――かわいそうな子。
 わたしに会うたび、泉くんはわたしに向かってそう言った。
 泉くんは、わたしのいとこである。わたしの伯母の息子で、会うのは年に二回ほど、お盆と年末くらいだった。会う頻度は少ないけれど、幼い頃から顔を合わせていて、それが一年目二年目と年が降り積もってしまえば、覚えておこうとせずとも嫌でも記憶に残るというものだ。
 泉くんは言う。あんたはかわいそうな子、だと。かわいそう、というその定義を、幼い頃のわたしはわからなかった。何も知らないわたしは、わたしってかわいそうな子なの、なんて純粋に疑問に思っていて、でもよくわからなくてふうんといった感じで、次の瞬間には聞き流し、その意味を考えることを放棄していた。そこには、わたしを傷付けるものはなくて、自分のことを言われているにもかかわらず無関係だと、感じ取っていたからだろうか。
 けれども半年、一年、一年半と時間が過ぎていくと、わたしも僅かながらに成長してきて、泉くんの言うかわいそうな子の「かわいそう」の表現の意味を知っていくようになった。そしてそのとき、どうしてわたしは泉くんにかわいそうな子だと言われなければならないのだろうと怒りの感情が湧き上がった。幼い頃の記憶を引っ張り出してみても、わたしが泉くんにかわいそうな子だと言われる理由が思い当たらなかったからだ。
 両親からはきちんと愛情を注がれている自信があるし、身形だってそれなりに整えていたし、親戚にもなかなか可愛がってもらっていたように思える。確かに友人はそれほど多くないが、それを悲しく思ったことは一度もないし、成績だって上から数えた方が早い。というよりも、そんなことをいとこの泉くんが知るわけもないのだけれど。
 わたしは訊いた。どうしてわたしがかわいそうなのか、と。泉くんに。直接。すると彼は目を細めて、「かわいそうだからだよ」と答えになっていない答えを、まるでこちらを憐れむようにして口にした。そのときもわたしは腹を立てた。かわいそうってなんだ、と。どうしてわたしのことを何も知らない泉くんに、哀れみの気持ちを向けられなければならないのだ、と。
 いとこというのは、遠くもなく近くもない、確かなものはあるはずなのにどこか浮遊している関係だ。事細かい情報は知らされないが、誰と誰が結婚しただとか妊娠しただとか、誰と誰が仲違いをしているだとか、誰がどこそこへ転勤になっただとか、そういう情報は親戚内でも共有されている。だからわたしは泉くんがモデルをしていて、しかもそれがただのモデルではなく人気モデルだということを知っていた。だが、彼の私生活については何も知らない。このことは、泉くんが持っているわたしに関する情報量と似たり寄ったりだろう。いとことの関係なんて、そのようなものだ。したがって、わたしが泉くんにかわいそうなどと言われる理由はあるはずがないのだ。
 怒気を胸の内に沈めながら、わたしは何時しか中学二年生になっていた。泉くんはわたしのふたつ年上で、彼は高校生だった。相変わらず泉くんとは年に二回だけ会っていた。やはりそのたびにかわいそうな子とわたしは表現されていて、段々と泉くんのことが苦手となりつつあった。それは互いが成長するにつれて異性だと認識し始めたことや、年に二回という頻度が少ないことも無関係とは言えないだろうけれど、意味もわからずにかわいそうな子だと言われ続けていたことが一番の理由だとわたしは思っている。
 一年の時が流れ、わたしは高校受験をすることとなった。そしてわたしには不幸なことに、父の仕事の都合上引っ越しをしなければならなくなってしまい、あのいとこの泉くんが住んでいる街に身を置かなければならなくなってしまった。ただでさえ、今まで十五年間過ごして来た街を離れなければならないというのに、あの泉くんがいる街に地を移すというのは、少なからずわたしにとっては衝撃的であった。とはいえ、家が隣同士というわけではなかったし、毎週会うというわけでもなかったため、少しばかり家族同士の交流が増える程度だろうと、そのときのわたしはどこか楽観していた。そしてそんな機会が設けられたら、部活や塾を言い訳にして不参加を決め込めば問題はないとしていた。けれどもわたしは、泉くんの言う通りではないと信じたいけれど、運はない方なのだろう。
