02


 憂鬱なまま学校へ向かう。
 が、私の安心させるようにヒロフミは学校に来なかった、不在だ。先程までリビングで天気予報を眺めていた際、悪魔がここの近くに出たと速報が天気予報の上に出ていたので、おそらく朝から悪魔が現れ、その悪魔の対処にヒロフミは駆り出されのだろう。予想していた最悪な展開が起きなくて安心すればいいのか、先延ばしにされたことに冷や汗をかけばいいのか分からない。
 ひとまず昨日の出来事は忘れ、いつも通りに一日を過ごす。ヒロフミとは別のクラスだが、ヒロフミは目立つ人間だから学校に登校してきたら騒がれるのですぐに分かる。
 幸い涙のあとは消えたのか追求はされず、授業を受け、友だちと話し、学校から当てられている役割をこなし、といつもと同じように時間は過ぎていく。
 あまりにも淡々として波がないので油断していた。

 友だちと別れ、一人今日も誰もいない家に帰る。昨日はヒロフミと遊ぶ約束をしていたので二人で帰ったが、今日は何の約束もしていないのでゆっくりと一人歩く。友だちとファミレスでお喋りをしたいが、もう今月のお小遣いがほとんど残っていないから諦めるしかない。家に行く案も出たけど、友だちの家は今日おばさんの友だちが来るため無理で、私の家はおもてなしが出来ないため遠慮してもらった。友だちは気にしなくていいって言ってくれたが、私の気が済まないので、申し訳ないけど次回に期待して欲しい、ごめんね。
 家に着いた。中に入るため、鍵を探す。
 今日、ヒロフミは来なかった。それだけ現れた悪魔が手強かったのだろうか。悪魔をテレビ越しでしか目撃したことない私はどれほどの強さと凶悪さを悪魔が有しているかは分からないが、過去に起きた事件を死亡人数をもたらした被害を調べたり、習ったりする度にヒロフミ、デビルハンターの人たちはこんな存在と戦っているのかと実感して恐ろしさを抱く。
 大丈夫かな。気まずさと不安にぐるぐる渦巻く私の中に心配が新たに生まれる。ヒロフミ、怪我してないといいけど。
 今日はスカートのポケットに入っていた家の鍵を取り出し、かちゃと差し入れる。
 「名前、奇遇だな」
 くるり、回る。がちゃん、と鍵が開いてしまう。
 聞き覚えのある声の方に振り返る。もう、このまま知らないふりをして、鍵が開いたドアを引いて家の中に入ってしまえば良かった。私はいつも選択の間違え、後に引きずるような後悔をする。
 私と目が合ったヒロフミはいつもと同じ笑みを浮かべ、私を伺うように首を傾げた。
 「ね、いれてくれる?」


 もてなしが出来ないからと遠慮してほしいと抵抗をしてみるも、大丈夫だから気にしないからで押し切られて失敗に終わる。
 すさまじい心境でとりあえずリビングに案内して、自分が朝に飲むジュースをせめてものもてなしでテーブルについたヒロフミに出す。
 「はい……、どうぞ」
 「ありがとう」
 私もヒロフミの向かいに時間を稼ぐようにゆっくり座る。私の前にはコップも何もない。ちらりと前に座るヒロフミを見る。学校に来なかったにも関わらず、学生服をきっちり着ている。私が密かに切実に捧げていた祈りが通じたのか、デビルハンターの仕事で怪我をしたのか判断のつかない。学生服の隙間から見える包帯が首に巻かれている以外、昨日と特に変わりない。
 「……怪我は、ない?」
 「うん、大丈夫。そんな手強い悪魔じゃなかったよ」
 「それは良かった。でも、学校には来なかったよね……? 後処理に時間でもかかったとか」
 「ないしょ」
 「ああ、うん。なるほど、なるほどね……」
 デビルハンターについてヒロフミと話をしても、内緒とはぐらかされることが多い。しかも、かなりの頻度だから随分と多くの秘密を抱えた職業なんだろう。大変そうな仕事を学生のうちからやっていて、学業と両立させているヒロフミはおそらく職場でかなり期待をされていそうだ。
