男の話



 男の目の前で、焚き火は燃え続ける。
 大陸の乾いた風が静かに男の頬を通り過ぎていき、男の赤い髪を僅かに揺らす。
 爪先が冷たくなるほどの冷気が、夜を支配しているようだった。
 
 目を奪われるくらいに輝く星々を男は見上げ、鑑賞する素振りなどせず、ただ、焚き火の前で武器の手入れを淡々とこなす。
 半端な距離には男と似たような民族服を着た雄々しい体格の男たち酒を片手にどんちゃん騒いでいる。男たちは馬賊だ。自衛組織としての意識が強い方の馬賊。
 酒を呷るように勢いよく呑む者。仲の良い者と大口を開けて笑い合う者。泥酔して踊るような足取りで歩く者。大の字で地面に寝て、起こされている者。自分たちを運ぶ馬に餌を与える者。自由で混沌とした場であった。
 しかし、誰も一人焚き火を起こし、喧騒からはみ出ている男に声をかける者はいない。
 声をかけられないから、といって、男が煙たがられているわけではない。
 むしろ男は馬賊から、受け入れられている。
 どこからか、ふらっと現われて、いつの間にか群れに馴染んでいた。おそらく異国からやってきた赤毛の男。
 馬に乗るのが上手く、武器を扱う手付きは見事なもので特に槍は熟練の技であった。ここに来た当初は拙かったた言葉も今では流暢に使いこなしている。口数が少ない男だから、あまり耳にすることはないが。
 男は一人になりたがることが多かった。
 一人を好む性質だが、人嫌いではなさそうで、話しかければ会話が続くし、群れの中にいつも平然として、むしろ、馴染んでいる。
 一人でいる時間が好きなんだろう。
 そう結論を出した男たちは、一人になりたがる男を放っておくことにした。実害はないのだ、男がそうしたいのであれば、自由にさせよう。
 男たちの気遣いを知ってか知らずか、男は手入れを続けている。
 星々の輝きと、酒盛りの喧騒から目を背けている男の耳に、焚き火の枝が崩れ落ちる音が届く。
 こうして一人でいると、かつての日々が思い出される。
 江戸や京で過ごした、あの、騒々しい日々。
 密偵の家に生まれた男には、それはあまりにも眩しすぎるものであった。
 物心がついた時から、様々なことを教えられてきた。みっちりと、血の繋がりの有無は関係なく、厳しく。
 共にふざけて、笑い合っていた奴らが聞けば、驚くかもしれないほどに。
 その教育が、今も男を生かしているのか知る由もないが、新撰組で男は重宝されていた。
 ……もう全てが過去だ。
 過ぎ去って、もう二度と手に入れることが出来ない日々。
 男が守りたいと、初めて思ったものは次々と欠けていった。今、どこにいるのか、どうしているのか知ることも出来ない。男はただ流れに身を任せ、この大陸にまで辿りついてしまった。
 全てを置いて、こんな所まで。
 必要な手入れを終え、男は手持ち無沙汰になる。焚き火が爆ぜる音。遠くからの男たちの喧騒。酒は嫌ではないが、むこうで行われている酒盛りに参加する気はどうも起きてこなかった。
 ──もうお酒は呑まない方がいいよ。
 呆れ返った幼い少女の顔が、ふと思い浮かぶ。
 日本に置いてまた、上からの命で夫婦となった少女だ。
 あれも、上から重宝されていた暗殺者であった。
 やけに素直で、世間知らずで、なぜか自分に好意的だった女。
 生まれ持った性質から、聞かれたことには何でも隠さず答えるので、男は少女の家族についてまで少しばかり知ってしまっていた。
 甥である赤子を抱えて、姉が死んでしまったと震えていた姿も、知っている。
 あの夜、男は、赤子を抱えて蹲る女の姿が不安定で、見ていられなかった。
 ……気付けば、男は女を赤子ごと、腕の中に受け入れていた。
 女は男の取った行動に驚いたようで、一瞬肩をびくりとはねさせていたが、抵抗する気力はなかったらしく、大人しく自分の腕におさまっていた。
あの日、自分は、初めて触れた女の細さに、何を思っていたんだったらう。
 ……もう、覚えていない。
 事前に用意していた乾燥した細い枝を焚き火の中へ放り込んだ。枝が燃えていく。炎に呑み込まれていく。
 パチパチとを燃え続いていく。今なお。


