09
その日は首輪を選んだだけでSMごっこは終わった。
選んだ後は普通の友だちの様に、あの日観た映画の感想を、お菓子とジュースを味わいながら満足するまでして、それからヒロフミを見送った。
ヒロフミの背中を見送る中、もしかすると、たくさん種類のある首輪の中から選ばせること自体が、SMごっこの一環だったのかもしれない、と甘いことを考えていた。
そんな私は、また自宅にやってきたヒロフミから渡された、なんだか見覚えのある首輪に二度ほど目を瞬かせるのだった。
「これ、……、もしかして、もしかして何だけど、間違っているかもしれないけど。これ、わ、私が、選んだ」
「名前が選んだ首輪だね」
「は、はあ……、ああ……」
まともな言葉が発せられない。あの時、選びに選んだ、シンプルでましな首輪が私の手の平にある。存在してしまっている。本物だ……。夢じゃない……。
今日はお菓子も飲み物もいらないとヒロフミが私の部屋に急かした時から、何かあるなとは思っていた。いや、それよりも。学校でヒロフミが白い紙袋を持って、私の前に現れた時から。
震えそうになる手を何とか抑える。この何だか高そうな首輪を落としたら駄目だ。
私の部屋に入り、前回みたいに座ったらと促す前に首輪を渡された。……自室に案内するんじゃなかった。なんて後悔しても遅い。これから私は自室に入る度に、ヒロフミに首輪を渡された、この瞬間を思い出してしまう。実際、学校から帰ってきて、自室で寛いでいると首輪を選んだ時の記憶がちらちら過ぎるのだ。
一気に挙動が怪しくなる私を見たヒロフミは、目を細めて微笑んでいる。なんだこれ。首輪を持つ挙動不審な女子高校生に向き合う、微笑みを浮かべる男子高校生。すごい絵面だ。中々見れないだろう。
「つけて」
「え?」
「ね、これ、つけて」
ヒロフミの声が甘く感じる。私の気のせいだろうか、何故甘く感じるんだろう。
今日のSMごっこは、首輪をつけることみたいだ。首輪選びはこれの前準備だったというわけだ。
「……す、座って」
やっとの思いで絞り出した私の言葉にヒロフミはあっさり従う。立ち尽くす私の前に座ったヒロフミが次を促すように私を見上げる。私も座る、首輪をつけるなんて初めての経験だから、どうすればいいのか分からない。
ひとまず、ともたもた首輪を広げ、ヒロフミに近付く為に私も座った。……本当に近いな……。思ったよりも距離が近くて動揺する。ヒロフミの顔が見れなくて、目があったら困るから首輪だけを見つめている。あれだけ直視したくなかった首輪を今は避難所にしているのだから、何とも都合の良い話だ。
深呼吸をしてから、よしと覚悟を決めて顔を上げる。と、そこで私はヒロフミのかっちりと前が閉められた学生服を何とかしなければ、首輪をつけれないのでは? なんて気付く。まさか私が学生服を……? 無理だ、でもこのままではSMごっこを続けられない、ならどうすればいい?
「ヒロフミ……」
ぽろりと今から首輪をつける相手の名前を呟いて、私は驚く。何をやっているんだろう。これはSMごっこなんだから、M役に助けを求めるのは違うはずだ。
「名前」
「!」
はっきりとした声色で、今度は私の名前を呼ばれる。顔を上げれば、ヒロフミが穏やかに私を見つめていて、言葉に詰まってしまう。なんでそんな冷静なんだ。ヒロフミは、私に言う。
「なに? 名前、俺に、何を、して欲しい?」
何をして欲しいかと、ヒロフミに問われる。私は何をヒロフミに求めている? 私は……。
「……、ボ、ボタンを外して……」
「うん」
ぷつり。
ヒロフミの腕がゆっくり上がり、私の言う通りにボタンを外していく。一つ、二つ、三つ。全てを外し終え、中身が、白いワイシャツに、首が、あらわになる。喉の肌の色に目眩を起こしそうになる。今から私はここに首輪をつけるのだ。
鼓動が運動の後じゃないかと思うほどに動く。何度目かも分からない、自分の柔らかい箇所の輪郭をなぞられるような、恐ろしい心地。やりすごすこと、耐えることが難しい自分の中にある、否定をし続けているものが蠢く。
かつて、リビングで起こった過去が頭の奥で浮かび上がる。それを思い出して、複雑な思いを抱く自分自身。
今日のことを私は何度でもここで思い出すだろう。
「外したよ」
「……ありがとう」
ありがとうって何だ?
我に帰った私はいつの間にかヒロフミに向けていた視線を、慌てて首輪へと戻す。
首輪をこの調子でヒロフミにつけて貰えばいいのではないか? と思ったが流石にそれはやってくれないだろう。SMごっこだし、役割の放棄は許されないはずだ。
私は再び首輪に集中することにして、ヒロフミに首輪をつける。
なんとか首輪をつけ終えたので、即座にヒロフミから距離をとる。呼吸音がやけにきこえてきて、途切れそうになる集中力を叱咤激励しつつの作業となった。
冷たいフローリングに手と膝をつく四つん這いの体勢で、ゆっくり深呼吸をする。
ちらりとヒロフミの様子を確認する為に、ヒロフミの方へ目をやる。そんなつもりはないのに、真っ先に首輪が視界へ入ってきたので、私はまた目を逸らす。落ち着いてきたはずの気持ちが再び蠢き暴れ出しそうになり、意識して呼吸をゆっくりする。
まさか、犬や猫に首輪をつけるより先に、人間に首輪をつけることになるなんて思わなかった。ヒロフミは、どうなんだろう。
……今日の晩御飯はどうしよう。ヒロフミ、ご飯食べていくのかな。でも、私は自信を持って人に振る舞えるくらいの料理の腕はしていないから、さっさと首輪を外して帰ってほしい。自信を持てる腕前になったら連絡するので。
「名前、それじゃ、外行こうか」
「は?」
咄嗟になんにも考えずヒロフミの方にばっと顔を向ける。ご飯は?
ヒロフミが、首輪を指差している。長くて綺麗な指だ。
「リードをつけて、散歩に行こう」