なんでも元々八百万界とは違う場所で暮らしていたという独神は、こちらの世界のことを知らない代わりに色々なことを知っていた。
普段気にならないような些細なことが起こる理由、色々な料理の作り方。
その中でも、英傑の興味を引いたのは、独神の知る『物語』だった。
子供向けの寝物語にするような話もあれば、ぞっとするような話も、胸が苦しくなるような話もあった。独神が物語のすべてを事細かに覚えているわけではなかったが、起承転結程度の枠組みはしっかりと記憶していて、面白い部分は押さえている。
それを聞いたゼアミやシバエモンが目を輝かせて台本に使いたいという程度には、皆ここではないどこかで語られた物語に心を奪われていた。


中でも、反響があったのは『人魚姫』という話だった。
海に住まう地上に憧れる人魚姫は、ある日船が沈没してしまった王子様の命を救ってやる。その時に姫は王子に恋をするのだが、人魚姫と王子は住む世界が違う。再会さえ叶わない。
だが、人魚姫は自分の美しい声と引き換えに魔女と取引をして再び王子と会おうとする。
恋が成就しなければ海の泡となり消えるという代償まで支払って。
一度助けただけの王子に恋をしたがために。
しかし王子は人魚姫のことを覚えてはいない。それどころか別の女を選ぶ始末。
唯一彼の覚えていた声を、どういうわけかその女が手にしていたからだ。
嘆き悲しんだ人魚姫に、彼女の姉は短刀を差し出し、こう告げる。
「王子を殺せば、あなたは消えずに済む。これで王子の胸を刺すのよ」
哀れな人魚姫はついに王子を殺すことは出来なかった。
そして最後に海へと飛び込み、泡となり還るのだ。


なんて馬鹿らしい話だろう、とシュテンドウジは思った。
そんな恩知らずなやつは迷わず殺すべきだったのだ。だってこのままでは自分の欲しかったものが他人に取られた挙句泣き寝入りだ。そんなの間抜けのすることだろう、と。
こんな愚かな話は聞いたことがない。シュテンドウジはこの話が嫌いだった。別の女を選んだ王子も気に食わなければ、泣き寝入りした人魚姫にも共感が出来ない。何一つ理解できない。
だけれど多分この話を語った独神が人魚姫だったとしたら、きっと王子のことを殺せないのだろうなという確信はあった。






それは唐突に起こった。
予期せぬ悪霊の襲来、囲まれた第一部隊と独神。その中には運悪く素早い英傑はおらず、文字通り血で血を洗う、少なくとも争いごとに慣れぬ独神に見せられたものではない戦いが繰り広げられた。
独神に手が伸びる前に第二部隊・第三部隊が合流したが第一部隊の受けた被害は甚大なもので、部隊に配置されたもののうち、半数以上が瀕死の重傷を負い、他の英傑達が合流したときには血だまりの中で倒れていた。ぎりぎりのところで治療が間に合い、昇天はせずに済んだものの、一番被害を受けたのは独神だった。
目の前で繰り広げられた惨劇に耐え切れず、記憶を失ってしまったのだ。
「あの……ここはどこですか……?」とどこか怯えた様子で喋る独神の姿は記憶に新しい。悪い冗談と笑い飛ばすには、誰の名前も呼ばない独神は悲痛過ぎた。
独神の語る元の世界は、様々な娯楽があったけれど、血生臭い現実味のあるものなんて一つだってなかったことに、その時英傑達は気付いた。独神は荒事に本当になれていなかったのだと。
記憶を失ってしまった独神だが、当然そのままにしておくわけにはいかない。
幸いにもカァくんには心を開いていたため、まずはカァくんから事情を説明させ、そして普段通りとはいかないでも普段と近い生活をしてもらうことになった。



一番最初に独神を助けたのはシュテンドウジである。いや、攫ったのもシュテンドウジだし、モモタロウが斬りかかってきた理由もほぼシュテンドウジであるのだけれど。

「あっ……ええ、と。シュテンドウジ……さん」

執務室へと遠征の報告にやってくれば、怯えたようにそう言われる。
記憶を失ってから、独神は一部の英傑をひどく怖がるようになった。一目で人とは違うと分かるモノ、すなわち妖族、もっというのであれば鬼で。特に顔つきが怖いシュテンドウジのことなど殊更に恐ろしいようだった。

