明日、いつもみたいに話せますように

 師は敬いな、と厳しかった師匠に敬語を叩き込まれたのが冒険者の始まりだ。
 常識すら分からないような彼女を拾い、生きるための術を教えてくれたその人が敬語を使うようにと言ったから、冒険者は初対面の人へはそう振る舞うようにしていた。
 独り立ちをして冒険者として旅をするようになって、国の統治者と関わることが増えたときには叩き込まれた敬語が大いに役立つ……なんてことはなく。
 冒険者があまりにも敬語が下手だったものだから、あくまで彼女が根無し草の冒険者であることを理由にして「楽にしていい」と苦笑されることが多かったのだ。

「その最悪な敬語でもいいから使っておくんだよ、いいね」
「分かった、ました? ます?」
「…………一生下手くそなんじゃないのかい、アホ弟子」

 匙を投げたとも言う。


 何かを頼まれれば二つ返事で引き受けるような彼女は、英雄と呼ばれるようになっても相も変わらず。クリスタルタワーの調査だって話を聞くなりすぐさまそちらへ向かったわけだ。
 冒険者である彼女やシドたち技術者が加わったことでノアと呼称を改めた調査一団は無事に入口を守る防衛機構を突破し、次いで塔を取り巻く遺構の調査へ乗り出そうとしていた。

「迷宮の掃討、頼めるか?」
「うん、元からそうなるかなって思ってたし、いいよ」

 冒険者部隊を率いる、という経験は帝国との戦いをはじめとして幾度かあったので、彼女はシドの言葉にすんなりと頷いた。
 その間にシドたちは周辺の残骸から防衛機構の調査を進めてくれるのだと言う。彼女にそういった知識はないから、適材適所というわけだ。

「終わったらリンクシェルで連絡を頼む。速攻で駆けつけるからな」
「了解した、です」

 彼女の敬語に一切の進歩は見られない。
 己に向けられた返答に、グ・ラハ・ティアが苦笑する。

「敬語、無しでいいぜ」

 仲間なんだし、と付け加える。
 彼女の敬語が中々上達しなかったのはこうしてぎこちなさに「敬語を使わなくていい」と言われるからだ。師が中途半端なところで匙を投げたというのもあるが。

「助かる」

 彼女も彼女で敬語は窮屈だなあ、と思っていたので、言われるがまま切り替える。
 師の言葉を律儀に守るけれど、向上心のほうは見られなかった。


 ともあれ古代の民の迷宮における掃討作戦を終えてしまえば、本命たるクリスタルタワー中枢への侵入経路の調査をしている間、彼女は暇を持て余すことになった。
 掃討作戦のほうはすんなり終わった。集まった冒険者たちは手練ばかりで、帝国との戦いで彼女と共に活躍した顔見知りたちだった、というのもある。
 そうして出番が来たと思えば早々に引っ込むことになり、退屈の余り「復活してくるかも」という名目でうろついていたら、五周目に差し掛かったあたりで邪魔だと追い出されてしまった。
 次の調査に備えていてくれ、と言われたって彼女がすることは各地での人助けだ。剣を振るうだけでなく物を作ったり、ピッケルやハチェットを手に採集に行ったり、釣り糸を垂らして魚を釣ったり、とやることに節操がない。
 時折調査地に顔を出しては剣を釣り竿に持ち替えてまた出かけて行ったり、かと思えば裁縫やら革細工やらをその場で始める彼女に感心半分、呆れ半分で声をかけたのはグ・ラハ・ティアだ。

「あんた、色々やるなぁ」
「うん、師匠がやれたほうがいいって」

 というよりは師が楽をするために弟子に身の回りのことをさせた、とも言う。
 大体のことは出来るようになった彼女は、おかげで様々な依頼を引き受けては評判良く達成していた。

「ふーん……見てていいか?」
「いいけど。そっちは大丈夫?」
「息抜き息抜き」

 実際問題、手詰まりなのだ。どうしたって開かない扉があって、シドやグ・ラハたちが様々な方法を試しているけれども、一向に成果は上がらない。
 そうした技術面では一切役に立たないことを自覚している彼女は「そっか」とだけ頷いて、依頼を受けている衣服作りに集中する。
 作り慣れたそれは特に縫い方を間違えるというようなこともなく、綺麗に出来上がった完成品にグ・ラハは「見事なもんだな」と頬杖をついた。

