食べることについて

 物心ついた頃から、姉はなにかと弟にものを食べさせたがった。
 手ずからむいた蓮の実、丁寧に灰汁を除き続けた骨付き肉と蓮根の汁物。
 中秋節には己の分の月餅を半分に割って分け与え、たくさん食べてねと微笑む人だった。

「姉上は食べないの」
「私はもうお腹いっぱいだから、阿澄が食べてくれる?」
「うん」

 頷いて団子を頬張る江澄を見て、姉は嬉しそうにしていた。
 だから江澄は姉は人にものを食べさせるのが好きな人なのだろう、と思っている。
 箸で摘んだ焼麦をひとくちにめいっぱい詰め込んだとき。汁物の具を根こそぎさらって残り汁を飲み込みながら惜しんだとき。町を歩いていて呼び込む屋台の声にふらふらと吸い寄せられたとき。
 姉上はそういうときにとても嬉しそうな顔で己を見つめているのだと、江澄は知っている。
 風邪を引いても、よく水分を吸ってふやふやになった味の分からない米粒を匙で山のように掬い上げ、大きくあけた口の中に突っ込めばたちまちに治るような心地だった。あのときばかりは姉も「風邪っぴきなんだからもう少しゆっくり食べるのよ」と苦言を呈していた記憶がある。
 それでも姉は口いっぱいに詰め込んだせいで頬の膨らんだ江澄を見て、まなじりを和らげて微笑むのだ。
 だから、江澄は大食らいだ。

 それは江澄だけでなく、魏無羨へも向けられる眼差しだった。
 魏無羨は甘えるのが上手いから、蓮の実をねだるのも、お腹がすいたから甘いものを食べたいと言い出すのも上手かった。
 姉上はじゃあむいてあげるとも食べに行きましょうとも言って魏無羨を甘やかしたし、江澄へも分け与えられた。
 江澄はあまりお腹がすいたとか、あれが食べたい、と言った記憶があまりない。
 そんなことを言わずとも姉は江澄に饅頭をまるまるひとつくれたし、阿澄の好きな辛さでしょうとしたり顔でぴりっとした辛さの胡瓜の和え物を出してくれたから。
 おそらく魏無羨は食べるのが好きなのだろう、と江澄は思っていた。二人共通の好物といえば、と出てくる一品は言わずもがな、なにかにつけては物を食べていた。
 手づかみにしたのだと言って持ってきた魚は既によく焼けていて齧りながらの登場だったし、蓮の実を盗み食いした量は師兄たちのうちでも魏無羨が一番多い。西瓜も人より多く齧っていた。
 江澄もまあ、西瓜は半玉まるまる食べたし(ひと切れずつ齧るのが面倒になって最終的に半玉を抱えて中身を匙で掬った)、牛乳になにやら混ぜ込んで氷の中で冷やし固めた冷菓は固まるのをまだかまだかと待ち望みもした。
 それでもなんとなく、お腹がすいたと告げたこともなかったので己はさほど大食らいではないのだろうと思い込んでいた時期があった。後にして思えばどう考えても一番食べていたのは江澄なのだけれど。
 腹が減ったと江澄が気付くより先に、姉が食べ物を与えていたという話だ。勧められるがままに口の中に入れて舌の上に乗せ、二度三度と噛めばもくもくと味わっている江澄を見て姉が笑うから、江澄は胸がいっぱいになってより頬にものを詰め込むのだ。


「姉上、あれが食べたいです。いつもの」
「ええ、阿羨にも持って行ってあげましょうね」

 金子軒との結婚が決まった姉はこのところ幸せ半分、袂を分かち江氏から離れた魏無羨に顔を曇らせてもいたから、だから江澄はいつもので通じるほどにまでなった汁物が食べたいと言った。
 魏無羨はひどく反対をしていたものの、一生に一度の晴れ姿を見れないというのは江澄とて気がかりだったし、それに姉は花嫁姿を褒め讃える江澄の貧相な語彙力を身内の贔屓目だと判断したものだから、魏無羨の援護が欲しかった。あいつは江澄よりも言葉巧みだから。
 江澄は言われるがままに持ち運ぶための籠や器を用意して、ながく、ながくを鍋の前で過ごして灰汁を取り続ける姉の姿を、時間の許す限り眺めていた。
 結果として姉はうつくしく着飾った姿で曇りのない笑みを浮かべ、魏無羨もまた感激していた様子だったのだから、江澄が食べたいと言い出したものは正解だったのだろうと思っている。

