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「好きです。付き合ってください」
 絞り出した声はか細かった。昨夜眠れずに考えた一世一代の告白のセリフは、彼女を前にした瞬間に頭から吹っ飛んで、平凡極まりない言葉になっていた。それでも、女子と目を合わせることさえ困難な辻新之助にとって、想いを寄せる女子へ交際を申し込むというのは、決死の覚悟を要する行動だった。
 昼休みの、人気のない階段の踊り場で、辻は頭を下げる。目の前では、ボーダー同期入隊かつクラスメイトのみょうじが「ううん」と思案顔を作っていた。唇を触るのは、みょうじが考え事をするときの癖だと辻は知っていた。玉砕覚悟で臨んだ行動だったが、早くもこの場から消え去りたい思いでいっぱいだ。やっぱり迷惑だったろうか、交際は断られるだろうか、もしかして嫌われてしまうだろうか――悪い想像ばかりがぐるぐると胸を渦巻き、顔がどんどん火照っていくのを自覚した。逃げたい、けど、逃げたくない。
「辻くんの気持ちは嬉しいんだけど、」
 死刑宣告のごとき言葉は、常におおらかでマイペースな彼女らしい軽やかさで紡がれた。
「わたし、いま付き合ってる子がいるの」
「えっ、だれ……」
 絶望と驚きのあまり、辻は思わず顔を上げて、余計なことを問いかけてしまった。わざわざ恋敵の名前を知ろうだなんて、物好きにもほどがある。どうせ彼女を奪い取る甲斐性もないのに、しかしみょうじが誰かと交際していたことがあまりに意外だったのだ。辻はボーダーにいる彼女も、同じクラスの彼女もずっと目で追ってきたが、彼氏らしき男の存在には微塵も気付けなかったのだから。
 呆然と彼女を見れば、「今朝寝坊しちゃったんだぁ」と女友達と談笑するときのような気負いのない笑みで、「ひゃみちゃん」ととある女性の名を呼んだ。
「辻くんも仲いいでしょ、ひゃみちゃん」
「え、うん」
 それは辻のチームメイト、辻がまともに会話できる数少ない女性である。
 交友関係の広いみょうじは特に氷見と仲が良いらしく、二人で一緒にいるところをしばしば見かけた。だが、何故この場で彼女の名が挙がるのか。失恋のショックを受けたばかりの辻の頭は、回転が鈍くなっていた。
「わたしね、ひゃみちゃんと付き合ってるの」
 だから、みょうじの発した言葉がどういった意味を持つのか、にわかには理解できなかった。
 つまり彼女は女性が好きで、しかも交際中の人がいるということ。
「そう、なんだ……」
 やっとの思いで声を振り絞ると、喉が震えて、すっぱい唾液がじんわり滲み出した。鼻の奥がツンとして、うなじのあたりがじんじんする。
 ああこれが失恋するということなのか。辻の目が、涙で潤んだ。泣くなんて無様な姿を見せたくないのに、堪えきれない一粒が目頭からぽろりとこぼれ落ちた。
 みょうじの手が辻の目元に伸び、親指が雫を掬う。目の前の彼女はいつも通り屈託なく笑って「よしよし、泣かないの」と辻を慰めた。
「だからさ、三人で付き合おっか」
 帰り道のお茶にでも誘うような提案に、辻は耳を疑った。涙をためた目のまま、ぽかんと口をあけた間抜け面を晒す。その「だから」はどこから繋がる「だから」なのか。そもそも三人で付き合うというのはどういうことなのか。みょうじと氷見と――俺?
「えっ、えっ?」
「辻くん、氷見ちゃんと仲いいでしょ?」
「わ、悪くはないけど……」
 けど、あくまでチームメイトとしてだ。
 まさかみょうじに想いを告げたら、氷見への好意を確かめられるだなんて、予見できるわけがない。狼狽える辻をよそに、みょうじはスマホを取り出して何かいじりはじめた。
「待ってね。いまひゃみちゃんに訊いてみるから」
「えっ、ええ!?」
 そう言って電話をかけ始めた彼女を、辻はなすすべなく見守るしかできなかった。氷見はすぐに応答したらしい。
「あ、ひゃみちゃん。ちょっと相談なんだけどさ、」
 弾んだ声で、みょうじは会話を続ける。
「いま辻くんに告白されてね。そうそう、その辻くん。でさ、三人一緒で付き合ったらいいんじゃないかなって思ったんだけど……うん、そうそれ」
 はらはらと生きた心地のしないまま、辻はみょうじと氷見の通話に耳をそばだてた。突拍子もない展開へと向かった恋を、うるさいほど響く拍動を抱えて固唾を呑む。
 辻の緊張など我関せずのみょうじは、数十秒ほど話したのち、からから笑いながら「ありがと」と言って通話を切ってしまった。そして、呼吸もままならなくなっている辻を見遣り、ピースサインを作る。
 その表情はまるで太陽の光を一身に受けたオレンジの果実のよう。底抜けに鮮やかで、素直で、瑞々しく爽やかだ。きらきらひかる瞳を向けられ、ごくりと喉が鳴る。
「ひゃみちゃん、辻くんならオッケーだって」
 やったね、と差し出された拳、それにおずおずと自分の拳をぶつけた。
「いぇい、いぇい」
 彼氏となった自分と、彼女となったみょうじの、初めてのグータッチ。辻よりも一回り小さな握りこぶしは、すべすべした手触りだった。
 三人で付き合うなんてどう考えてもおかしなことなのに、みょうじは週末の休暇を喜ぶような自然さで、ここに成立したばかりの三角関係を祝福する。まるで、みょうじと氷見が同性同士で交際していたことや、男女三人で付き合うことに混乱していた辻のほうがおかしいのではと思ってしまうほどに。
 陽が入りにくくひんやりとした階段なのに、みょうじと触れあった拳からじわじわと温かさが滲み渡ってくるようだ。想いを秘めて眺めていたあの笑顔が、いまはこんなに近くにあることが幸せでしかたなかった。
 昼休みの終了を予告する鐘でも、辻の幸福を遮ることはできない。
「予鈴鳴っちゃった。次古典だったっけ?」
「うん、漢文……でも俺、14時から防衛任務だから、」
「途中抜け?」
 こく、と首肯すれば、みょうじは残念そうに「そっかぁ」とため息をついた。彼女が辻の早退を残念がってくれるということがこんなに嬉しいなんて、恋煩いに悶々としていた午前中の自分に言って聞かせても、絶対信じないだろう。
 けれど、次のみょうじの一言で、辻は現実に引き戻された。
「じゃあ、ひゃみちゃんによろしくね」
 そう、二宮隊で防衛任務ということは、みょうじ抜きで氷見と顔を会わせなければならないということ。どういう運命のいたずらか、みょうじとともに氷見とも交際することになった事実を思い出し、辻はさっと血の気が引くのを自覚した。
 だってまさか、昨日までチームメイトとしか思っていなかった女の子が、今日会うときには彼女になるだなんて思ってない。しかも、氷見は辻を含めての三人での交際を、あの短い電話の間に了承したのだ。そんな彼女とどんな顔で会えばいいのか。
 途端におろおろしだした辻の背中を、みょうじが軽く叩いた。
「そんな緊張しなくても、普通にひゃみちゃんに会えばいいんだよ」
 あっけらかんと、先程まさに辻の「普通」の概念をひっくり返した彼女が「普通」を語る。それになんとか苦笑を返して、辻の内心はこうして大幅に縮まったみょうじとの距離をそれはそれは喜んでいた。
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