 わたしが受験した高校は、夢ノ咲学院。泉くんが通っている高校は、夢ノ咲学院。つまり、同じだ。同じ名前の高校というわけではなく、正真正銘、同じ高校だ。これは完全にわたしのミスだ。だが言い訳をさせてほしい。わたしはわたしのために進学先を決定したのだ。要するに、自分の成績と自宅から通える距離を最優先にして、校風が自分に合うかどうかを見て決めた。そこに泉くんの存在が入ってくる可能性は微塵も考えていなかったのである。
 わたしは夢ノ咲学院の普通科に合格をした。はずだった。確かにわたしは普通科を受験し、合格した。夢ノ咲学院は特殊で、普通科以外に様々な学科が存在している。その中で泉くんはアイドル科に在籍しており、普通科とは行き来が制限されていて、自分の志望校が泉くんの通っている高校と同じと知ったときの絶望の中で光を見出していた。けれども何故だか、わたしはアイドル科とかなり密接なプロデュース科の生徒として合格していたのだった。
 そこからの日々は、文字通りの多忙であった。高校入学への準備を終えたら入学式があり、プロデュース科の生徒として日々あちこちへと走り回っていた。と言ってもプロデューサーとしては未熟者もいいところで、周囲に迷惑を掛けながら、そして時には助けを借りながら、なんとかひとつひとつの課題をギリギリにクリアしていくといった具合だった。
 ふとしたときに思うのだった。こんなはずじゃなかったのに、と。わたしは普通科の生徒として大して面白くもない平々凡々な毎日を送り、良くも悪くもない日常の中で息を潜めて生きていくつもりだった。しかし今は、輝かしいお顔をお持ちのアイドル科の生徒と共に授業を受け、時々プロデューサーとしてお荷物レベルになりながらお手伝いをしている。退屈ではないけれど、それと引き換えに胃に痛みを持ちながらこんなにも慌ただしい日常は決して望んでいなかった。
 たとえ学年が違うといえども、同じ校舎にいれば会うこともあるわけで。加えて言うならば、アイドル科の生徒とプロデュース科の生徒が会う可能性は低くないわけで。その日、わたしは親戚の集まり以外で初めて泉くんと会った。私服ではなく制服を身に纏った泉くんを見るのは新鮮で、きっと彼のことを何も知らずに純粋なまなこでアイドル科の瀬名泉として見掛けていたならば見惚れていたかもしれない、と思うほど彼はかっこよかった。しかしながら、わたしは何も知らない無垢なそこらへんにいる女子生徒ではないのだ。頬を染めるならその色は青に近いだろうし、視線を釘付けにするくらいならどこか遥か彼方を見遣っているに違いない。
 無意識のうちに顔を強張らせ、何も見なかったことにして引き返そうとすると、これまた運悪く彼がこちらを振り向いてしまった。そのときのわたしには、いくつかの選択肢が浮かんだ。逃げる。いとことして挨拶をする。下級生として挨拶する。逃走する。見なかったふりをする。ぐるぐると頭の中で混ぜ合わさり、どうすることも出来なくて咄嗟に軽く頭を下げる。良い反応とは言えないが、最悪の反応でもないだろう。
 事態を拗らせないためにそのまま来た道を戻ろうとすれば、少しずつ足音が近付いてきていて、泉くんがこちらに向かっているのに気付いてしまった。後ろを確認するも誰もおらず、ここで導き出される答えは、泉くんがこの道を通るということか、わたしに用事があるということのどちらかだろう。当然前者であることを祈りつつ道を開けようとすると、彼の足はぴったりとわたしの目の前で止まった。いつ見ても彼はきれいな顔をしていると思うけれど、わたしの中では恐怖の方が勝っていて、少しばかり後退ってしまった。
「こういうときはさ、あんたから挨拶してくるのが普通なんじゃないの?」
 きちんとしたものではなかったが、先ほど軽く頭を下げて小さく挨拶をしたではないか、と思っていると、それを顔に出してしまっていたのか、「あんたが入学してきてどれくらい経ってると思ってるわけぇ?」と言われて、今ここでの話ではないことを知らされる。確かに、いとこである以上繋がりはあるが、下級生が上級生に挨拶をしに行くのは勇気がいるし、それにきっとかわいそうな子に挨拶されても嬉しくないだろうし、むしろ邪魔とさえ思われるかもしれないし、と避け続けていた理由を思い浮かべて、こちらには非がないと自分自身を納得させてみようと試みる。だが、彼の言うことは間違ってはいない。
「ご、ごめん……三年生の教室に行くのは、難しくて……」
「俺の家に来ればいいでしょ?」
「それもハードル高いよ……」