 食事を共にする、ということは、共に過ごすということだ。
 宗主として振る舞うことが増えると同時に、ゆっくりと食事を機会が減ったことに江澄はなかなか気付けなかった。
 気付けないほどに心身ともに忙しなかったとも言えるが、どちらかといえば元より江澄は姉や魏無羨に食事に誘われる側だったので、それがなければ合間に茶を飲む暇すらも作らない。
 大食らいの江澄のために用意された量も到底食べる気にはなれず、「食べている時間がないから次から減らせ」と以前なら器よりもよほど高く盛られていたそれらは、器の中を覗かなければどれほど入っているか分からないほどにまでなっていった。
 あの微笑みはない。目の前で失われ、もう二度と空腹を教えられることはない。
 突如として饅頭が食べたいだの魚を掴まえに行こうと言われることもない。空腹を訴えられることはない。

 どうにも胃が妙な感覚を覚えたままで、そのあたりを片手で撫で擦りながら江澄は届けられた嘆願書をはらりと捲った。
 姉なら、魏無羨なら、この感覚をなんと表現するのだろう、と思いながら。

 宗主としての立場を周囲へ知らしめ、確立させつつあったことから安定へ向かうかと思われた江澄の日常は甥の金凌によって目まぐるしい日々となった。
 外叔父であることからそう高い頻度で会えるわけではなかったが、それでもいまの江澄の何十倍もの速度で子供は成長していく。
 光陰は矢の如くとはまさしくその通りで、言葉もうまく話せなければ差し出された指を反射で握るばかりだった金凌はいまや仙子を連れて夜の山を駆け回っている。
 万一のことがあってはたまらないと監督に着いた江澄を金凌は嫌がるような口振りではあったものの、こうして来てしまえば「剣捌きを見てて」と江澄の返事も待たずに飛び出したのだ。
「まだ何も言っていない!」とからい言葉を返せども、無理に引き止めるでもなく、江澄は金凌を見失わない程度の距離感で追っていく。獲物もまだ見つけていないというのに何を先走っているのやら。
 そうして張り切った金凌が仙子との連携も取って無事に──勢い余って木の枝を豪快に切り落としたことを除けば──江澄が手を出すこともなく夜狩りを終えて山を降り、蓮花塢のほうへと帰路に着いたところで江澄はぼやいた。

「腹が減ったな」
「! あれが食べたい、月餅!」
「馬鹿者、あれは行事食だ。来年の中秋節まで待て」
「えー! 蓮の実餡のやつが美味しかったのに」

 このあいだ来たときに出してやったものをいたく気に入っていたらしい。中秋節が過ぎてしまえば残ったものを食べるばかりで新たに作ることもないのだが。

「どうしても食べたければ自分で頼め」

 中々手間がかかるものだ。そもそもいまの時期でも作れると江澄は断言出来なかったので、家令にその相手を放り投げることにした。
 そうすると答えながら、金凌は近場の町に寄り道をしたそうに足先がふらふらと吸い寄せられていた。まっすぐに進んでいたはずが思いきり道が逸れている。
 蓮花塢に戻ってから適当に何か摘もうと江澄は考えていたが、金凌の空腹度合いはそれまで耐えきれないようだ。
 ちらりちらりと期待の眼差しを向けられ、江澄はまったく、と溜息を吐く。まだるっこい。

「言いたいことがあるのならはっきりと言え」
「お腹すいたから早く何か食べに行こう!」

 早め早めに動いていたとはいえ、日も暮れては開いている店はどれほどあるやら分からない。
 それでも宿なり何なりはあるだろうと適当に入った店で向かい合って叔父と甥は腹を満たしていた。
 江澄が躊躇なく大口をあけてかぶりつく一方で、金凌は育ちもよくちまちまと少しずつ齧り食べている。
 その様子を見るとなんだかそういう小動物のようにも見えた。小さな口を懸命に動かしているような。
 だから江澄は「もっと食え」と金凌の分け皿にでかい肉やよく味の染みていそうな野菜なんかを入れてやるのだ。
 もっと食べたらいい。そしてもっと大きくなったらいい。
 そういう江澄の思いも知らず、金凌は半目でじとりと睨んでいる。

「叔父上って僕に何か食べさせるの好きだよね」
「子供は沢山食って育て。薄っぺらい体に肉をつけろ」
「言われるほど薄くないけど!?」

 ありし日の姉が何を思って微笑んでいたのか、江澄はいまではただしく理解していた。

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