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「我妻さん?」
「あ、名前ちゃん。え、ど、どこ、どこにいるの」
「ここです」

 物陰からさっと出る。やっぱり善逸だ。体の罅が痛々しい。日がまだ出ていないのに、罅が入ったままのまともに歩けない体で、こんなところに何の用だというのだ。杖までついて、苦しそうな顔をして。
 ほっと名前の姿を見て、怖がっている顔を安心したように解けさせる善逸の元へ近寄った名前は疑問のまま首を傾げる。意識をしないと、罪悪感で顔を顰めてしまいそうで怖かった。

「なぜ、立ち歩いているんですか? 神崎さんから許可を出したとはきいていませんよ」
「いやあ、名前ちゃんの声が聞こえたから」
「声?」

 出した覚えがないし、善逸のいる患者たちの方には行った所か近付いてさえいないのだけれど。ひとまず疑問は置いておき、善逸を病室に戻そうとする名前に善逸がまってくれと頼む。

「どうされたんですか。許可がないのなら早く戻らないと」
「待って、待って!名前ちゃんと、話したくって……。お、怒っていたの、なんでかなって」
「なんで……」

 それは善逸が謝ったから。名前の心が不安定だったから。
 そんな理由で怒ったといっても、善逸は分からないだろう。促す動きを止め、躊躇う名前の様子に善逸は「話そっか」と言う。


「申し訳ありませんでした。我妻さんの目が覚めた直後に大声をあげて」
「うん、いいよ」
「いいよって。……そんな、すぐに許さなくていいんですよ」
「名前ちゃんが謝ってくれたからし、俺も気にしてないから」

 善逸が笑う。名前はもごもごと言いにくそうに口を動かしてから善逸に向かって下げていた頭を上げ、言葉を選びつつ口を開けた。

「……あの時」
「うん」
「……我妻さんが、ごめんって謝ってきたんです。寝言だと思います。でも、それをきいたら、何でかわからないんですけど、かっとなって……こんな……、大変、申し訳ありません」
「あっそっか……あー……」

 二人並んで座布団に座る。頭を上げたはいいが、名前は善逸のことをまともに見れない。自分が片付けた本棚や床をただ見つめている。善逸も名前の言葉をきいてからは視線をあちらこちらに彷徨わせる。善逸は自分が謝罪をしたという理由に心当たりがあった。

「名前ちゃん。あのさ、獪岳が」
「はい、知っています。桑島さんがおっしゃっていました」

 遮るように名前は善逸の言葉に答える。名前の表情はいつもと変わらず、善逸は彼女の表情だけでは今名前が抱えている気持ちを読み取れない。
 善逸は掻い摘んで、自身の刀を振るったことと、謝罪の意味を話す。名前は相槌をうたないで善逸の話を静かに聞く。

 ──初めて名前に会ったあの日を思い出す。平気そうな表情をした、その裏で途方もない悲しみを抱えた女の子に。彼女からは、いつも苦しみ、悲しんでいる音がしている。初めて会った日も、いつも通りの日常を過ごしている日も、そして今も。なんてことない顔を保ちながら、ずっと。だから、善逸は名前を傷付けるのが心の底から恐ろしい。
 我妻善逸は、名字名前が好きだから。
 最後まで、善逸の話を静かにきいた名前はその静寂さをやはり保っていた。表面上は。善逸にはきこえる、名前の音が。

「……手紙、やっぱり桑島さん以外には返していなかったんですね。全く、もう」
「うん……名前ちゃんも出してたよね」
「はい、何度も。……意味がないと言ってしまったら、それはこちらにも当てはまります。我妻さんがそんな意図で言ったんじゃないとは分かっていますよ。……なにか、できることがあったんじゃないかと思ってしまいますよね。分かります」
「名前ちゃん」
「……わたしは、ですね。我妻さん。あなたが――」

 僅かに平静を保っていた名前の顔が歪む。

「……わたしが大声をあげたのはあなたが謝ったから、だと思います。いやだったんです。謝ってほしくなかった。本当に申し訳ありません、理由があやふやなまま怒ったりして。本当に自分が情けありません。……。彼があなたになんて言ったのか彼が何を考えていたのかわかりませんが、あなたが……」

 名前が言葉を探しながら紡いでいた声が止まる。初めて会った時のようによく喋るな、と善逸は思った。あの時には違って、手探りで自分の感情を手繰り寄せている音がする。でも、今なら名前のことがわかる。よく喋るのは緊張しているからだ。名前と長い時間を一緒に過ごしてきた故に、理解が出来るようになった。
 鳥が囀る声がきこえる。耳鳴り。もうすぐ夜が明ける。

