な剣であったなら、とっくに放り投げて駆け出している。 ◇ 事が済んだらここで落ち合おうとマーリンから指定された湖は、しんと静まり返って清らかに透き通っていた。 ――ここでは、悪いことなんて絶対に起こらない。不思議な確信が胸にこみ上げてきて、アーサーはやっと柄から手を離した。とはいえ指がすっかり強張ってしまっていたので、もう片方の手で指を一本一本剥がしてやる必要があった。 聖剣を剣帯から鞘ごと引き抜いて、草の上に放る。聖なる守護はこのくらいで消失するようなものではないけれど、少しだけ体が重たくなったように感じた。でも、その鈍い感覚によって「まだ生きているんだ」と心の底から実感出来た。 生を実感すると急に喉が渇き、湖に駆け寄った。両の手を浸すとあちこちで傷が沁みたが、構わず水を掬って口に運ぶ。……鉄と泥の味がきつい。その上、口に入り込んでいた砂粒がじゃりついた。一口目は草地に吐き捨てて、二口目からは無我夢中で流し込んだ。冷たくて、透明な味がして、安心して、泣きたくなった。でもそれよりも先に吐き気がこみ上げて嘔吐した。何もかも限界だった。どの道、胃の中には何もなかったらしく、今しがた飲んだ水を戻して終わった。胃酸で喉奥が焼けて熱い。 「――おかえりアーサー。……うんうん、腕も脚もちゃんと全部ついてるね。えらいよ」 先程アーサーが放り投げたカリバーンを小脇に抱えて、いつの間にか現れたマーリンがぱちぱちと両手を打ち鳴らした。普通に考えればそれは労りの言葉だが、彼女によって賊のねぐらに放り込まれたアーサーには嫌味にしか聞こえない。 「僕の実力だけで戦ったなら帰って来られなかった。無事だったのはカリバーンのお陰だ」 「聖剣の加護が得られるのは、それ自体がキミの力のひとつだとも」 「とにかくだ。剣一振りだけ持たせて敵地に放り込むなんて真似、もう二度とやめてほしい」 アーサーが強く睨むと、マーリンは幼い少女が拗ねるみたいに唇を尖らせた。 「アーサー。見ての通り、ボクは杖より重い物なんて持ったことがない華奢で可憐な魔術師のお姉さんなんだよ? もしも剣の心得があったなら、そりゃあ喜んで稽古をつけてあげたさ。でも、ボクじゃキミを鍛えてあげられないんだもの」 見ての通りも何も今手に剣を持ってるじゃないか、と言えるだけの余裕はなかった。それにマーリンの杖を持たせてもらったことはないけれど、地を突く時の鈍い音から察するに、あれは多分手頃な剣と変わらないくらい重い。 「…………ひとでなし女」 思わず口を衝いたのはありきたりな悪たれ口だった。この先、敵味方問わず数多くの者が同じように彼女を罵倒する。マーリンはいつだって微笑んで、左から右へ聞き流す。 けれど、この時は。彼女は驚いたように目を見開き、何か言いたげに口を半開きにして……でも結局何も言わず唇を引き結んだ。そんなことはアーサーが知る限り初めてだった。まるで困惑しているような面持ちで小首を傾げると、マーリンはぎこちない動作で手を胸に当てた。そして静かに目を伏せた後で、やっぱり今のは何かの間違いだったとでも言うかのように、元通りの微笑を浮かべた。彼女が目を伏せていたのはほんの数瞬の間だけだったけど、もしかして泣き出すんじゃないかとアーサーは気が気ではなかった。 マーリンを傷つけた。そう自覚したアーサーの全身にどっと冷や汗が吹き出した。マーリン自身は恐らく上手く自覚出来ていない。でも今確かに、僕は彼女を傷つけた。 「……そろそろキミも、レディへの接し方ってものを学習した方がいいね」 マーリンはいつもの調子で、歌うように呟いた。人間との接し方を学習するべきなのはどう考えても彼女の方なのに、あんなものを見せられてはにわかに言葉を返せない。ずるい、とアーサーは心の中で呻く。 「……女性への接し方なら弁えてるつもりだよ。マーリンがそこに含まれてないだけで」 「それはボクが妖精だから? それとも心がないから?」 「どっちも違う。単にマーリンだからだ」 「やだな、そんな風に特別扱いされたら嬉しくなってしまうじゃないか」 軽口を叩くと、マーリンはすとんと腰を下ろしてアーサーの顔を覗き込んできた。昔はこうされると彼女の美しさに圧倒されてつい目を逸らしてしまっていたが、今は彼女の紫色の瞳をしっかり見返すことが出来る。……見惚れないように常に気を張っていなくてはならないけど。 「何故キミはボクに対して背反するような言語活動を行うのかな? 反抗期とは養育者に向けて行う心理的な離乳行為だろう?」 「養育者ってエクターのこと? 居候が家主に反抗なんか出来るもんか。彼は模範的な騎士だから反抗する要素もないし」 「成程。だからボクで代償行動をしているんだね」 「違うよ」 「そうなのかい?」 「これはちゃんと筋の通った主張だから、反抗期なんて言葉で片づけないで」 出来るだけ低い声色で厳しく言いつけたが、知らん顔でマーリンはふんわりと笑う。 「ちょっと前までお乳を飲んでたのに、賢い口が利けるようになったものだね」 「一体いつの話をしてるんだよっ! 赤ん坊が母乳を飲むのは当たり前だし、べ、別にマーリンが飲ませてたわけでもない癖にそんな……」 「――え?」 思ってもみないタイミングで口を挟まれ、アーサーは凍りついた。唇の端を引き攣らせながら言葉を絞り出す。 「…………飲ませてない、よね?」 「覚えていないの? アーサーったら、ひどいな」 嘘だろう!!!! という衝撃が先に立ったので、赤ん坊の頃の記憶なんてあるわけないだろ! という当たり前すぎる突っ込みは消し飛んだ。恥じらうような仕草でマーリンがカリバーンをぎゅうっと胸に抱き込むと、鞘が谷間に食い込んで彼女の乳房の形を柔らかく強調する。絶対分かってやってる。そう理解しているのに目が吸い寄せられた。マーリンの胸は服を着ていると体格と相俟って小振りに見えるけど、脱ぐと結構すごいことをアーサーは知っている(マーリンは裸を恥ずかしがらないからセミヌードくらいなら割としょっちゅう見られる)。 「――――というのは勿論冗談だけどね。さて、そろそろ街へ戻ろうか」 「マーリンっっ!!!!」 明るく愉し気に笑って、マーリンがすっくと立ち上がった。ほら、重いんだからこれ早く持ってよと言って、カリバーンを片手でぞんざいに差し出してくる。 からかわれるのは悔しい。けれど、いつも通りのマーリンに、アーサーはどうしようもなく、本当にどうしようもなく、ほっとしたのだった。 |