01


 悪魔だ。目の前で笑う男は悪魔だ。
 私の嫌がることをして、嫌がる顔を見て、こんなに嬉しそうに笑っている。
 苦しい、なんでこんなことになっているんだろう。
 「名前、どう?」
 「やめて、……」
 くらくらする。目眩がする。ヒロフミのよろこびが溶けた声が頭に響き、ずきずき痛む。ヒロフミは私に首を絞められているにも関わらず、何故こんな、声のようによろこびに満ちた笑みを浮かべている?
 「俺のこと、絞めるのたのしい?」
 目を逸らせば、私の手を、自分の首を絞めさせる為に固定しているヒロフミの手に力を込められる。だから、逸らすことが出来ない。
 私はヒロフミが眉を顰めているところを、何故かわらっているのを、シーツに押し付けられている髪を、外から入ってくる太陽の光を受けて光るピアスを目に焼き付けないといけない。
 「名前……」
 か細くなった声。黙って欲しい。
 こうやって私の隠したい感情に爪を立てて、表に出してしまおうとするヒロフミがいやだ。でも、一番嫌なのは自分自身。
 きもちいい?気持ちがいい、気分が高揚する。ヒロフミの首を絞めている状況に、私は確かに興奮している。興奮しているのと同時に嫌悪が込み上げてくる。
 なんで、なんで私は人を傷付ける行為に興奮するんだろう。
 どうして、ヒロフミはこうやって私が隠したい私の秘密を暴こうとするんだろう。

 昔から親しい人の泣き顔が見たい、泣かせたいという欲求があった。赤の他人には何も思わないし、小動物に対して虐めたいと思わないのが幸いだった。これが赤の他人、小動物相手にも込み上げてくるものだったら、私は自分にもっと失望していた。
 自分の抱く欲求に違和感を覚えたのは国語の教科書に掲載されていた文豪が書いた小説を読んだ時だ。驚いたことに登場人物の誰一人も私と同じような欲求を抱いている描写が全くなかったのだ。
 ショックを受けた。
 私は人とちょっと違うのか、と厨二病みたいなことをまず思った。だって他の人にもあって当然だと思っていたのにその描写が一文どころか一文字も存在しなかったのだ。当時の私が思ってしまうのも無理はない。
 そんなはずはない、とこれまで国語の授業でしか読んだことが無かった文字だけの本を図書室で借り読み漁るようになった。しかし、私は読めば読むほどその思いを強めていった。
 焦ったように自分の求める文章を探す私は色々な本を手に取った。読めない漢字は頑張って辞書を引いて調べたのをよく覚えている。頑張れば探しているものが見つかると信じていたのだ。
 頑張りは実って、私は探していた文章を見つけた。望んでいたものとは違ったけど。
 その本はSF、というか怪奇をテーマにした小説で個性的な登場人物が魅力的だ。で、その登場人物たちが交わす会話に「マゾ」という単語が出てきた。
 マゾ。
 主人公がツッコミとして相手の子に厳しい言葉を浴びせた。にも関わらず、厳しい言葉を浴びた子はそれにショックを受ける様子は無く、かといって泣くわけでもなく、頬を染めて嬉しそうな反応をしたのだ。そんな相手の子の反応を見た主人公は「マゾかよ!」と叫ぶ。
 ……といった場面だ。私は「マゾ」に引っかかりを覚えた。
 本はあらゆることを教えてくれる。ことわざ、便利な裏技、遠い国の言葉の和訳、哲学、プログラム言語、パソコンの使い方。
 自宅のパソコンに「マゾ」と打ち込む。厳しい言葉を浴びせられて喜ぶ? つまり苦しい思いをすると喜ぶってこと? 人に苦しみを与えたいと思っている私とは、逆の。
 パソコンは淡々と結果を出す。
 マゾ。マゾヒズム。人に痛めつけられると興奮する。反対にはサド。サディズム。人を痛めつけると興奮する人。
 はっとする。
 それから私はサディズムについて調べに調べた。調べ終えて、まず最初に思ったのは、おぞましい、だ。自分が受け入れられなくて、気持ち悪くて仕方ない。サディズムの人を否定するわけではないが、そういった感情が湧き上がってくる。
 検索履歴を消し、サイトを消し、シャットダウンをしてのろのろとパソコンの前から退き、自分の部屋に戻った。
 泣いた。
 ひとしきり泣いた私は自分の欲求を、性癖を隠すことにした。なるべく人を傷付けずに生きていこう。自分自身に嫌悪を抱いた私はそういう結論を出した。
 悪癖は矯正できる、なら性癖だって矯正できる筈だ。だから大丈夫、私は大丈夫。
 そう思っていた。

