『人魚姫』という話を知っているだろうか。
地上に憧れる人魚姫が偶然死にかけている王子様を助け、恋をする話。
その恋のために彼女は自らの声を捨て、海での穏やかな生活を捨て、未来を掛けて王子様に会いに行く。
だが、現実というものは残酷で、人魚姫の恋は実らない。
自らが助かるために王子を殺すこともできず、結局彼女は泡になる。

「馬鹿じゃねェの。こんなの泣き寝入りだろ。せめて王子の顔でも一発張ってやりゃあ良かったじゃねェか」

話を黙って聞いていた彼は、他の英傑がいなくなってからそう零す。

「負けを認めて黙って身を引くくらいなら、相手の女を殺しちまうか王子を殺しちまうかしちまえばいいのによ」
「物騒だなぁ」

大変な思いをして、代償を支払って、それが人魚姫の選択とはいえ、得られたものは何もない。報われることのない恋情。
彼の言う通り、一度くらい王子を引っ叩いたって許されると思う。
だけど人魚姫はそんなことできなかったんだろう。


「きっと王子様のこと、傷つけられないくらい愛してたんだろうね」


私がそう言った時、彼は苦々しい顔をしていた。






目が覚めたら、八百万界という場所にいて、見知らぬ人たちに囲まれていた。
人の形をしていて言葉が通じるので、恐ろしさを感じたのは最初だけだったけれど、それでも異様な光景だったと思う。
私は普通に現代で暮らしていたはずで、それが気が付いたらよく分からない場所にいて、それで世界を救う独神?だというのだ。何が何だか分からない。なんでも私は記憶を失っているらしい。
だけど私以外にその役目を果たすことが出来る者はおらず、そして私もそれが終わらなければ帰れないそうだ。独神としての役目を果たさなければ、私はこの見知らぬ土地でどうなるかわからない。やる以外の選択肢はないも同然だった。

英傑の皆は不気味なほどに私に過保護で、幸いなことに生活には苦労しなかった。
苦労どころか記憶を無くしてうろたえている私を積極的に支えてくれた。
ただ、その中にもどうしても例外は存在するもので、その例外というのがシュテンドウジという鬼だった。
とりあえず今までやっていたことをちょっとずつ再開させていこう、となった際、何故か執務室へとやってきたのは彼だった。普通のヒトとは違う尖った耳、額に生えた二本の角、鋭い眼光、ヒトよりも尖った牙。
とても恐ろしい、と思った。気分を害したら殺されてしまうのではないのか、と。
いいや違う。だって、もう彼は。
ぞわ、と背筋に悪寒がはしる。いやだ、殺されたくはない。ごめんなさい、と謝った記憶がある。部屋の隅で震えていた記憶がある。あとは覚えていない。
なんでもシュテンドウジは元々独神の傍で侍る役目、お伽番だったらしい。そして私の復帰に伴い継続してその役目をこなそうとしていたわけだ。怖がってしまって悪いことをしたとは思うけれど、どうしたって私にとって彼は異物で、こちらを不機嫌そうに見下ろす姿は恐ろしくてたまらない。
そんな事件があった翌日には、別の英傑がお伽番を務めることになっていた。

私が記憶喪失というのは、どうやら本当らしい。
なんと無しに感じるデジャヴ。転寝をしたときに英傑たちと過ごしたであろうワンシーンが浮かぶこともあった。ただの夢であると切って捨てるには余りあるリアリティと懐かしさがある風景だった。
中でも頻繁に見たのは、私が初めて英傑と出会ったシーン。誰かに強引にこの本殿から連れ出されるというものだった。出会って間もないそのひとは私が英傑を探して協力してもらわなければならないと知ると、心配だから付き合ってやると言い出した。そしてその言葉は偽りではなく、その後すぐ事情があって武器を向けられた際も庇ってくれたのだ。
ただ、その英傑の姿はどうしても見えない。夢の中でもその姿は黒く塗りつぶされて、判別することは適わない。
私はきっと、記憶を失う前はその英傑のことをとても信頼していたのだろうな、とそれだけは理解することが出来た。






