一つ残らず心奪ってく
ガッ、ガンッ!と、玄関扉が鳴る音を聞いた。余程強い力が伝わったのか、音の余韻が長く玄関に響いている。
お陰で目は覚めたが、重たい瞼を開く気にはならない。きっと隣の住人が通りかかり様に荷物でもぶつけたのだ。気に留めるほどのことではなかった。
布団を被り直したところで、聞き覚えのある鈴の音と鍵が開けられる音が聞こえてきた。乱暴にドアが開かれたかと思えば、廊下を歩いてくる音さえもうるさい。
目を開ければ、ストレートタイプの加工ジーンズを纏う脚が見えた。淡い空色をしたそれはポートガス屋がいつも履いているものだ。こうして目にするのはおよそ一ヶ月ぶりだろうか。
「うっわ、これ全部チョコ?やべぇな」
嬉々とした声を出すポートガス屋は、置いていた紙袋をテーブル上で逆さまにした。持ち帰ってから3、4日経過するというのに、未だに食べ切れないチョコレートギフト。ベッドに腰を下ろしたポートガス屋は、山にしたそれを漁り始めた。
遮光性のあるカーテンをきっちり締め切っているので、部屋は薄暗い。その中でポートガス屋は黙々とチョコレートを口に運んでいく。微かにチョコレートの匂いが香った。
「……もっと静かに入って来れねぇのか、お前は。……ドア殴ったろ」
そんな彼をぼんやりとして目が覚め切るまで眺め、ふいに声を掛けた。空気が乾燥しているのか、予想以上に掠れた声が出る。
振り返ったポートガス屋は白々しい様子で「あ、起きた?」と笑った。
「蹴ったけど殴ってはねぇよ。だって鍵掛かってんだもんよ、イラついちまって、つい」
「当たり前だろうが。そもそも来るなんて聞いてねぇし」
「聞いてなくても来ると思うだろ?付き合って初めてのバレンタインデー……が、あった週の週末だぜ?」
「どの口が言ってやがる。思うわけねぇだろうが」
イベント事に全くと言っていいほど興味がないくせして、バレンタインデーなんてよく言ったものだ。
クリスマス、年末年始、誕生日でさえもバイトに勤しんでいたのは誰だというのか。バレンタインデー前の週末もバイトだと抜かし、当日の「会うか?」という連絡にも「会わない」と寄越したのは誰だ。
興味がないのなら今さら話題に出すな。
「なんだよ、」ポートガス屋は俺の苛立ちを見透かしたように笑う。「拗ねてんのか?一丁前に、……忙し、」
「もうテストも終わって、大学は休みだろ」
「俺じゃなくて、お前がだって……」
だからこうして、休日の朝一番に来てんだろ。わざわざ早起きして準備して来てんだ。なのに鍵閉めてるからイラついたんだ。と、ポートガス屋はチョコレートを口に入れながら続けた。
「バカ言え、お前の相手をするくらいの暇はある。だいたい、こういうイベントは前倒しでやることはあっても遅れてはやらねぇだろ。それともアレか?コンビニの値引きされたチョコでも持って来たか?」
「なんで俺が?だいたい、そんな痛ぇことしねぇよ。誰からも貰えなかったから自分で用意してる感がすごいじゃねぇか」
ポートガス屋はそう言って嫌そうに眉をひそめた。
では何をしに来たのと言うのか。まさかチョコレートの消費を手伝いに来たわけでもあるまい。
問えば、ポートガス屋は「消費?」と意外そうに片眉を上げた。「律儀に受け取って、そのうえ自分で消費してんのか」と怪訝な顔をするポートガス屋は、捨てればいいのにとでも言いたげだ。
「うるせぇな」ここで捨てられる性格であったなら、どれだけラクなことか。「嫉妬でもしてんのか。こんなのは風物詩の一つだろ」
俺の台詞にエースは軽い調子で笑った。
「モテる男ならではの風物詩だな」
それから、空にしたチョコレート菓子の箱をテーブル上に放ると、手を付いて顔を寄せてくる。唇が触れるか触れないかくらいの距離だ。
目を据わらせたポートガス屋は微かな声で囁やいた。そして口元だけをにんまりとさせて笑う。
「女にキスされんのも、風物詩のうちの一つか?」
ポートガス屋の声が脳内で反復されると同時、唐突にその当時の映像がフラッシュバックした。ひと気の引いた最寄り駅。見知らぬ女。紅潮した白い頬。人工的な甘いにおい。首に回った手。嫌な感触、嫌な気分。俺は嫌だったんだ。