「シュテンで良いって言っただろ。……今回の報告だ」
「は、はい。ありがとうございます……」
「敬語もいらねェ」

挙動不審になりながらも、独神はシュテンドウジの報告を聞き逃すまいとしている。その怯えた様子を責めてやりたくなるときは何度もあった。


元々、シュテンドウジは遠征部隊にまわされてはいない。むしろ討伐部隊の大将を任されていたし、もっというのであればお伽番もしていた。
その時の独神は「シュテンに頼ってばっかりで申し訳ないなぁ。ごめんね」なんて言いつつも、シュテンドウジがその役目を喜んで引き受けていることを知っているようで、外そうとはしなかった。それを少し気恥ずかしく思いながらも純粋に嬉しかったことを、シュテンドウジは覚えている。
けれど、今はそうではない。
独神が記憶喪失になったばかりの頃、当然普段通りにシュテンドウジはお伽番として侍ろうとしたのだが、独神は彼を怖がって、近寄ることができなかったのだ。
ふざけやがってと怒鳴りたくもなるが、小さく謝罪の言葉を繰り返しながら体を震わせられてはもう詰る言葉もでてこない。そこにあったのは「ああ、こいつも」という諦め。
誰に「降りろ」と言われる前に自分から「やってられるか」とお伽番を放り出したのは最後の矜持だったようにシュテンドウジは思う。
一番に出会って、一番に助けてやって、自慢ではないが一番長く一緒にいた自負もある。
けれど今はどうだろうか?悪鬼である自分は一番遠くに追いやられているではないか。


シュテンドウジが報告を終える前に、今のお伽番を務める英傑が執務室へと戻ってくる。
そいつが戻ってきたのが嬉しいのか、それともシュテンドウジと二人きりでなくなったのが嬉しいのか、独神の表情と気が緩んだのをシュテンドウジは見逃さなかった。見逃せなかった。
大したことがあったわけではない。必要なことは告げ終わったシュテンドウジは早々にその場を去ろうとする。
どうしてか、頭には前に独神の語った『人魚姫』が浮かんでいた。





「シュテンドウジ様、こんなのはおかしい。どうしてシュテンドウジ様がお伽番を止めさせられなきゃいけないんだ。オレは納得ができない。頭に直談判してくる」
「落ち着けイバラキ。やめとけ」

憤るイバラキドウジを止めるのも、今に始まったことではない。
独神が記憶を失ってからこのやりとりは幾度となく繰り返されている。

「いいか?今頭は鬼のやつらを怖がってる。そんな状態で、おまえが強請ってみろ。更に怖がられて遠ざけられるのがオチだ。逆効果にしかならねェよ」
「でも……」

文句を言うのが許されるのであれば、シュテンドウジだっていくらでも恨み言を言いたい気持ちはあった。けれど結局のところ独神は悪くない。独神だって好き好んで記憶を失ったわけではないのだから。元々平穏育ちの独神が血なまぐさい戦場、それも親しい仲間が生きているか死んでいるか分からないような重傷を受けるような場面、を目にしても平然としていろという方が無理な話だろう。
分かっている。シュテンドウジも分かっている。そしてこうして何度も抗議しようとするイバラキドウジだって分かっていた。

「それに頭だってそのうち思い出すだろ。そしたら酒でも強請ればいい。きっと数日浴びるほど飲めるぜ」

そうやって言った軽口は自分で言っておいて、シュテンドウジにはとても白々しく聞こえた。






『人魚姫』の話をシュテンドウジは思い出した。
声を奪われた人魚姫、人魚姫を恩人とは気付かずに別の女と結ばれる愚かな王子。


「もしかして、私が一番最初に出会ったのって、あなただったりするの……?」


遠征の報告をしようと執務室へ入ろうとした時、不意にそんな会話が聞こえた。
背筋が凍る。脳が煮える。身体中の血液が逆流しているようだ。
今独神はなんと言った?今お伽番を務めているあいつが一番最初に出会った相手?
そんなこと、あるわけないだろう。その場所はおれのものだ。


「最近、八百万界にきたばかりのことを思い出して。その時に出会った相手の顔は思い出せないけれど、とても優しかったから」


違う!違う!違う!その思い出はおれのものだ。そいつのものじゃあない!
一時傍を離れることは許したが、その場所をそいつにくれてやることを認めたわけじゃない。
シュテンドウジは執務室へ殴りこもうとして、腕から力が抜けるのを感じた。


『これ以上頭との思い出を奪われるのは許せない。頭が思い出さないというのなら、おれをなかったことにするのなら、ここで殺すべきだ』


泣き叫ぶ独神を前に、教えてやるべきだ。おまえが忘れた存在は誰か。ずっとそばにいてやったのは誰か。それで泣いて許しを請わせるべきだ。
そう自分の凶暴な部分が叫ぶ。けれどどうしてもシュテンドウジには執務室へ殴りこむことはできなかったし、独神に危害を加えるなんて以ての外。
そんな恩知らずなやつ殺すべきだ。泣き寝入りなんてバカのすることだ。
『人魚姫』の話を聞かされた時の自分の感想が、自分の背を押そうとする。
だが、最後までシュテンドウジの手が扉を開けることはなかった。
執務室の扉から手が離れ、これ以上の話を聞く前にシュテンドウジはその場から引き上げる。どうせこのまま放っておいたら、お伽番であるあいつが勝手に聞きに来るだろう。



『人魚姫』の話をシュテンドウジは思い返す。
本当にバカな話だ。やはりこんな話は好きになれるわけがない。



シュテンドウジにも独神王子を殺すことはできそうにない。


10/24 人魚姫