 私の出したジュースを飲んでいるヒロフミを眺める。
 何をしに来たんだ? というか、そもそも奇遇だねとか言っていたけど、私の家とヒロフミが一人暮らしをしているところは近いが、デビルハンターの拠点、ヒロフミの家、私の家、みたいな感じだからデビルハンターの仕事帰りに私の家の前を通るなんてkとは起こらないはずだ。
 ……何をしに来た、なんてととぼけてみたものの、私だって薄々昨日のことについて話しに来たのだと察られる。私は昨日、逃げ出したんだから。
 「昨日、なんでいきなり帰ったの」
 「……、……、……ええ、と」
 随分、ストレートにきいてきたな。
 「よろこべなかった?」
 「……よろこぶ、とか……、言われても、そんな私は……」
 ごにょごにょと言い淀む。
 しかし、ヒロフミの言葉は断定的だ。私の性癖を確信していることが伝わってくる。
 何でバレた?昨日散々私を悩ませた疑問。確信できるくらいの証拠をヒロフミは手に入れている、とでもいうのか。ヒロフミは一体どこから証拠となりえる私の綻びを見出したんだろう。会話? 目付き? 所作? 雰囲気?
 ぞっとする。バレたから、こんなことになっている? ヒロフミの行動は証拠集めでもからかいでもいやがらせでもない。ここにきて、考えが分からなくなったてしまったヒロフミが私の目の前にいる状況をきて気付く。
 確信していたとしても、それでも私は誤魔化しの言葉を吐く。
 「私は、ヒロフミの首を絞めることを強要されて、よろこぶ人間じゃない……。変なこと、言わないでくれる?」
 嘘。私は人を痛めつける行為によろこびを覚える人間だ。でも、認めたくないから嘘を吐く。自分を騙す、自己暗示。人間は思い込みだけで死ぬ生き物だという。なら、性癖だってどうにか出来るんじゃないのか?
 「嘘だろ」
 ヒロフミが私の嘘を切り捨てる。残酷に、びっくりするくらい軽快だった。
 私が咄嗟に口を開こうとしたと同時にヒロフミが椅子を引いて立ち上がる。
 何? もしかして私みたいに話の途中で帰るのか? と半端に開いた口をそのままにヒロフミの動きを目で追う。バクバクと激しく脈打つ自分の心臓の音をききながら、一つも見逃さないように、じっと。
 ヒロフミは無駄のない動きで椅子に座っている私の後ろに立つ。
 リビングから逃げるには……、私の家だから逃げ場がない。昨日はヒロフミの家だったので逃げても問題が無かったが、今日は私の家にヒロフミがいるのだ。玄関で押し切られた私が悪い。ヒロフミに口論で勝ったことのない私が悪い……。
 思考がネガティブな方へ向かう。ネガティブにもなる、だって、私はいま何を考えているのかが全く分からないヒロフミを逃げ場のない我が家で相手にしている。危機感しかない。
 ……心がぱきりと折れた。自分が招いた状況があんまりで……。
 周りが見えなくなるくらい考えていた私の視界にヒロフミの腕が入る。ヒロフミの手が太腿の上に置いていた私の両手から左手だけを掴み、テーブルの上に導く。私はされるがままに従う。抵抗する気力がない、もう諦めの気持ちだ。
 どうした? 私、指でも切り落とされるのかな。指一本無くなるだけでも結構生活が不便になるって聞いたことあるけど、実際どうなんだろう。
 テーブルの上に手の平を寝かせられる、かと思えばヒロフミの手が私の手の平を覆い隠すように重ねられる。手の平と手の平、の間に何か違和感を覚える。何かある。
 ふと、ヒロフミの顔が私の顔のすぐ近くに寄せられた。呼吸をする音が耳元でして、側にいるんだと強く存在を感じた。
 ヒロフミの指が動かして、私の指をやさしく何度も撫でる。促すような動き、だと思った。