 親戚だからと言って、そんなに簡単に他人の家のドアを叩けるわけではないのだ。それに、自ら敵地に足を踏み入れられるわけもない。もしもここが戦場ならば、わたしは前線で活躍するような器を持っていないので、後方支援をしているうちにうっかりと殺されてしまう、目立たない戦闘員であるだろう。
 もう一度ごめんと謝罪の言葉を口にすると、彼は呆れた様子でこちらを見下ろした。それに耐え切れる自信がなくてどうぞと道を譲ると、泉くんはわたしの手を取って徐に歩き出した。確かこちらはKnightsが本拠地としているスタジオがあったはずだ。そこには絶対に近寄るまいとしていたものだから、校舎内は把握していなくともその場所だけは頭の中に刻み付けていた。怖くて、どこへ行くのとは訊けなかった。その代わりに、ちょっと待ってと引き留めた。思いのほか、彼はあっさりと足を止めてくれた。残念なことに、手は離してくれなかったけれど。
「どうかした? もしかして約束があったとか?」
「そ、そう……! 今から衣装について話し合いがあって……」
 咄嗟に出た嘘だったが、内容に不自然さはないだろう。プロデューサーとして衣装についてのミーティングがあることはおかしくない。ただ、未熟者のわたしがそれに参加させてもらえることは限りなくゼロに近いものがあるが。
「衣装について? あんたが? どうせ足手まといにしかならないんだから、いなくても変わらないでしょ? っていうか、そんなことより優先すべきことがあるんだからねぇ?」
 他人に言われなくても、泉くんに言われなくても、わかっている。わたしがいなくても、何も変わらないなんていうことは。だが、これほどまでにはっきりと指摘されると、貼っていたガーゼは無意味なものになり、治らない傷が更に深くなっていく。これは、泉くんに対して嘘を言ってしまった罰なのだろうか。今このときに痛感させられるくらいならば、大人しくついて行った方が良かったのではないだろうか。いやでも、足手まといならば、尚更ついて行くわけにはいかない。
「あ、足手まといってわかってるんだったら、放っておいてよ」
「わかってるから、お兄ちゃんが救ってあげるんでしょ?」
 救ってあげる。なんて甘やかに響くのだろう。一瞬差し出された手を取ってしまいそうになるけれど、その手は他の誰でもない、わたしをかわいそうな子だと言う泉くんのもので、いつか無情に振り払われることをわたしは予感している。そんなわたしの胸の内を少なからず知っているであろうにもかかわらず、彼はわたしの手を掴んでスタジオまでの道を真っ直ぐに突き進んだ。
 スタジオの扉の向こうには、泉くん以外のKnightsのメンバー、朔間さんと鳴上さんと朱桜くんがいた。扉が開けられた次の瞬間一斉に目を向けられ、わたしは自然と委縮する形となり、半歩後ろに下がった。けれどそれ以上は許さないとでもいうように、掴まれていた腕は離されることなく、泉くんとわたしを未だに繋いでいた。
「今日からKnightsのプロデュースを頼むことにしたから」
 泉くんの言葉に、皆それぞれ反応を見せた。朔間さんはどうでもよいという感じで、鳴上さんは一見受け入れてくれているように思えるもその実のところはこちらを品定めしているようで、朱桜くんに関してはKnightsのプロデューサーに相応しくないと早々に見切られてしまいそうだった。つまり、今の発言はKnightsとして話し合われた末の結論ではなく、泉くんの独断というわけであった。
「瀬名先輩にしては、あまり面白くないjokeですね?」
 朔間さんや鳴上さんに言われるのなら、まだ良かった。彼らはわたしより上級生で、わたしのことをあまり知らない人たちだ。けれど、朱桜くんは違う。同じ一年生であるからか、彼はわたしの未熟さをよくよく知った上でそう判断しているのだ。そういう人に判断されて切り捨てられるというのが、一番心に痛く響く。そしてこの場合、どう足掻いたとしても反論出来る要素を何ひとつ持ち合わせていないものだから、わたしは口を閉ざして現実を投げつけられるのを必死で耐えなければならないのだった。
