04


 「はい、じゃあ、やって?」
 やさしさすら感じさせる声色だ。しかし、実際はやさしさの欠片すら感じない状況である。ぶるぶる震えながら両手の平を皿のようにして上げている私にヒロフミは、ぽんとじつに軽くある物を渡してくる。思ったより重くない。カチャリと音がする。
 私が今、どんな気持ちかを分かってくれる人はどこかにいないだろうか。昔馴染みから手錠を渡された私の気持ちを分かってくれる人は。


 ヒロフミはデビルハンターの仕事で忙しいらしく、会ってもSMごっこを思わせる言動をしなかった。前と変わりないヒロフミに何だか安心した気がする。こうして何もないまま、どんどん時間が過ぎちゃえばいいのに……。今日はあるかな、なかった、でも明日はあるかもしれない……。みたいに不安と安心を繰り返すように抱くのは疲れる。
 それでも人間は慣れる生き物だ。不安と安心に慣れ、薄れていく。だから、気を抜いていたのだ。
 「名前。今日、一緒に帰ってもいい?」
 「うん、いいよ」
 というわけでヒロフミと一緒に帰る。一緒に帰ってくれている友だちに断りを入れ、ている途中からでSMごっこのことを思い出した。完全に忘れていたわけじゃない。保存のきく缶詰を万が一の備えで買い、戸棚にしまっておいたとする、その存在をふと思い出すみたいな……、一度見たインパクトの大きい珍しい物もしばらく見なければ、どんどん忘れていくみたいな……。全然上手な気持ちの表現が出来なかった。
 とにかく、SMごっことヒロフミに聞きたいことを思い出したわけである。
 私は再びあの不安が湧き上がってくるのを感じた。けれど、前よりかは小さい。今日は多分大丈夫なんじゃないか、と謎の自信があった。今日まで何にもなかったんだから、そう思ってしまう。
 私は割と前向きである。正しく言うと、前向きにならなければ、自分について悩み過ぎて苦しくなってくるので、前向きになるよう意識して努力している。
 そう思うことで自分を安心させ、友だちに話しを終えて、私は放課後を静かに待つ。
 そんなこんなで私とヒロフミは一緒に帰る、ぎくしゃくしてしまうかなと心配になったが、私の口は普段と変わりなく今日あったこと、些細なことを話す。そして、ヒロフミも私の言葉に頷いたり、自分に起こったことを返す。
 安心した。自分の大丈夫が本当に大丈夫で終わるんじゃないかと深い安堵を中心に明るい気持ちになっていく。足取りが軽くなった気がする。
 それで、お互いの家に向かって歩き出す分かれ道で私たちは別れ、ずに歩き出した。軽やかに帰ろうとした私の手首を掴んで、自分の家の方向へ自然に連れて行ったヒロフミって本当に優秀なデビルハンターなんだろうな……。私の抵抗なんて、ものともしなかったし。
 引き摺られながら、久しぶりにヒロフミの家に来た。
 家具は増えても減ってもいない、位置だってそのまま、特に前に来た時と変わりない。きょろきょろと落ち着きの無いさまで私はヒロフミに連行されていく。流れる様にガチャリと大きく開いた部屋のドアに吸い込まれた。ヒロフミの部屋も、前……と同じ、だ。
 駄目だ。ここで起こったことを思い出してしまう。きょろきょろ状況を理解しようと忙しなく見渡していた動作をやめた。もう、ヒロフミのことも見れなくなった。私の手首を掴んでいるヒロフミの手を意識してしまって、体温が更に私を追い詰めてくる。
 意識しない、意識しない……。頭の中で何度も唱える。
 その間に手首から手を離されて、カーペットの上に座る様に促される。促されるままに座る。ヒロフミはその側のベッドに腰掛ける。なんで? 小さなテーブルを挟んだ向こうに座ればいいのに。しかも、距離が近い、離れてくれないかな。
 「うん、それじゃあ、やろうか」
 「な、何を……」
 「ごっこ遊び」
 「…………、は、はい」
 はいって言っちゃった。今から何とか撤回できないかな……。ちらりと様子を伺うと目が合った。すると、先程まで私の手首を握っていた手をゆっくりと動かして自分の首を指さす。手のあとが消えてないって言うわけ? はい、頑張ります。
 ……何をするんだろう。
 どうしてこんなに緊張しているのかといえば、私がSMプレイについての知識だけがあるからだ。人を痛めつけたいと思ってしまう自分のことを知らなくてはと思い、パソコンで調べたときに出てきた検索結果、慎重にクリックして内容を見まくった。だから、少しは知っている。そして、ヒロフミにSMごっこをしようと強引に決められた日に、一応確認として再び調べたが、こんな緊張するなら調べて記憶を更新しなければよかった。でも、ぼんやりとしたままの知識でSMごっこに挑むのは勇気がいる。
 どきどきばくばく脈打つ心臓の音をききながら、ヒロフミの動きを見張る。
 「これ、ドラマで見たことあるだろ」
 と、カチャカチャ音を立てて、ヒロフミが私の目の前に出してきたのは手錠だった。
 ?
 手錠。銀色の、よく刑事ドラマで目にする犯人を確保する道具。……いきなり手錠から……!? SMごっこをするの、今日が初めてだよね? 一回目だよね。もしかして私がショックのあまり記憶を飛ばしていて、すでに何回かやっているのか? そんなわけないな……。動揺しすぎておかしなこと考えてちゃった。これって体調不良だよね、帰ってもいいかな。