「いつもこんなことしてんのか?」
「うん、こういうのも好きだから」
「それで剣の実力もあるってんだから器用なことだ。なぁ、あんたって他にも遺跡調査したことあるんだろ? どんなところだったんだ?」
「んー、太陽の女神? を祀って建てた埋没寺院とか?」
「カルン埋没寺院のことか?」

 そう、それ、と頷いた彼女は張り巡らされた罠を思い返す。
 なんかいろいろ、仕掛けが。がーってなってどんってなるやつ。

「ごごごってなるの。楽しかったよ」
「……あんたが説明苦手なのはわかった」

 グ・ラハにじっとりとした視線を向けられ、しかし彼が楽しい冒険譚を期待していたことも、己の説明が壊滅的なことにも気付かない彼女は首を捻る。
 たとえばその遺跡における歴史だとかを「昔に凄いものが建てられたんだなぁ」で済ませるような冒険者である。仕掛けが難しかっただとか、でも敵が手ごわくて面白かったとか。

「根っからの戦闘好きなのは分かったよ。あーあ、オレも防衛機構で手こずってなけりゃなぁ」
「終わったら、行ってみる?」
「カルン埋没寺院に? 確かどっかが発掘作業に着手してたはずだから入れないんじゃないか?」
「そうなの? じゃあ、どこか別のとこ。私は罠の解除とか苦手だから」
「オレに任せるって? いいな、それ」

 でもオレだって戦えないわけじゃないんだぜ。
 そう言って、グ・ラハは冒険者向けの募集が出ていたものを挙げ始めた。

「確かザナラーンにあるカッパーベル銅山は再開発の予定が騒乱が起こったとかで頓挫して、掃討の依頼が出てたはず」
「巨人族の? 前に依頼で行ったことあるよ」
「えっ、そうなのか? なあ、どうだった? 強いのいたか?」
「たくさん爆発した!」
「……あんたに冒険譚を期待するべきじゃなかった。じゃあ黒衣森のさ――」

 冒険者である彼女の思い出を引き出そうとしては思うような答えを得られないながらも、そうやって過ごすことはふたり共に楽しい時間だった。
 どんなところへ行こうか。そこには何が待ち受けているのだろう。

「…………グ・ラハの嘘つき」

 叶わないまま終わる、泡沫の夢だったけれど。


 傷を抱えながらも冒険は続く。
 痛みを受けてはそこから立ち直るということを繰り返すにつれて、彼女の拙かった敬語も第一世界へ喚ばれる頃にはすっかり違和感のないものへとなっていた。
 彼女たちを喚んだ水晶公を名乗るその人はフードで顔を隠した怪しい様相ではあったけれど、人々に対して真摯に向き合ってくれているように彼女には思えた。
 人を、世界を想う姿に。便宜をはかってくれたり、すごく、丁重に扱われているなぁと思ったから。
 初めにもしや、と思ったことを聞いたからかもしれない。

「グ・ラハ・ティア?」
「…………知らない名前だな。その人物がどうかしたのだろうか?」

 その塔を見た時から考えていたことだ。塔は開かれ、しかも彼は背丈も声も似ていたから。けれど水晶公は首を傾げる。
 …………そうか、違うのか。
 敬語はなしで、って言ってくれたその人じゃ、ないのか。クリスタルタワーの調査が終わったら冒険に、と言ったその人では。
 落胆を滲ませて、彼女はかぶりを振った。

「そう、……ですか。いいえ、ごめんなさい、気にしないでください」

 それなら、目上の人だから、初めて会う人だから敬語で話さなきゃ。
 じゃあ、塔と共に眠りについたはずのあの人は、どこへ行っちゃったんだろう?