 体内から徐々に水が奪われていく心地がした。今自分がきちんと立てているのかがあやふやで、一歩でも動いてしまったらどうなるのか予想することが困難であった。そんなとき、ふと隣に人の気配を感じた。いや、ここへ来てからずっとあったのだろうけれど、初めて肌で感じた。孤独ではなかったような心持ちがした。ひとりではなかったのかもしれないと、一瞬、思わせてくれた。わたしは知らず知らずのうちに手を伸ばし、泉くんの服をそっと掴んだ。彼はわたしの手を跳ね除けることはしなかった。生まれてから今まで、何度も泉くんの傍にいたことがある。時が経つにつれて、かわいそうな子だと言われ続けるにつれて、距離を置きたくなって、会いたくなくなっていったが、今このときばかりは異なる感情が芽生えた。初めて、泉くんの隣にいたいと思った。
 泉くんの手引きでKnightsのプロデュースをすることになったが、元々プロデューサーとしてひどく未熟者であったわたしがKnightsをプロデュースすることになったからといってすぐに成長し、プロデューサーとして名乗れるわけもなかったのである。相変わらず周りに助けられながら、時にはKnightsのプロデュースだというのに他のユニットに所属するクラスメイトに助言をもらいながら、騙し騙し問題を乗り越えていく日々が続いた。何を、誰を騙しているのか、もうわたしにはわからなかった。
 Knightsをプロデュースするといえども、わたしの意見が通ることはほとんどなく、わたしの意見に耳を傾けてもらえることもほとんどなく、むしろ少しでも足手まといにならないように身を縮めているのがやっとのことで、誰に指摘されるまでもなく、そしてきっと誰もが感じているであろうこと、わたしが不要だということを常に思わずにはいられなくなった。それでもわたしは不思議なことに未だにKnightsをプロデュースする身である。
 今までのわたしならば、自分の力が及ばないことを指摘されたくない、自分が不必要だと捨てられたくないと必死にもがいていたかもしれない。でも今は、こんなに惨めな姿を皆に晒すくらいならば、早々に追放してほしいと願っている。
 昔から、わたしは泉くんにかわいそうな子だと言われていた。あのときから今まで、彼がどうしてわたしのことをかわいそうな子だと言うのかが理解出来ないでいたが、ここへきてようやくじわじわとわたしの心を絞め殺しているような気がした。
 本日の授業も終わり、教室内にはわたししか残っていなかった。これからまたあのスタジオへ行かなければならないと思うと、この場所から離れたくなかったし、足取りは重く、心は沈み、今すぐにでも顔を歪めて手で覆ってしまいたくなる。逃げてしまいたいが、もしもその行動を取ってしまった場合は、泉くんに何を言われるかわからないし、Knightsからこれ以上どんな最悪な評価を受けるかわからない。
 泣き声のような溜息を吐き出す。いつもスタジオへ着く時間から二十分ほど過ぎている。きっと誰も心配なんてしないだろうけれど、むしろわたしの姿がないことに気付いてさえいないだろうけれど、わたしはわたしがどう思われるのかを恐れているために体を這いずってでも行かなければならない。
 机の横に掛けている鞄を手に取る。何度目かわからない溜息を吐き出して立ち上がるのと同時に、教室の扉が開いた。反射的に視線を上げると、そこには泉くんが立っていた。瞬時にわたしは顔を強張らせ、脳内で言い訳をずらりと並べ始める。何を言っても泉くんを怒らせてしまうような気がして、言い訳は頭の中でぐるぐると回転するばかりで、口から出ることはなかった。
「そのまま帰る、なんてことはないよねぇ……?」
 無意識のうちに首を横にふるふると振る。このままスタジオへ向かわずに帰宅出来ればどんなに良いことだろうかと思うけれども、それは思うだけであって実際に行動を移すことは今のわたしには困難だ。わたしが否定すると泉くんは疑いの眼差しを向けながら、だがわたしにそんなことが出来るわけもないとわかっているからなのか「そうだよねぇ」と納得したように言った。
 泉くんの機嫌を損ねないように席を離れるも、足はなかなか思うように動いてくれずにわたしを後ろへ引っ張って留めようとする。痺れを切らして怒られるかと思っているも、泉くんは何も言わずに待っていてくれた。今なら、わかるかもしれない。昔から泉くんが言っていた、その意味が。泉くんが急かさないのをいいことに、わたしは真っ直ぐに彼を見つめてそっと尋ねた。
「わたしって、ほんとうにかわいそうな子なのかな」
 泉くんは沈黙を作ることなく「そうだね」と、救ってあげると言ってくれたあのときと同じ声音で答えた。