 日々を流れに身を任せるがまま、ただ息をする。
 悪運が男を生かす。望まなくとも、勝手に。切腹としても死ななかったのだ。この悪運は筋金入りと痛覚する。
 雲は無く、月は多く、暗間の、寒さがやわらぐことのない、そんな夜に一人いた。
 男は起こした焚き火の前に腰を落ち着かせる。
 その日は習慣となった手入れに取りかからず、懐からぼろぼろに劣化したお守りを出す。
 不要な物を整理するため、日本から持ってきたもの、新たに大陸で手に入れたものを一つ一つ検分していた所、どこからかポロリとこれが男の足元に転がってきた。
 ……これは、かつて、妻のフリをした女から、最後に渡されたお守りだ。
 最後の夜。伏見に向かうと時間がせまる中、女とその甥の当面の生活費を渡しに男は、三人で住んでいる家に向かった。らしくもなく、焦っていたを記憶がある。
 どうしてもあの人たちについていきたかったし、あの二人にも一目会いたかった。
 借家につき、戸を開けさせる。そして、女ぬまとまった金銭を渡し、甥の頭を撫で、「行ってくる」など言い、男は二人と別れた。

 ……走って女が追いかけてくると、男は全く思っていなかった。
 想像していなかった出来事に男が驚く。並走してきた女にぎょっと目を見開いたものだ。
 その上、このお守りを躊躇いなく、投げてきたのだから、余計に驚いた。

 「さようならっ」

 最後にきいた女の声は、晴れ晴れとしていた。
 今生の別れになるなんて、全く想像していなさそうな……、そんな声だった。
 こいつ何も分かってねえんじゃないかと疑った覚えがあるから、おそらくこの記憶は確かなものだ。
 しかし、わざわざ走ってくるくらい、自分にお守りを渡したかったのか。
 ……そんな特殊な性格をした女じゃなかったが……。
 確かに自分へ友好的な態度を女はとっていた。懐いていたともいえる。
 ……なぜ、あんなに懐かれていたのかは、今だに考えても分からないままでいる。
 その時のお守りがこんなになってしまった。……それほどの時が経っているということか?
 お守りを握る手に力が入る。

 「……」

 これは、どこのお守りで、いつ買ったのだろう。
 焚き火の明かりをぼんやりと受けるお守りを見ていると、薄くなった布地の隙間から、見慣れぬ髪が入っているのが分かった。
 ……お守りには木の板しか入っていないと、勝手に思い込んでいたのだが、この紙は何だ?
 男はお守りの紐をほどき、その紙を慎重に取り出す。
 お守りの布地のおかげか日差しから遮られ、色は白いままだ。
 触れてみても、おかしな感触ではない。
 ……この紙は、おそらく、お守りを投げて渡してきた女が入れたものだろう。
 そういえば、以前……といっても、記憶がかすむくらい古い記憶だ。
 女が友人に遊びに行くと言い、帰ったらお守りへ紙を入れるんだって、すごいよねーと、なんでもないように話してきたことを思い出す。
 もしかすると、その友人に影響を受け、紙を入れてみたのかもしれない。
 女は、そういう素直な所があった。馬鹿正直だからか、きかれたことには答えるし、助言などにはすぐ対応する。
 友人の言葉を聞き入れて、とりあえず身近な男のお守りに紙を入れてみたのだろう。
 そういう女であった。
 男はお守りに入るように、折り畳まれた紙を開く。

 原田左之助様
 これに気付いた時、どこで何をしているかは分かりませんが、元気だと喜ばしいです。
 まずはあの日、上の馬鹿げた命令を受け入れてくれて、ありがとうございます。受け入れるしかなかっただけだと思いますが。それでもありがたかったです。そして、いきなり連れてきた茂のことを、受け入れてくれて、ありがとうございます。
 家のことを左之助に言うのは気が引けましたが、茂のことを可愛がってくれて、ここまで面倒を見てくれたのだから、知ってほしいと思い、こうして書かせて頂きます。
 実は茂は村の当主に狙われているのです。村の当主については話しましたよね。当主は私の母にこだわっており、邪魔になった父を殺しました。父に似ているからと、私の目の前で兄を殺しました。
当主は母を求めていました。けど、母は父の後を追って死にました。自死です。
 当主は母の代わりに姉を。姉が死んだら兄を。兄が死んだら私を。茂が生まれたら茂を求めています。
茂の平穏のために、私は当主を殺しに行くつもりです。殺し方は目の前で見ましたし、武器も知っています。なにより、当主よりも私の方が強い。勝てます。安心して下さい。
 正直、当主と殺した後のことは考えられません。でも、どうにかなります。これまでもどうにかなっていたので。改めて、本当にありがとうございます。元気でお過ごし下さい。

 宇高るるより


 焚き火が枝を燃せす音が、男の耳にやけに大さく入ってくる。
 初めて目にした女の筆跡よりも、手紙の内容は男の意識が向かう。
 夜目が効く男であるので、焚き火の頼りない明かりでも、手紙を読むことが出来てしまった。
 女と、その甥の姿がよぎり去る。
 女の顔が。
 しばらく、凍りついたように固まっていた男が、手紙を読む姿勢をといたのは、焚き火の勢いが弱まったくらいの事である。
 燃やされて黒ずんだ枝の骸が晒されている。
 気が抜けたように、男は手紙を持ったまま、力なくうなだれた。
 雲はなく、月は細く、黒洞々にたる夜の下。
 男は、女の行方を、何も知らない。