夢の内容は段々具体性を帯びてくる。
相変わらずシュテンドウジや鬼の英傑には慣れないけれど、他の英傑には慣れることができた。
特に、今のお伽番。無理に距離を詰めてくることはなく、何を考えているか分からないところもあるが面倒見自体は悪くない。やる気がなさそうに見えるが頼んだ仕事に対し手を抜くことはない。ぼんやりしているようで助言はしっかりしている。
もしかして、彼が一番最初に出会った英傑なのではないだろうか。そう考えるようになるのに時間は掛からなかった。
シュテンドウジとは大違いだ。だって未だに彼からは遠征の報告を受けるだけでもびくびくしてしまう。

「ええ、と、シュテンドウジ、さん」

どぎまぎとしながらそう言うと、いつものように不機嫌そうなまま彼は喋り出す。

「シュテンで良いって言っただろ」

そう言われても、私にはそんな風に親しく呼ぶ勇気はなかった。例えるなら唸る犬のいる檻の中に腕を突っ込むようなものだ。噛み付かれそうで怖い。
だけどシュテンドウジは報告はきちんとしてくれている。酒を飲んで暴れてばかりだという噂とは違い、そこだけはちゃんとしているのだ。
それが逆に怖い。こちらが一度ミスをしたらどんな風に言われるか分からない。あんな鋭い目つきで睨まれて怒鳴られたら平気でいられる自信がない。
一対一の報告に不安を覚えていると、花廊の収穫に向かっていたお伽番の彼がようやく帰ってきたようだ。申し訳ないけど助かったと思ってしまった。二人きりというのはどうしても息が詰まってしまう。せめて緩和剤になってくれる誰かがいないと辛いものがある。

「あとは良いだろ。酒飲んでくる」

間にお伽番の彼が入る前に、シュテンドウジは早々に執務室から出て行ってしまった。
もしかして仲が悪いのだろうか。それともやはり私の怯えた態度が気に食わないのだろうか。色々と考えたけれど、それを教えてもらえるほど私と彼の仲は良くはなかった。





それは本当に、些細な思い付きで。もしもそうだったなら今までの礼を言おうとしただけだったのだ。


「もしかして、私が一番最初に出会ったのって、あなただったりするの……?」


どうしてそう思うのか。彼はそう問うてくる。

「最近、八百万界にきたばかりのことを思い出して。その時に出会った相手の顔は思い出せないけれど、とても優しかったから」

守ってくれた背中。手を引いてくれた武骨な掌。”しばらく”協力してやると言ったのに今もずっと一緒にいてくれる優しいだれか。
それは、目の前の彼ではないかと、そう思ったのだ。

「……あ、れ?」

けれど何故か、自分で言い出しておいて引っかかる。違和感があった。目の前にいる彼は確かに態度こそ良くはないが、こちらに対する言動は割と丁寧だ。だが、記憶の彼はもっと……。

「すまないが主、俺はこれ以上間男のような真似をするつもりは無い」

お伽番である彼は首を横に振って否定する。
そうだ。彼も優しいけれど、最初に出会った彼とは違う。

「その反応だと気付いたんだろう?それは俺じゃあない」

目の前の彼よりも、記憶の彼は乱暴で、もっと分かりやすくて……。
お伽番である彼は困ったように笑う。そんな表情を見たのは、お伽番を任せてから初めてだった。

「だって、わたし、怖くて……。シュテンドウジ、さん、は、ずっと怒っているようだったから。私のことが気に入らないんじゃないかって……」
「あれは拗ねているだけだ。その証拠にあいつは主に対して怒鳴ったりしなかっただろう?」
「それは……」
「主に怖がられたくなかったのさ。あれでも割と傷ついてるらしい」

そう、シュテンドウジはどんなに不機嫌そうでも私に対して怒鳴ったり掴みかかったりなんてことはしなかった。乱暴なこと一つ、しなかったのだ。
それどころか不条理にお伽番を追われても、文句ひとつ私に言うことはなかった。
どんなに凄んでも、私に酷いことひとつしない鬼。私にだけは酷いことをしない鬼。私を八尋殿から連れ出した鬼。

「どう、しよう」

なんて酷いことをしたのだろう。忘れていたからとはいえ、彼を過度に怖がって遠ざけた行為は許されることじゃない。

「どうしよう。私、シュテンにひどいことした」
「まぁ本人に当たるしかないんじゃないか?そこまで俺は責任を持てん」
「冷たいね?」
「はは。さっきと言ってることが逆だぞ主」