思い出された全てを掻き消すように、すぐ側にある唇に齧り付く。本当はあの時すぐにでもそうしたかった。側にいることがわかっていたならば、縋るような気持ちで電波を飛ばさずとも一目散にこいつの元に逃げ出していただろう。
ポートガス屋は嫌がる素振りを見せずにそのまま舌を絡ませてくる。糖度の低いチョコレートを食べていたのか、あまり手入れの行き届いていない唇は想像よりずっと苦味がした。それでもグロスの塗られた唇より、幾分も魅力的だった。
「……“会うか?”は違ぇだろ?」
「……」
キスを終え、言うべき言葉を探し切れないでいる俺を他所に、開口一番ポートガス屋は言った。その声は静かに怒っている。
「……何しに来たなんて野暮なこと訊くんじゃねぇよ、準備して来たって言ったろ」
ポートガス屋の目は変わらずに据わっているが、その奥で爛々とする輝きがあった。欲情して色めき立っているのは明らかだ。
「お前、ハマり過ぎだぞ……」
手を出しそれを教えたのは自分であるが、予想以上のハマりように苦言を申さずにはいられなかった。
何も知らなかったその幼い身体にとって、セックスがもたらす快楽はよほど刺激的だったらしい。以来、会えば必ずねだられ性行為に及ぶのが常だ。
普段ならそれで構わないのだが、一見して修羅場であるこんな時でさえ盛ってこられると、俺の身体だけが目当てなのかと思ってしまう。元より、愛も感情も口では何も語らずに始まった関係だ。いつだって俺なりに愛を持って接しているが、ポートガス屋に伝わっているのかは謎である。
大量に受け取ったチョコレートを見て、実際に嫉妬でもしてくれているのなら嬉しいものだが、欲情ばかりしている様子を見るにその線は薄そうだ。
だが今は何でもいい。付き合っているなど口ばかりで実際には性欲処理係として見ていようとも、俺の気持ちを理解しておらずとも、そんなポートガス屋を欲しているのは俺だ。
何がどうであれ、ただここに居てくれるだけありがたい。
湧き出る感情を向ける先に何も誰もいないということが、何よりも一番つらいことであると俺は知っているのだ。そんな理由で、俺はチョコレートを受け取ってしまうし、あの女のことすら邪険にし切れないでいる。気持ち悪い。煩わしい。必要のないものなど与えてくれるな。そう思ったところで、俺がポートガス屋にしていることも同じようなものだ。感情の押し付け。自分がしてしまうから、あの女の気持ちもわかるから、必要のないものを断ち切ろうと高めた感情は振り出しに戻る。
俺はあと一歩のところで非道な人間になり切れない。
ポートガス屋は俺にかかっている布団を捲るために上体を起こしていた。半分まで捲ったところで上に乗っている自分に気が付く。自分が邪魔で捲れない。この状態でどうやって捲り切ろうか、一度降りようか、そんな程度の低い事柄で迷っているらしかった。
純粋に羨ましく思う。頭の中でぐるぐると回る雑念を払いのけ、その迷いを欲するようにポートガス屋を掴み寄せ再びキスをした。
身体を反転させて馬乗りになると、ポートガス屋の邪魔をしていた布団が今度は俺の邪魔をする。
「……これは確かに迷うな」
いつも無我夢中になって大雑把にやっていることをあらためて丁寧にやろうと思うと、迷いが生じる。いつもどうやっていただろうか、むしろ布団の上から馬乗りになったことなどあっただろうか、剥いでから馬乗りなっていたのでは。
頭の中でぐるぐると回っていた雑念は、見事にポートガス屋の浮かべていた迷いにすり替わっていた。
悶々とする俺にポートガス屋は「だろ?」と笑いかけてくる。憂いのない可愛いらしい笑顔だった。そうやってポートガス屋は、このじれったい迷いすらも奪い取っていく。
布団の剥ぎ方の問題など、いつもどおり、感情が高まって無我夢中になれさえすれば解決するのだ。
性欲を発散させたあとで襲ってくる気だるさと、すぐ側にある温もりに身をゆだねていると、テーブル上に山積みになったチョコレートが目に入った。何も考えず、ただ静かにしていだけなのに、目障りな物が邪魔をする。
「……、どこかに行きてぇな……」