 ヒロフミは男で私よりずっと力がある。だから私の抵抗はささやかなものとして処理され、行動を好き勝手に強制された。
 私の記憶じゃ、いつも通り一人暮らしをしているヒロフミの部屋に遊びに来ただけで、あんなことになる伏線とかは一切無かったはずだ。
 ヒロフミの意味の分からない行為に私は疲れ切っていた。起き上がる気力がない、ぐったりヒロフミのベッドに横たわる私は、やっと外れた手を隠すように体の下に入れる。私とは反対にヒロフミはケロッとした顔でベッドに腰掛け、私のことを見下ろしている。
 「大丈夫?」
 「………なんで、急にあんなことを、させたの」
 先程までの熱が嘘のようだ。
 夢だったのか。と思い込もうにもヒロフミの首にはっきりと私の手のあとが残っているので全く思い込まない。というか、ヒロフミはあの跡をどうやって隠すんだろう、まだタートルネックを着る季節じゃないし、デビルハンターで負った傷だと偽り、包帯を巻いて隠してくれたらいいんだけど。切実に、本当に。それにしても私だってヒロフミの手のあとが残っていてもおかしくないのに、なんで残っていないんだろ、不思議だなあ
 現実逃避に勤しんでいた私の耳に、愉悦を含んだ声が届く。
 「なんで?」
 嘲りのようにもきこえる声に、びくりと肩が震える。
 なに、その声。
 いやな予感がする。いやな予感なんて、ヒロフミが強いてきた行為の前にしなかった時点で、当てにならないものだとわかっているのに。
 私はヒロフミの方を再び見る気になれなかった。どうにも嫌なことを言われるような、嫌なものを見せつけられるような、嫌な事実を突きつけられるような……。
 「名前がよろこぶんじゃないかと思って」
 家に帰った。
 ヒロフミが一人暮らしをしている部屋から、半端な靴の履き方をして飛び出した。肌寒い中を走る。私の家はここから近いからすぐに帰れる。帰って、布団の中に閉じこもろう。そして、そうして? どうするんだろうか。どうせ明日、顔を合わせるっていうのに。


 吉田ヒロフミ。小学生からの同級生。危険なデビルハンターの仕事を高校生からしている。
 私が本を読んで、欲しい文章を探している時に同じクラスになった。いつの間にか一緒に帰って、喋って、お互いの部屋に遊びに行くくらい仲良くなっていた。その付き合いは別のクラスになっても、高校になっても続いている。ヒロフミがピアスを開けた時、初めて彼女が出来た時、デビルハンターをしていると言われた時の思い出が出てくる。思い出の中のヒロフミは基本変わりない。外見のことではなく、中身のことだ。流石に外見が変わらなかったら怖い。きちんと歳を取り、幼さは抜けていっているし、身長は高くなっている。
 ヒロフミは昔からどっしり構えている肝の座った……、何事にも飄々とした態度で接する。大きな事件が側で起こっても喚いて慌てふためくこともない。つまり、頼り甲斐のある男の子だ。私は案外臆病で人目を気にするので、堂々としているヒロフミに助けられてきた場面が多々ある。まごつく私の手を引っ張ってくれたことだって、──手を、無理矢理くびにもっていかれた──ある。
 だめだ。
 どうしてヒロフミがあんなことをしたのか分からない。ヒロフミは私がよろこぶんじゃないかと思って、と言っていたけれど、どうしてよろこぶだなんて思ったんだろう。ううん、心当たりはある、あるからヒロフミの言葉をきいてすぐに逃げ出したのに。認めたくないが、ヒロフミに私の隠したい性癖がバレてしまっている、のか?
 なんでバレたんだ、と冷や汗が出る。私がどこかで加虐を滲ませる発言をした?
 分からない。
 一応、気をつけているが無意識にぽろりとこぼしたりしていたら、どうしようも無い。思い出せる範囲で怪しいところはないかを探ってみるが全く思いつかない。

 むくりとベッドから起き上がり、腫れ上がった瞼を何とかしなくてはと涙を拭いつつ、自分の部屋から出た。
 家の中は暗く、もうとっくに夜が来ていたことを知る。電気をつけてから階段を下りる。
 一階はいつも通り誰もいない。証拠に耳が痛くなるくらいに静かで真っ暗だ。私はいつも通り自分の過ごす場所の電気を点けたり消したりするのだった。
 私の両親は共働きで、毎日夜遅くまで働いている。朝に顔を合わせること、休日に一緒に出かけることはある。けれど、私は一人でいる時間が多い。だから一人で思い切り悩む時間がたっぷりある。それが解決になるとは限らないけど。
 夕飯を済ませ、片付けをする。ちゃっちゃと終わらせ、テーブルの上に白湯を入れたコップをのせて、その前の椅子に座る。
 ……ヒロフミはどうしたら私がよろこぶと思った行為を強制させてきた?
 つまり、私はヒロフミがあんなことをした理由を知りたいのだ。
 いやがらせ? 確信を得る為の証拠集め? からかっていた? などと一つ一つ思い付く理由を考えてみるが、どれもピンとこない。
 いやがらせ、はヒロフミはもっと遠回しにやりそうだから無し。そもそも嫌いな相手を家に上がらせないだろう。
 証拠集めは……、ありえる。私がサドだっていう確信を得たい理由は全然思い付かないけれど、これはありえそうってことは覚えておこう。
 からかい。うーん、これもありえそう。自分の体を使ってまでやるのはわからないけど、私はまたにヒロフミにからかわれることがあるので、その、うーん。……しっくりこない。
 一番ありえそうな理由が証拠集めって、私がサドである証拠になるんだけど……。
 駄目だ、私の脳みそではしっくりくる答えを
導き出せない。
 ヒロフミに直接どうしてかをきけば、恐らく答えてくれるだろうけど、代わりにヒロフミが私に何かを尋ねてくる可能性がある。
 何か、が私の性癖についてであれば私はそれに答えられない。答えたくない。自分の性癖に向き合う勇気が今の私にはないのだ。
 いずれ私が自分自身の性癖を受け入れて生きることが出来る日が来るだろうが、今はその時じゃないと思う。
 でもヒロフミはお構いなしに私のところに来るかもしれない。どうしよう。どうにかならないかな、どうにかなってくれないかな……。