01.黒猫の邂逅

 今日は本当にツイていない。相澤はそう心の中で嘆きゴーグルの下でひっそりと目を細めた。他の現場で酷使したばかりだというのに、風の強い屋上でビル風に煽られながら男を睨みつける目は、瞬きをする度に瞼が眼球を擦るような嫌な痛みを訴えている。だというのに断崖を背にした男は震える女の喉元に包丁をひたりと押し当てたまま、目薬を点す時間すら与えてくれなさそうに、忙しなくビルの縁を歩き回っていた。

「テメェら近寄んじゃねェ!飛ぶからな!それ以上近寄ったらコイツ道連れにして飛んでやる!」

 がなり立てる男の耳障りな声を聞きながら、相澤は舌打ちを一つして少しでも風を防ごうとゴーグルを下した。見ず知らずの女性に付きまとい包丁をチラつかせて交際を迫り、断られた腹いせなのか命を楯にして心中の脅しをかける男の気持ちは全くわかってやれそうにもない。男の個性がまだわからないということもあり迂闊に手が出せない緊迫した状態は、相澤がこの現場にきてから数十分は続いていた。

「おいやめろ!」

 一際強い風に思わず瞼を閉じたその一瞬、悲痛な声が相澤の耳をついた。上げた視線の先にはふわり、と風に舞いまるで飛んでいるかのような女性の姿。説得に当たっていたヒーローに取り押さえられる直前、男が断崖から突き飛ばしたらしい。女性は長い髪を揺蕩わせながら絶望の表情を浮かべたまま、10mは下にあろうかという地面に落ちていくところだった。

 もとより自分は飛び降りるつもり等なかったのだろう、下卑た笑いを浮かべる男を横目に駆け出した相澤は、首に巻いていた捕縛布を女性の元に伸ばした。掌を擦る少し硬いそれは、あと一歩で女性に届くかというところでその動きを止めた。あとほんの少しだけ長さが足りないのだ。

「チッ」

 直前の現場で捕縛布を思った以上に消費してしまっていたらしく、そんなことにすら思い至らなかった自分に舌打ちをして、相澤は屋上のひび割れたアスファルトを蹴って駆け出した。飛び降りてどこかに捕縛布をかければなんとか間に合うだろう。靡いて落ちてゆく女性の髪が視界から消えようとしたその時、相澤の視界の端、胡桃色の何かをはためかせながら、黒い影のようなものが女性の後を追って飛び降りた。猫を思わせるしなやかな動きのそれは飛び降りる直前「お借りします!」と叫んでいたように思う。

 するりと胡桃色の帯を後に引き、ビルの谷間を滑空したそれの後を目で追った相澤は、何を借りると言われたのかそこで初めて認識した。アレが落ちて行った先に自らの捕縛布がするすると引きずり込まれていく姿を見て、掌を焼きながら落ちてゆくそれを両の手で握り締め、体に巻きつけて傍らにあった点検窓の段差に足をかけた。

 一瞬の後、手の中で棒のようになった捕縛布の感触と共に、巻きつけた捕縛布ごと全身を引き絞るようなガツンという衝撃が身体を襲う。相澤はギシリと嫌な音を立てる骨に奥歯を食いしばりながらその衝撃を耐えた。おそらく間に合ったのだろう。落下の衝撃をやり過ごし、人二人分ほどの重さを取り戻したそれを腕に感じて、一人ほっと息をついた。

「急にごめんなさい、助かりました」

 少し遅れてばらばらと集まってきた警官やヒーローの手を借りながら引き上げた捕縛布の先、震える女性を腕に抱いていたソレは開口一番あっけらかんとそう言って、人懐こそうな笑顔を見せた。捕縛布を掴んでの無謀なバンジージャンプをやってのけたその人物は、幾分か相澤より年若い女性で、軍兵を思わせる飾り気のない姿をしていた。背にかかるほど長い胡桃色の髪を無造作に伸ばしているその姿はどこか野性味を帯びていて、先ほどの動きの印象も相まってか、まるで大きな長毛の猫のようだ。切れ長の目を瞬かせた彼女が無邪気に礼を言う姿は、今日会ったばかりの人物を命綱にバンジージャンプをやった後とは思えぬ程朗らかで少し腹立たしい程だ。