 彼女には分からない。結局クリスタルタワーの技術は彼女の生きる時代ではいまだ追いつかない代物だし、それに水晶公に喚ばれたときのそれも知らない召喚術だった。クルルたちでも中々答えが出せなかったようなことを、魔法に詳しくないただの冒険者では理解出来るはずもない。
 だから彼女は知らないと言った水晶公の言葉をそのまま受け止めて、未練を遺したかさぶたから目を逸らす。
 いつかの未来へ希望を届けるのだと言ったから、そんな彼の使命を前に「一緒に行くって言ったじゃん」とは言えなかった。
 結果として叶わなくなった約束は時折彼女の傷を引っ掻いて、胸をひどく締め付けた。
 まだ英雄と呼ばれるようになって間もない頃の話だ。エオルゼアのために、と掲げられた目的に賛同こそすれども、目の前で起こる出来事を受け止めることがやっとだった頃。
 目の前で誰かがその人にとっての大切な人を失う、という場面は何度も見てきた。
 けれどそれが我が身となるのは、彼女にとってはグ・ラハ・ティアがはじめてだった。
 大切だったか、というと彼女が見てきた人たちほどではない、と曖昧な答えが出る。
 ただ約束を果たせなかっただけ。
 なんてことはないはずの冒険が出来なかっただけ。
 永遠の別れではないはずなのに、もう二度と会うことは出来ないんだろうと予感してしまっただけだ。
 それがこんなにも悲しいのだから、己が見てきた人たちの苦しみはもっと酷いのだろう、と思った。結果として痛みは痛みで、それがマシなことも酷いこともないと悟ることになったけれど。
 だから彼女はグ・ラハ・ティアを忘れることが出来ない。彼女が冒険者である限り、彼女が冒険を続ける限り。
 そこに世界を救うための、という枕詞がつこうとも。

 風化しない約束は思い出にも出来ず、抱えたまま。だから風圧にフードの取れたその人の素顔に、どれほどの衝撃を抱いたことか!

「グ・ラハ・ティア――」

 泣きそうな笑みを浮かべたその人に、咄嗟に「ゆるさない」と思った。



 罪喰いの脅威は去った。昼夜関係なく輝き続けた光は消え、世界は夜を取り戻した。
 最後の戦いを終えてクリスタリウムへの帰還を果たし、英雄の凱旋だと街は盛り上がり、もう夜だというのに異様な手際の良さで宴が始まり。
 今日ばかりは大人子供関係なしに夜更かしらしい。椅子が足りなかろうが地べたに座れば問題ないとあちこちでなんとなく固まって、わいわい賑やかに酒を飲み交わす人々。子供たちは甘いジュースやお菓子を許され、夜のクリスタリウムを駆け回って遊んだりもしている。
 立役者と言って過言ではない"闇の戦士たち"もその輪に加わり、思い思いに賑やかな夜を楽しんでいた。

「水晶公」

 楽しそうな人々を見てすっかり良い気分になっていた冒険者は、ふとフードを取り払った水晶公を見て、そうだ言わなきゃと思い立って彼を呼びつけた。
 この街の中で彼を何と呼ぶべきか、彼女は少し迷った。でも彼はこの街の人にとっては水晶公だし、と思ってそう呼べば、ピンと耳を立てて分かりやすく反応した水晶公が、その場で話していた街の人々にひらりと手を振り、グラスを持ったまま近寄ってきた。
 地面にぺったりと座ったままの彼女に目線を合わせるために、水晶公がまた同じように座り込む。

「ところで水晶公にお話があります」

 ところでも何も今話し始めたところなのだけれど。彼女が改まれば、彼もまた、すっと背筋を伸ばした。
 膝立ちになってずりずりと近寄り、彼の頬に手を伸ばし、水晶に浸食されていようが構わずつまむ。
 ひんやりするなぁ、と思考の隅で冒険者は思った。ぎゅう、と力を込める。

「塔の封印といい、火山の時といい、なんで黙って勝手にやろうとするかなこのばかねこ…………!」
「いっ、ちょ、いたっ」

 彼女にとっては肌の手触りがもちもちすべすべなのも気に食わなかった。
 水晶の部分は硬いし冷たいことも気に食わない。怒りの感情のまま、ぐちぐちと思い出した恨み節をぶつける。

「勝手に封印したくせにちゃんと報告書だけは書き上げてるし……」
「ご、ごめんって……」
「火山の時だって元々自分がいついなくなっても平気なようにしてたんでしょ用意周到め、わりに部屋の本は積み上がったままだし」
「えっあんた深慮の間に入ったのか!?」
「ちゃんと寝てたのご飯食べてたの!? ちょくちょく無理してるって聞いたよご飯美味しい!?」
「お、美味しいです……? あんた、酔っ払ってるのか?」
「酔ってない!」