 心が折られたショックからヒロフミのなすがままになっていたけど、流石に意図の読めない接触には恐怖を覚える。固まって動けないでいる私なんてヒロフミにとってはどうでもいいのか、「握って」と囁いてくる。今、私の家には私とヒロフミの二人しかいないのだから、普段と同じくらいの声の大きさでいいんじゃない? 握って、と囁かれたわけだが、左手に置かれているヒロフミの手を握ればいいのかな。そう判断して指を動かせば、するりとヒロフミの手が抜かれる。本当に何だ? ヒロフミの手を握ればいいんじゃなかったの? 訳が分からない。結局手を握りしめたけど、ただグーにしただけになっちゃった。
 手に違和感がある。──視界に何か入っている。手を開けようとすれば、ヒロフミの手が再び私の手を覆ってきた。遮るように。
 「ね、見なよ」
 ゆらゆら白いものが揺れ、そちらの方に視線を向ける。幅のある布っぽい素材。見覚えのある、仕事をしてきて怪我を負ったヒロフミの腕で見たような気がする。嫌な予感が私の背を這う。私の後ろにいたヒロフミが白いものと共に視界に入ってくる。
 ヒロフミと目が合う。
 きっちりと閉めていた学生服を全開にさせ、ぐるぐる隙間なく巻かれた包帯が喉仏辺りで結ばれている。それはいい、問題は結ばれた片方の包帯の長さがすごいことだ。すごい長い、そう、白い包帯がひらひら伸びている、伸びて、私の左手におさまっている。
 目が逸らせない。
 「どう?」
 「………………」
 「名前、自分がどんな顔をしているのか、わかる?」
 「…………」
 「この包帯の下、みんな見たら驚くだろうな」
 「………………」
 「俺のお願い、きいてくれるよな?」
 「……はい」

 ヒロフミのお願いは『SMごっこ』をしよう、だった。
 全く考えていなかったお願いに虚をつかれる。私がサドであると何故か確信していたヒロフミに何をお願いされるか死刑を待つ囚人のような気持ちだったのに、今は衝撃で言葉が浮かばない。
 私が黙り込んでいる内にヒロフミは私がサドでこっちがマゾと役割を振り、「セーフワード」を決め、こういうことをしたいとかある? と形だけ尋ねられる。そうやって、どんどん『SMごっこ』は作られていく。私の意見はいらないらしい、きっと尋ねられてもまともに答えないのでヒロフミの判断は正しい。
 無理矢理ヒロフミにさせられた首絞めのあとを第三者に見せるともきこえる発言に動揺と恐怖で頷いた。正直、デビルハンターをしているからか遅刻早退欠席が多いながらも、きちんと学校生活を過ごしていて、しかも顔がいいヒロフミと大人しくて目立たない私、どちらの言うことを信じるかどうかをきかれたら、ヒロフミの方を信じる人の方が多いだろう。私は穏やかに日々を過ごしたい、同級生の首をあとが残るぐらいの力で絞めた女と思われながら学校生活を送りたくない。
 頷いてしまった私は、『SMごっこ』をする度に、嫌悪する自分の性癖と向き合わないといけないのか? それは、辛い。というかサドだと確信している私に『SMごっこ』を提案したってことは、ヒロフミはマゾなのか?
 「違うけど」
 違うらしい。
 「なら、どうして? 私がよろこぶからってそれだけが理由?」
 ずっとききたかったことを勢いのまま尋ねる。どうして、あんな自分の首を絞めるように私を強制させ、今この場で包帯で出来た首輪のリードらしきものを握らせている?
 よろこぶかと思って、というヒロフミの言葉に一度目は逃げ出した、二度目は否定したが嘘だと一刀両断されて終わった。私は、ヒロフミの返答を待つ。ヒロフミはそんな私を真っ黒い瞳に映す。それから、あの日を彷彿とさせるような笑みを浮かべる。
 「うん、そう。俺、名前のよろこぶ顔が見たいんだ」