「なんとかなったから良かったが、もうちょっと考えたほうがいい」

 ぱちぱちと黒い瞳を瞬かせた彼女は、まさか注意されるとは思っていなかったらしい。バツが悪そうに笑って素直に「はい」と返事をすると、捕縛布を絡ませていた痕なのだろう赤黒くなった右手を差し出して相澤の手を握った。

「貴方なら支えきれると思って。ごめんなさい。ありがとう」

 万が一ダメならそれはそれで一応手は打ったけれど。と言う彼女を前に、今度は相澤が目を瞬かせる番だった。何故そんなに出会ったばかりの相手を信じられるのかわからなかったからだ。呑気なのか豪胆なのかわからないが、少しだけバツの悪そうな顔をした彼女の手を握り返すとあまりにも嬉しそうに笑うものだから、内心うんざりとため息をついてしまう。

「イレイザーヘッドですよね?」

 彼女は相澤が名乗る前に、彼のヒーローネームを口に出した。メディアに露出がないためまさか知っているとは思わず、一瞬口ごもった男を前に、彼女はぱたぱたと手を振って己の胸に手を当てると、仲間を見つけたような嬉しそうな顔で相澤を見上げた。

「私も同じ穴の貉でして。アングラ仲間ってやつです」

「ああ、道理で…」

 黒い軍用ジャケットに防弾チョッキのようなベストを合わせ、すらりと伸びた脚には体に合った細身のライダースパンツ。踵の無いブーツを合わせたその姿は、近くで見さえすれば女性らしいなだらかなラインを描いているものの、世間一般に見る華やかな女性ヒーローとは一線を画している。

「あんまりヒーローっぽくない。でしょう?」

 見るからにメディア受けしなさそうなその姿を無遠慮にまじまじと見ていると、ニヤリと笑って彼女がそう口に出した。ヒーローっぽくないのはお互い様とでも言いたい口調につられて相澤の口の端が上がった。赤い痕を残した手以外は一切露出の無いその姿は、ヒーローというよりはSWATにも見えて、警察関係者だというほうがしっくりくる。

「腕は大丈夫か」

「腕?」

「ああ。皮が剥けて痕になってる」

 きょとんとした顔の彼女に、先ほど握手を交わした手を指差してやると、今初めて痕に気づいたらしい。うわぁなどと小さく声をあげながらジャケットをまくり上げて、腕まで伸びた捕縛布の赤い痕を指でなぞっては、暫く捻ったりして手の様子を確かめていた。

「骨や筋に影響はなさそう。大丈夫です」

「痕にはなるだろ」

「傷跡ぐらいよくあることですから、これで人ひとり助けられたなら安いもんですよ」

 年若い女性なら多少は気にするだろうと思って言った言葉も、もともと気にしない性質なのかあっけらかんと言ってのける彼女は、どうやら根っからのヒーローなのだろう。

「次があるとは思えないが、ああいう事をやるんだったらスーツに手袋はつけて貰え」

 話は終わりだとばかりに口を噤んだ相澤を見て、何故か彼女は酷く嬉しそうに笑って「はい」とまた素直に返事をした。何が嬉しいのかもよくわからぬまま彼女に背を向けると、丁度実況見分が行われるところだったらしい。声をかけてきた年若い刑事に連れられ、それきり彼女の名前すらわからぬまま、相澤はその場を後にしたのだった。

「お前さんにってお礼の品が届いてるよ」

 事務所の先輩が何やらもごもごと口を動かしながら相澤に声をかけたのは、それから数日後のことだった。デパートの物らしい綺麗な箱に収まった焼き菓子を目の前に突き出され、まったくもって思い至らなかった相澤は焼き菓子を手に取らず、送り主の書かれていただろう包み紙を探した。ゴミ箱にくしゃくしゃになって捨てられた送り状には、女性らしい細い線で名が書かれていたが全く見覚えがない。