受け取ってしまったチョコレートを見て思うことは、このままこの左腕の中にある温もりだけを抱えて、二人きりになれる場所へ行きたいということだった。いっそ他の誰もいない二人きりの場所へ行けたなら、煩わしい感情を向けられることもなくなるのに。
その思いと呼応するように、ポートガス屋の肩を抱き寄せる手に力が入っていく。それを受けたポートガス屋は「んっ」と小さく息を詰まらせた。身じろぎ窮屈そうにしていることはわかるが、今だけは力を緩める気にはなれなかった。
「……どこかってどこだよ。遊びに行くのか?」
「……バイトか?」
「いや、今日はねぇけど。行きたいとこでもあんのかよ?」
ポートガス屋が思い浮かべている場所は、行きつけの服屋か、はたまた本屋か。いずれにしろ俺の思っている場所とは全く異なるだろう。俺はどこか二人、誰もいないところへ行きたいのだ。わざわざ人のいる場所へなど行きたくもない。そんな場所へ赴くくらいなら、まだ、一方的に向けられた好意で溢れたこの場所のほうがマシだ。
ポートガス屋に目をやれば、彼は眉間に薄っすらと皺を作っていた。どこか不安げだ。
「そうだな、メシでも食いに行くか……腹減ったろ、」言いながらテーブルに背を向けてポートガス屋の胸に顔を埋める。「何食いたい?」
「……ピザ」
ピザ、それを聞いていくつかイタリアンの店を思い浮かべた。歩いて数分の場所にもあるし、数駅離れた駅前にもおいしいと評判の店があったはずだ。それとも、車を出してドライブがてら遠出でもしようか。そうすれば、どこか遠くポートガス屋を連れ去っているような疑似体験が味わえるし、数日前から取り巻くこの鬱蒼とした気分から離れられることもできそうだ。
そう考える俺の耳に、「宅配がいい」という新たなリクエストが入ってきた。
目を開け顔を上げると、ポートガス屋が枕元に投げていた俺のスマホを差し出していた。ロックを解除するように促される。反射的に暗唱番号を言うと、ポートガス屋はそれを打ち込みブラウザを立ち上げた。
「最近の宅配ピザは美味いらしいぜ」
「……デリバリーなんざいつでも食えるだろ。車で1、2時間圏内のイタリアン探せ。食いに行くぞ」
「難しい注文すんなよ。車で1、2時間の場所がどこだかわかんねぇよ」
「だいたい30キロ以上離れた場所だ」
ポートガス屋は俺の言葉など無視し、近所の宅配ピザ屋のホームページをブラウザ上に表示させた。スマホを上に掲げ、どれがいい?などと聞くくせに自分のペースでしか閲覧しない。その様子を見て、もう好きにしろと再び目を閉じた。
ポートガス屋は一通りメニューを眺めたあと、結局トップページに載っていた定番と限定が合わさったピザと、いくつかのサイドメニューに決めたようだった。
電話を掛け、住所を尋ねられたらしいポートガス屋は俺の耳にスマホを当てがう。尋ねられるまま自宅の住所を答えれば、女特有の甲高い声がそれを復唱する。酷く苛々した。
通話を終えたポートガス屋は「なに拗ねてんだよ、そんなに出掛けたかったのか?何が不満なんだ」と呆れながら聞いてきた。
「……俺はどこにも行きたくねぇけど」
ポートガス屋は寝返りをうって腕を回してくる。それから顎下に頭を滑り込ませ、強引なやりくちで腕の中に収まってきた。こちらの都合など鑑みていないその仕草はイヌネコを連想させる。肌を擽る猫っ毛も相まって、余計にその連想に拍車をかけさせた。
実際にイヌネコであったなら連れ去ることなど簡単であるのに。そんな考えを巡らせていると、言い表せられないもどかしさが募ってきて、抱き寄せる腕に力がこもった。
「ここの家の鍵、渡したのは俺だけ?」
しばらくそうしていると、てっきり寝ていると思っていたポートガス屋が唐突に質してきた。
「……持ってるのはお前だけだが、渡したわけじゃねぇ、お前が勝手に取ったんだ」
「そうだな……、でも、俺がお前の留守中に勝手に入ったって不都合なんざねぇだろ?」
「……ねぇな、言うほど勝手に入ってたこともねぇけどな」
むしろ、俺が家に家に帰り鍵を閉め、寝る準備を始めてから訪問してくることが多い。きっと、バイト帰りに寄るとなると自然とそうなるのだろう。