 酔っぱらいはみんなそう言うので。
 夜の暗がりで分かりにくいと言えばそうだが、しかし彼女の頬は赤らんでいるし、頬をつまんだままの手は熱い。
 クリスタリウムに帰ってきて戦いの後の高揚も落ち着いて、それから思い出したようにふつふつと湧き上がってきた彼女の怒りはグ・ラハの頬をいくら抓ったって収まらない。

「誰が彼女を止めてくれないか…………」
「え、あ、あの、お水を飲んだ方が……」
「やめとけリーン、触らぬ神に祟りなしってやつだ」
「ちょ、むがっ」

 唯一助け舟を出そうとしたリーンをサンクレッドが引き止める。ほかの面々は街の民も含めて遠巻きに面白そうに見ているだけで、助けは期待出来そうにない。
 うろうろと目線をさ迷わせたグ・ラハは耳をがくりと後ろに倒して落胆を見せた、と同時に頬をぐい、と伸ばされ言葉を物理的に遮られる。
 冒険者はと言えば耳にも入らなかったようで、彼の頬をむにむにと弄るのに夢中になっていた。
 引っ張ったり押したり、伸縮性はそれなりに。顔に変化をつけて面白がっている。

「ぶさいく」
「自分でやっといてそれはあんまりだろ……」
「あんたがぜんぶ勝手にやったからでしょー! ばか猫もどきのミステル野郎!!」

 一瞬にして怒りの感情を取り戻した冒険者が吼えるように叫んだ。
 その声は夜の街に響き渡り、一瞬、しんと静まり返る。
 真正面からそれを受けたグ・ラハには身に沁みるほどの大声だった。キンと響いたそれに頭をくらくらさせていると、彼女が床を指さした。

「正座」
「先に水を飲ん…………いや、うん、わかった、なんでもない」

 せめて少しでも酔いを醒まして欲しかった。持ったままのグラスは、一向に彼女へ渡せるタイミングがない。
 冒険者へ水を飲ませることを諦めたグ・ラハは、大人しく足を折りたたむ。人々から驚愕の視線を向けられていることを自覚して、グ・ラハは無性にフードを被りたくなった。
 しかし立ち上がった彼女が酔いでバランスを崩したものだから、それに慌てて一度周囲へ向いた意識が彼女へ戻る。
 正座をしたグ・ラハの前に立つ冒険者からは、自然見下ろす形になって彼の顔がよく見えた。
 ずっとフードで覆い隠していたところ。色素の薄れた髪。水晶と化した顔の一部まで。
 彼女は怒りよりも彼の毛先だけ白い髪に興味が向いて、躊躇なくそこに触れた。
 感触は普通に髪だ。ていうか髪質細くてうらやましい。海を泳いだせいできしんでるのが残念。まあきしきしなのは私もなんだけど。塔と同化した影響の一部かな――などと思いながら耳やら髪やら撫で回していれば、冒険者がすっかり怒りより好奇心を優先したことを察したジト目が彼女を睨んでいた。

「満足したか?」
「うん」
「はー……絡み酒か……満足したならこれ飲んでくれ」
「お酒ならいいよ」
「これも酒です、酒」

 ならよし、と頷いた彼女に渡されたのは勿論水である。
 口にした冷たいそれは喉が焼けるように熱く感じることはなく、むしろ心地よいひんやりしたものだった。その清涼感に飲み干してしまう。
 その間にグ・ラハは足を崩していた。彼女に対して申し訳ないことをしたという意識が強いのでやれと言われたことに抵抗するつもりはないが、その前に酔っ払いをどうにかするほうが先だった。
 真に夜を取り戻した無礼講だとはいえ、いつまでも見世物になるつもりはない。物珍しげに集まっていた視線も散ってゆく。

「ほら、ここ座れ」

 空っぽになったグラスをグ・ラハに取り上げられ、促されるまま彼の隣に座り込む。
 そして突如として眠気が彼女を襲った。
 くらり、と舟をこぎはじめた頭に、近場に置いてあったアルコールを彼女から遠ざけていたグ・ラハがぎょっと振り返る。