「礼状も入ってた。新人助けたんだって?意外と面倒見良いよなお前」

「ああ、あのバンジージャンプの」

「お前を命綱代わりにしたことの詫びと礼が書いてあるぜ」

 ひらりと渡された礼状は既にデリカシーの無い先輩らが開封したらしく、相澤は焼き菓子を一つ摘まんで口に放り込みながら礼状を読んだ。どうやら事務所を通して送られてきたらしいそれには、彼女のヒーロー名も書き添えられていたが、やはり全く見覚えはなかった。手元の端末を使ってヒーローネットワークを調べてみると、どうやらデビューしたての新人らしい。退役軍人だという経歴は目を引いたが、それ以外は特に目を引くところもない、何故アングラヒーローになったのかもわからぬ普通の人間だ。

「個性は“霧”ねぇ、隠密行動には使えるけど、経歴なんかも含めて見るに、荒事専門って感じだな。綺麗な女の子なのにな」

「ヒーローに男も女も無いでしょう」

 表示していたウィンドウがグレーアウトし、事務所に入ったらしい出動依頼のポップアップが表示されたのは、そう返事をした時だった。場所はどうやらこの近く、今度は自殺しようとしている女性が騒いでいるらしい。個性の相性的に自分よりもソファでくつろぐこの先輩のほうが、と思いちらりと視線を向けて見たが、行ってこいと菓子を咀嚼するばかりで腰を上げようともしない。事務所に世話になって数年経っているとはいえ、未だ新人扱いされることに相澤はひっそりとため息をついた。

「放っておいてよ!私が飛び降りたって誰にも迷惑かけないでしょう?!」

 現場に到着した相澤が抱いた感想は「またか」だった。ヒステリックに金切声をあげる女性がフェンスの向こうで、今にも飛び降りようと身を乗り出していた。今度は厄介な包丁持ちの男というオマケは居ないが、フェンスが邪魔ですぐに拘束できそうにもない。話を聞きながら近寄って、必要に応じて拘束したほうがいいだろうと判断し、女性に向けて一歩足を進めた。

「近寄らないで!」

「放っておくわけにもいかんので…、話を聞かせてもらえませんか」

「男になんて頼まれても話さないわよ…どいつもこいつも…男なんて…!」

「はぁ…そうですか」

 取りつくしまもない女性の様子に、相澤は頭を掻いた。ぶつぶつ言う言葉を漏れ聞くに、またどうやら色恋沙汰らしいが興奮状態が治まらないとどうにもなりそうもない。一般人相手に無理矢理拘束することも気が咎め、なんとか話を聞く術はないものかと思案していたところ、何かが相澤の袖をつんつんと引いた。

「あの、女なら大丈夫だと思うので話を聞いてきます」

 かけられた声に目を落とすと、見覚えのある黒い瞳がこちらを見上げていた。

「ケットシー…」

「お菓子、届いたんですね」

 彼女のヒーローネームを口に出すと、意外そうに目を瞬かせた彼女が子供のように微笑んで、指先が出た黒いグローブをはめた手を差し出した。

「説得はしてみますが、念のためにまた貸して貰えますか」

 グローブもしているので、という彼女に、相澤は捕縛布の端を渡した。フェンスが邪魔で自分が捕縛しようとすると手荒になってしまうことを考えたら、そうしておくのが最善策だろうと思えたからだ。

「今回もやるのか」

「必要があれば」

 悪戯っぽい顔で言った彼女に溜息をつくと、相澤は飛び降りをしようとしている女性に背を向け、ビル風を防ぐためにゴーグルを下げた。女性が何か個性を使う可能性を考えると念のために見られるようにしておいたほうがいいだろう。ゴウンゴウンと音を立てる空冷チラーのファンをさけるようにして手を置き、ギシギシと衝撃に耐えられそうか力をかけて確認をする。

「どうして飛び降りなんてしようとしてるの?」

 胡桃色の髪をなびかせながら、女性に向かっていく彼女の背を眺めながら、相澤は空冷チラーに片足をかける。じわじわと増えるギャラリーの中、人の声がさわさわとさざめき、まるで波の音のようだ。そんな中彼女の落ち着いた声は不思議とよく通った。

 こちらをちらりと振り返った彼女に頷いてやると、彼女は悠然と微笑んで、もうこちらを振り返ることなく女性に向かって歩を進めていく。彼女と自分の間に伸びる捕縛布がするすると地面を這う音を聞きながら、彼女の小さな背に、苛立ちに似た不可思議な胸のざわめきを覚えて力の入った相澤の足の下、空冷チラーが、ギシ、と音を立てた。