「お前がいる時に鍵を開けるのが好きなんだよ……、お前を閉じ込めてるみたいだろ?」
そうか俺は閉じ込められていたのか、即ちそれはどういう意味合いがあるのか。俺が考え出すよりも先、だけど今日はイラついたと、ポートガス屋は一層擦り寄って来ながら呟いた。続けて何でかわかるかと質してくる。
「……さぁな、……締め出されてる気にでもなったか」
「あー、そんな感じかも、いろいろ馬鹿らしく思って。わかんだろ?」
ポートガス屋はそう聞くが、何を馬鹿らしく思ったのかピンと来なかった。取り敢えず頷くと、ポートガスは「わかってねぇな」と笑う。
「まぁ、いいさ。お前はそうでなくちゃな」
どういう意味かと聞く前に、インターホンがなった。宅配ピザが届いたのだろう。
重い腰を上げて取りに行こうとしたところで、脱いでいたトレーナーを投げ付けられた。「外、さみぃから」と耳を赤らめぶっきらぼうに言うポートガス屋は、あまりに不意打ちすぎて目眩がしそうだった。
どうやらポートガスは俺が半裸で出ることを嫌がっているらしい。
何故なのか。
「お前、俺のこと好きなのか?」
「……いや、そりゃあ、好きだけど」
言われたとおりに服を着ながら、ふとした疑問を投げかける俺に、ポートガス屋は数泊置いて迷いながらもはっきりと言った。それからため息混じりに「……違ぇだろって」と言う。
「お前ほんと、こういうことが絡むとポンコツだな。何がそうさせてんだ。何の遠慮なんだ。プライドか?優し過ぎるのが原因か?縛り付けるのが怖いか?」
「……何の話だ。さっきから何が違ぇんだ」
「もうそんなのいいから早くピザ取って来いって。どっか行きたいなら付き合ってやるから、早く食おうぜ!」
軽いその声に促され、あきらかに四人前はある食料を抱えて部屋に戻ると、乾いた風が吹き付けてきた。ポートガス屋が窓を開け放ったらしい。
「寒い、」
「換気っ!空気悪いからな」
澄んだ青をバックにして、ポートガス屋は屈託なく笑った。眩しい光景だった。
風によって洗われた部屋では、一層手元にあるピザの香りが鼻腔をくすぐる。それはポートガス屋も同じだったらしく、ポートガス屋はレースカーテンだけを閉めてからテーブル前に腰を下ろした。
まずはテーブル上にあるチョコレートを片付けなければ、そう考える俺を他所に、ポートガス屋はそれら全て床に落とした。
そして早くそれを寄越せとテーブルを叩く。
「雑なやつだな……」
口を付いて出てきた台詞は思いとは裏腹だった。雑に扱われ散乱したチョコレートを見て、俺は何よりすっきりとした。
ぐるぐると回り巡っていた雑念は霧散し、鬱蒼としていた気分は晴れる。そして、何よりポートガス屋と俺の二人きりの場所に来れたような気分になった。ずっと行きたいと思っていた場所だ。
堪らなくなってポートガス屋の元に行って抱き寄せるとそのまま唇を奪う。
その直前で、好きだと告げれば、ポートガス屋は唇が離れたあとで「ようやく正解したな」とニヒルな表情を浮かべた。
「……俺はどこか、他の誰もいない二人きりの場所に行きたかったんだ」
ピザを食べ終わったあとで、ポートガス屋はさてどこに行くのかと質してきた。窓は開け放っているままなので酷く寒い。身を寄せ合って、ベッドから引っ張り寄せた一つの布団に包まって暖を取っている。
「ロー、なんだよそれ」
俺の返答に、ポートガス屋は半笑いになって言った。酷く驚き、どうしていいかわからないでいるような様子を見て、俺は素直に言ってしまったことを後悔した。すぐさまやっぱり嘘であると付け加えるが、ポートガス屋はそれを「嘘つけ!」と一蹴する。
「ロー!それかなり嬉しいぜっ!」
そう言ったポートガス屋は言葉どおり、かなり嬉しそうだった。
がばりと、首に逞ましい腕が回る。香るのはポートガス屋のまるでお日さまの様なにおい。数日前、ひと気の引いた駅前ではピクリとも動かなかった両腕はいま、ポートガス屋の背中に奪い取られていった。
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