そう言ってお伽番の彼―ヤマトタケルは楽し気に笑っている。こちらは必死だというのに。

「だがまぁ、行くなら早くした方がいいんじゃないか?放っておくと泡にでもなりかねんぞ」
「泡?」
「人魚姫、だったか。そういう話なんだろう?」
「えっ」

シュテンドウジはこちらをそういった意味で好いてはいないだろうし、実際に泡になるとは思わないけれど、ヤマトタケルの言うとおりだ。
こんな不当な扱いを受けたシュテンドウジがいつ私の元を去ってもおかしくはない。去られても仕方のないことをしたとも思う。

「今から行ってくるんだろう?明日からはまたあいつがお伽番でいいよな。俺もそろそろ早起きは面倒だ」
「……うん。ありがとう」
「しばらくしたらまたお伽番にしてくれ。あいつと喧嘩をしたときにでもな」

なかなか楽しかったぞ。私を見送って手を振るヤマトタケルはやはり嬉しそうで、楽しそうだった。






遠征部隊を正門で待とうとしたところ、とっくの昔に帰還していたらしい。部隊に所属していた英傑の一人がうろうろしていたのを見つけ、シュテンドウジの行方を聞いたところ「報告に向かったはずだ」と言っていた。
私は執務室から出てきたのに、シュテンドウジと鉢合わせはしていない。今までシュテンドウジが報告を欠かしたことなどないというのに。
もしかして愛想を尽かして、出て行ってしまったのだろうか。最悪の事態ばかりが思い浮かぶ。一縷の望みを掛けて兵舎の彼の部屋へ向かう頃には、目から涙がぼろぼろと零れていた。
あまりの様子に他の英傑に声をかけられそうになったが、シュテンドウジを何度も呼んでいたせいか引き止められることはなかった。


「あ?ああ。遠征の報告か?別に何もねェよ。いつも通り出くわした悪霊ぶっ殺して終いだ。見りゃ分かるだろうが今おれは飲んでんだよ。付き合う気がねェならとっとと帰……」


部屋に入ると、出入口に背を向けてシュテンドウジは酒を飲んでいた。周囲に散らばった徳利や酒瓶の量から察するにやけ酒をしていたらしい。
溜まらずに私はその背に抱き着く。このまま酔った勢いでどこかに行かれる前に、せめて詫びておきたかった。

「ごめんなさい、しゅてん。いやだ、行かないで」
「テメェなんのつも……、頭?」
「酷いことをした。許してほしいなんて言えない。でも、どこかに消えてほしくない」

ぐずぐずと鼻を鳴らしていると、抱き着いた背中は慌てたように動こうとするけれど、私は思い切り服を掴んでしまっているからできないようだった。でも何か言われる前にこの手を離してしまいたくない。

「ごめんなさい。わたし、怖かったの。あなたがずっと不機嫌で、怒らせてしまったんじゃないかって」
「つかおまえ、え?泣いてんのか?ちょっと一回離せ。な?良い子だから」
「だって、私、あなたに酷いことを……」

そもそも私は泣く立場にない。泣きたいのはシュテンドウジの方だ。
シュテンドウジから手を離すと、ゆっくりと彼は振り向く。そうして子供のように泣いている私に驚いたようだった。

「ごめんなさい。忘れていたからといって貴方を怖がって、遠ざけて。貴方はあんなに私に良くしてくれたのに」
「……」
「シュテンが私に愛想を尽かしてもしょうがない、けど、私シュテンにどこかに行ってほしくない。ごめんなさい。許してくれるっていうならなんでもする……」

私が泣いているのを気遣ってか、未だにシュテンドウジはこちらに対して恨み言の一つも言いはしない。ただ、泣き喚く私の言葉を聞いているだけ。

「思いっきり殴ってくれても構わない。怒鳴られても、何されてもいい。だけどシュテン、勝手だけど、あなたがいなくなるのだけは嫌なの。ごめんなさい」
「おれのことを忘れやがったんだから、そりゃ一発くらい覚悟して貰わねェとな」

呆れたような溜息の後、彼は利き腕を振りかぶる。死にはしない程度に手加減はされるだろうが、その衝撃に身構えて、私は歯を食いしばり目を閉じる。
けれど、いつまで経っても衝撃はやってこない。


「んなことできるかよ。バーカ」


むに、と頬を抓られる。目を開けると、シュテンドウジはくしゃりと笑っている。
ここしばらく見ていなかった表情だ。


「……おまえが言ったんだぜ?きっとできないくらいに、って。そういうことだろ、これ」



10/26 RE:人魚姫