 昔馴染みから手錠を渡された私は、手錠の重みに目眩を起こしていた。
 本物ではないはずだ、ごっこ遊びの為に本物の手錠をどこからか違法に入手してきたとしたら、ヒロフミはヤバい人間だ。デビルハンターが法を犯すな。ということでこれは本物に限りなく寄せられて作られた偽物。職人が作ったのだろうか、よく出来ているなあ。
 やって? と言われたが、この手錠をどこに……かければ……、手、足、ちらつく知識が鬱陶しい。確かに知識を使用するのなら、SM ごっこが始まりそうな今だが、そうじゃないだろう。
 ひどい顔をしていたのか、ヒロフミが私に「ほら」と手首を差し出してきた。
 ドラマみたいだな。刑事ドラマか、なんだかんだで最近観ていないなあ。今、どんな感じの刑事ドラマがやっているんだろう、また観てみるのもいいかも。
 現実逃避をしながらも私は手錠を片手に持ち、ヒロフミの手首を前にする。ヒロフミの説明を聞きながら、私はヒロフミの手首を見た。
 私のと比べると骨の太さが違う様な気がする。まずそう思った。頑丈そうで、肉付きは悪い。手首を辿っていくと手のひらがある。全体の形が良い、五本の指それぞれの長さも、美術の授業の際に模写の見本に選ばれそうなくらいにバランスがとれている。骨と筋が浮き出てるのが分かる。デビルハンターをこうなったのか、それとも元々そういう手の形をしているのか。
 露わになっているヒロフミの手首に、私の手の中におさまっている手錠。
 なんてことない、手錠なんて非日常でテレビでしかない物が出てきたから、動揺しただけだ。震えているのは、口元が引き攣るのは緊張からで、それ以外に理由はない。
 息を深く吸う。吸って、吐いて。吸って。一思いに、何にも思わないように。
 カシャン。音は高く、手の平から伝わってくる動きはかろやかだ。
 随分と眩しく感じる視界でヒロフミの片手首に手錠がかけてあるのが見えた。いつの間にか止めていた息をか細く吐く。ほら、たいしたことない。勢いのまま、もう片方の手首にも手錠をかけてしまおう。
 「上手」
 銀色を揺らして、ヒロフミが言う。わらいを、含ませた声が響く。自由のきかない両手を私の目の前で動かす、見せつけるようだ、なんて。
 どうして。
 どうして私がサドだって分かったの、と口を動かして言葉を出そうとした。けれど私の口は動かない。口元が更に引き攣り、視界の淵が黒くなっていく。ヒロフミはそんな私をおろそしく思えるも、好ましいとも思える目で見る、映す、私は顔を伏せる。
 「大丈夫だって、名前」
 やさしい声。でも私はきっと、それを望んでいない。その声じゃなくて、私はもっと……。
 俯いた私の頭をヒロフミが自由のきかない手で撫でる。静けさに満ちた部屋で、手錠のカチャリカチャリと心が騒つく音が響く。
 ……しばらく、何も考えたくない。何も。