「あなたが傷付くのがいやです」

 瞳が感情で揺れている。名前がやっと善逸の方へ顔を向けた。

「どうしてかは分からない、けど、あなたが傷付くのがいやで。でも、謝ったことに怒っておいて、あなたが傷付くのがいやだっていうのはおかしいですよね……。怒ったら、あなたは傷付いてしまいますし。その、自分がすごく傷付いているのに、わたしに謝ったのが許せなくて。あなたが、自分を蔑ろにするのがいやで……。そう、つまり、やっぱりあなたが傷付くのがいやだってことです。わ、わかりにくいですよね。ごめんなさい。急に……」

 名前の言葉が途切れる。

「わたし、おかしいんです。自分の気持ちを、忘れようとしているのに、こんな。我妻さん。わたし」

 罅の入った腕を上げ、善逸は名前を自分の内側に招き入れた。全身につけられた罅が裂ける様な鋭い痛みを善逸の体に走る。

「あいだだだだ、痛い!痛っ!」
「……ほら、やっぱり病室に戻った方がいいですって」

 傷付くのがいやだと言った名前の前で痛がるのはあまりにも心無いことであろうが、善逸はこうしたかった。名前は心配しているのか眉を下げている。近い。二人はお互いの呼吸が分かる程の距離にいた。拒絶をされないで受け入れられていることに善逸はうれしくなる。

「ごめん、大丈夫、俺は大丈夫……。名前ちゃんは……、これからどうする?」
「……これから?蝶屋敷での仕事が終わったらですか?いきなりですね……」

 名前が考え込む。自分の行く末の話を善逸に尋ねられるとは思わなかったし、これからが自分にあるなんて考えてもいなかった。

「そうですね……、まだ未定です。一人で暮らすかもしれませんが、佐藤さんは反対すると思うのでいざとなったら夜逃げします。一緒にいると安心するけど、わたしと一緒にいるのは佐藤さんのためになりませんから」
「よ、夜逃げ!? よくないよくないそれ。絶対危ないもの。俺には分かる。一人じゃ危ないから、お、俺と、暮らさない?」
「……暮らす?」
「そう!!」
「お静かに。それは……。……わたし、まだ、あなたに話していないことが、あるんですよ」
「それは俺にもあるって。それに名前ちゃんが話したくないなら話さなくていいよ。俺がきいてもいい話なら、ずっと待つし」
「……」
「名前ちゃんはさっき、おかしいって自分のことを言ってたよね、でもおかしくなんてない。俺だって名前ちゃんが傷付くのはいやだ」
「…………」
「もう、鬼はいないけど、俺は名前ちゃんを守ってあげたい。美味しいものを食べさせてあげたいし、何の心配もない毎日をおくってほしいんだ。名前ちゃんが、すきだから」
「……」

 名前は目を瞬かせ、善逸の瞳をじっと見つめる。
 すき。好き、結婚して欲しいと度々言っていたのは、冗談じゃなかったのか。名前は、自分にはもう何の望みもないと思っている。欲しいものもなければ、やりたいこともない。桑島の屋敷にいたのは恩人の温情で、蝶屋敷に来たのは恩返しだ。
 善逸の体温が、沈むことのない名前の記憶を刺激する。きっと善逸は名前を置いて逃げたりしない。名前とは違って。やさしい人だから、名前が苦しんでいたら悲しむし、困っていたら見逃したりしないで助けてくれた。
 まだ、好きという感情は分からないし、善逸と同じ気持ちを抱けるのかもわからない。けれど、善逸と暮らすのは、一緒にいるのはそんなに悪い事じゃないと名前は思えた。
 ──善逸と共にいる限り、ずっと名前は傷口を引っ掻かれて、痛みに苦しむかもしれない。それでも、だ。

「ふふ。考えておきますね」

 部屋が明るくなる。薄暗い倉庫に置いてある物、一つ一つがはっきり判別がつくようになっていく。
 二人を眩しい日の光が照らしてゆく。お互いの浮かべる表情が徐々にはっきりと見えて来る。名前がぎこちなく笑っている。善逸はその笑顔に目を奪われた。初めて名前が笑っているのを目にしたのだから、当然かもしれない。善逸のぽかんとした表情が、名前と同じように笑みを作る。

 夜が明けたのだ。