「うわっ、え、眠いのか? 寝るなら居室に……」

 でも、これだけは言わないと。
 その一心で彼女は口を開いた。

「あなたって、呼ばないでよ」
「え?」
「せっかくまた会えたのに、なんで距離作っちゃったの」

 おかげで分からなかったじゃないか。ぜったいグ・ラハだと思ったのに。

「……あんただって敬語に戻ってただろ」

 最初に距離作ったのはグ・ラハでしょ。そんな人は知らないって嘘ついて。
 そういう恨み節を告げるはずの口はまともに開けず、瞼だってすっかり降りたまま。
 自立することも難しくなった上半身がばったりと地面に張り付いてしまう前に、しかたないなと呟いたグ・ラハが抱き寄せた。
 ぐったりともたれかかる様は誰がどう見ても寝落ちした酔っ払いだ。
 それでも意識だけは眠りに落ちる寸前で留まっていたので、彼女の反論はもごもごとした声にもならない声になる。
「何だって?」とグ・ラハは思わず笑った。
 眠りの淵で、彼女は悪態をつく。うるさい、起きてるんだよ。そんな言い分は彼へは届くこともなく。

「ずいぶんと仲が良かったのね」
「ああ、すまない」

 冒険者がもう殆ど眠りに落ちていることを察して、近寄ってきたヤ・シュトラが遠ざけられた酒瓶を拾い上げた。
 英雄と水晶公がこんな有様では、きっと街の人々は遠慮して近寄れないだろうから。

「昔、…………約束をしていたんだ。共に遺跡探検に行こう、と。私が反故にしてしまったが」
「それでへそを曲げられてしまったのね」

 闇の戦士殿が水晶公を叱っている、という光景は中々見応えがあった。
 きっと彼女はもっと沢山の文句をぶつけたかったことだろう。それは明日以降でも出来ることだから、また後日に回してもらうとして。

「敬語、上手くなったよなぁ……」

 独り言のようにこぼされた言葉に、ヤ・シュトラは何も言わなかった。
 二人の間にあるちぐはぐな時間の差は、変化をもたらした分、互いに鮮明なものとして見えるのだろう。
 とはいえ一人だけで感傷に浸るのを許すヤ・シュトラでもない。どちらかといえば、冒険者の味方でありたいので。
 そういうことはお互いに面と向かって話せばいいのだ。

「……さ、ここは任せて、風邪を引かないうちに英雄さんを部屋に送ってきてもらえるかしら」
「そうして来るとしよう。すまないが、片付けは頼む。随分と呑んだようだから」
「送り狼にはならないようにね」
「なっ、そ、そんなことっ」

 慌てたグ・ラハがヤ・シュトラを見上げれば、彼女は笑みを浮かべた口元に人差し指を立てて静かに、とジェスチャーをしていた。
 からかわれているのだと気付くなり、グ・ラハの逆立った毛並みが落ち着く。
 そんなつもりが一切ないことはヤ・シュトラだって分かっている。第一世界へ渡ってきてから"水晶公"とは距離を置いていたほうだけれども、彼がどこまでも善良であることは、じゅうぶんに分かる。フードに隠された素顔と真の目的を知ってからは尚更のこと。彼女のことをどれだけ大事にしていたことか。
 けれどヤ・シュトラはそれ以上に、彼に寄りかかって安心しきったような寝顔を見せている彼女のことを知っていたので。
 クリスタルタワーの調査が終わった頃、「約束したのに」と泣く彼女のことを。
 肩を竦めて見せれば、水晶公を名乗るかの英雄のご友人は呑気に寝息を立てている彼女を横抱きにして、ペンダント居住館のほうへ歩き出した。

「……あの人たち、明日もいまみたいに喋れるのかしら」

 英雄殿のほうは問題ないだろうけれど。
 わざとそう演じているわけではないだろうけれど、しかし彼が水晶公として喋るようならば彼女の機嫌をすこぶる損ねることになるだろうから。
 あの人は酔い潰れて眠ることはあっても、酒で記憶を飛ばしたことはない。
 後ろ姿を見送ったヤ・シュトラは明日が楽しみね、と肩を揺らして笑った。

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