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 怒ってしまった。名前は善逸にしてしまった自分の行いに驚いている。目覚めたばかりの病人に怒鳴るなど、なんてことをしてしまったのだろうかと名前は落ち込んでいた。
 あの時、走ってやってきた名前の勢いにアオイは目を丸くして呆気にとられていた。久々に走ったせいでぜいぜい言っていた名前に対しての驚きもあったのかもしれない。アオイの顔を思い出してますます落ち込みは深くなる。
 善逸になにかされたわけではない。──ただ謝られた。謝られて、自分の傷となった過去とその時の今が重なって、かっとなった。抑えきれなかった。
 ……髪を鷲掴み、泣き喚く名前の姿をけらけらと喜んだ鬼の顔が、名前を苦しめる。
 桑島の屋敷に来たばかりの頃、名前は情緒が不安定で日中は唐突に頭の中を過る過去に振り回され、夜は泣いて泣いて泣き疲れて眠りにつくような日々を送っていた。疲労が蓄積される毎日に、名前は感情を抑制させることで、その記憶をなんとか薄れさせようと努力してきた。その努力がやっと実り、安定してきた矢先の出来事でまた不安定の状態に戻ってしまった。だから大声をあげた。怒りが抑えつけられなかった。名前にとって善逸へ怒りをぶつけてしまったのは、本当に予想外だった。

 善逸に怒鳴った日、感情を表に出した日から、ふとした時に感情が乱れるようになった。平穏な日常の中、涙が出てきそうになるようになった。不安定な状態にまた戻った名前は、アオイからしばらく倉庫の整理をしてほしいと頼まれる。アオイは名前の状態にいち早く気付き、名前の気付かれたくない、しかし仕事はきちんとやりたいという思いを察し、自分で配分で仕事が可能な倉庫の整理を任せることにしたのだ。アオイの気遣いを名前は素直に受け取った。
 善逸とはあれ以来会っていない。怒鳴ったような人間が善逸の側にいたら、怖がって治療に集中出来ないだろうと名前は一日のほとんどを倉庫で過ごすようになった。……合わせる顔がないのだ。申し訳なく思う気持ちが重く苦しく名前に圧し掛かる。卑怯で臆病になってしまった自分が嫌で、現実から逃れるように名前は整理整頓をして倉庫整理に専念するのだった。

 早朝。
 日も昇らない内に目を覚ました名前はまた眠りにつく気分にもなれず、なほたちと共に寝起きしている部屋から抜け出した。すみ、なほ、きよの幼い少女三人組はこんな名前を気にかけ、良くしてくれる。アオイも、まだ本調子でないカナヲもそうだ。ここは居心地がいい、同性の子たちがいるからだろうか。もしもあの日、ここに来る選択をしていたら、今頃名前はどうなっていただろう。アオイたちと隊士の治療に一生懸命あたる光景とか、薬の匂いを纏いこの蝶屋敷で暮らす様を想像してみる。それもそれで辛いことも楽しいこともある毎日を送れたはずだが、名前はやはり桑島の屋敷に行った選択を間違いとも不幸とも思っていない。

「…………さむい」

 目を擦る。夜明け前だからか廊下はひんやりとした空気で満ちていた。寝巻姿だと人を――こんな早朝に出歩く人間もそんなにいないと思うが――不快にさせるかもしれないと上着を羽織ってきてよかった。名前は少しの間、蝶屋敷の廊下を歩いた。気分転換をすれば眠気が訪れるかと思ったのだ。しかし、眠そうにない。これではなほたちの元に戻っても無意味に布団の中で朝を待つだけだ。朝まで時間を潰そう。いつものように名前は倉庫の方に向かった。

 倉庫の中はぼんやりと薄暗い。が、行動出来ない暗さではなくて、助かったと名前は安堵する。入ってすぐに聳え立つ低い棚の横。そこがここで作業するようになった名前の定位置だ。定位置には名前が用意した座布団が大体置いてある。音を立てないように気を使いながらそこに座る。柔らかい座布団の感触に名前はほっと息をつく。
 何も聞こえない。静かで、人の出す音がしない。
 ……一人でいると、過去が名前を襲ってくる。大切にしてくれて大切にしていた家族を一体の鬼に皆殺しにされた、耐えきれない過去が。笑い声が不快だった。笑いながら、嗤いながらあの鬼は大切な家族を殺した。虫で遊ぶ幼児とは違い悪意を持って。鬼は命をかけて名前を逃がしてくれた母親をあっけなく殺し、泣き喚く名前を嬲った。……家族を殺した仇は死んだ、仇を討ってくれた恩人も死んだ。藤本の手伝いが終わってしまったら、名前はどうしたらいいのだろう。頼れる親戚はいないし、かといって行く場所がないからといつまでも藤本の世話になるわけにはいかない。佐藤はいてもいいのよ、と優しく微笑んで言ってくれるだろうが……。
 かたん。
 音がした。すぐそこにある倉庫の扉の方からだ。名前は素早く立ち上がり、咄嗟に物陰へ身を隠した。誰だ、伺うようにして息を潜める。扉が開く。

「名前ちゃん、いる?あ、思っていたより暗い……」

 声が聞こえた。かつん、と無機質な音の後に、一歩ずつ踏みしめる足音。まさか、名前は入ってきた人へ対し、思い当たりのある名字を口にする。