姑蘇の初雪

 蓮花塢に育った江澄にとって、姑蘇の冬の寒さはいっそ異常なほどだった。
 今年の夏はいつもより涼しいなと思えばすぐに冷え込むようになり、まだ秋にも早いのではと江澄が目を白黒させている間に冬になったのである。
 姑蘇で過ごすのは三度目になる聶懐桑は慣れたように分厚い内衣を荷物のなかから引っ張り出して着こんでいて、初めて寒い朝を迎えて中々布団から出られない江澄に「そういえば江兄は姑蘇の冬は初めてだっけ?」とひとまず冬用の内衣を貸して、それから空いた日に町まで降りてどういう生地が暖かいだとか肌触りが良いだとかを隣でひたすら喋り通していた。
 慣れない冬の寒さは、江澄の生活を変えた。
 朝は出来るだけ布団から出たくないし、内衣は出来るだけ分厚くて暖かいのがいい。首元は詰まっていたほうが冷たい風が通らないので嬉しいし、耳や指先がキンと冷たくなるので外には出来るだけ居たくない。しばらく火鉢で部屋を暖めておいて、規則もあって付けっぱなしには出来ないので消えた火鉢の残した温もりがなくならないうちに急いで布団に潜り込んで眠りにつく。
 決して苦手だとは言わない。慣れないだけだと江澄は言い張る。

「蓮花塢は暖かいところだからねえ」

 同室の聶懐桑にはばれていたものの、部屋の外ではいつも通りに振る舞うよう江澄は気合いを入れている。
 魏無羨が色々とあって蓮花塢に帰ったので、このことをあちこちに吹聴されないのは幸いだった。

 そんな寒い日々を過ごすようになったある日、江澄はやけに明るい聶懐桑の声に起こされた。

「江兄、起きて! 外を見てよ!」
「なんだ、朝っぱらから騒々しい……」

 今日はいつもよりも一段と冷え込んでいるように感じて江澄は布団のなかで丸くなる。
 まだ藍氏で決められている起床時刻ではないはずだ。もう少し眠っていられるだろうと目を閉じたら、聶懐桑に布団を無理やり剥ぎ取られたので「なんなんだ!」と怒鳴りつけた。
 悪びれもなく聶懐桑は外を見ろと言うばかり。時々魏無羨が有無を言わさず江澄をどこぞへ連れて行くだとかはよくあることだったので、その日常の経験から江澄は渋々窓枠から外を覗き見た。
 あまりの眩さに目が溶けてしまったのではないか、と思うほどだった。
 藍家の校服の白さを江澄は常々異様だと思っていたが、目の前に広がるのはそれ以上に白く光る地面だ。
 いいや、地面だけではない。木々も、むこうに見える内殿の屋根までもが白く染められていた。
 それらが太陽の光を浴びてまばゆく光っている。いつもの朝よりもずっと明るくてずっと眩しい。
 江澄は聶懐桑のほうを振り返って、驚愕も興奮もあらわに見たままの色を叫んだ。

「白い!」
「でしょう!? 私もここまでたくさん積もったのを見るのは初めてだよ!」

 早く着替えて出てみようと聶懐桑が言うので、江澄はよく分からないままに、それでもこれが聶懐桑にとっても珍しいことだとは理解して急いで着替えるべく校服を手に取った。
 江澄はこんなに寒い冬を過ごすのは初めてだったので、もちろん雪なんてものを見たことがない。
 だが寒い地域では雨ではなく雪というものが降るという知識はあったので、江澄が着替えている最中、待っている聶懐桑がはしゃいであれこれ話しているのを聞きながら(あれが雪か)と思い至ることが出来た。
 初めて見た。あんなに白くて、それから地面に降り積もるものなのか。
 雨はみんな地面に吸われ、あるいは川や湖に流れていくものだったから。
 冬が訪れてからというものの、毎日寒風に凍えながら過ごしてきた江澄はこの日、初めて寒さを意識することなく外へ出た。

 白くて冷たくて軽くて、それからやっぱりとても冷たい。
 掬い上げた手のひらの熱で溶けた白は、江澄に痛いほどの刺激をもたらした。
 しかし江澄にはその冷たさが気にならないどころか、踏んだときのキュッという乾いた音をいたく気に入ってあたり一面を踏み潰す熱量があった。
 真上から垂直に足を落とし、それからそうっと抜いてみる。綺麗についた足跡が面白く、聶懐桑が率先して飛び出していったのも納得が出来た。
 そういえば、と数歩出て振り返り、自分たちの宿舎を仰ぎ見る。ほかの建物だってそうだったように、江澄が寝ていた宿舎の屋根にも雪が積もっている。
 昨夜も寒くて早々に眠りについたので、雪が降っていることに気付かなかったのだろう。それにしたって少しくらい、気付いておきたかった。地面が染められていく様子はきっと面白かったことだろうに。
 そんなことを思いながらほう、と吐いた吐息ははっきり見えるほど白く、そういえば聶懐桑の声が聞こえないなと江澄はあたりを見渡した。
 姿が見えない。姑蘇に気に入りの場所があるらしいから、景色でも眺めに行ったのかもしれない。
 そして周囲が俄かに騒がしくなっていく。他の者たちも起きて、この雪景色に気づき始めているのだろう。
 途端に江澄はこの場を離れなければという衝動に駆られ、きゅ、きゅ、と雪を踏みつぶしながら宿舎を離れていった。

 もともと雲深不知処は規則の厳しさと山奥に位置することもあっていやに静かなところではあったが、雪の降り積もったこの場所はいつもよりも静まり返っている。自然、江澄もなぜだか物音を抑え、そうっと人気のない更に山奥へと入っていく。
 落葉樹は枯れ落ちた葉の代わりに雪をつけ、常緑樹は背負った雪で重たそうに枝葉がうなだれている。
 指先で葉を覆う雪を払い落としてみれば、解放された枝葉が上を向いた。
 離れすぎたなという気もするし、まだ誰も踏み荒らしていなかった白い絨毯への第一歩を踏み出せることへの優越感がある気もする。
 振り返れば歩いた分がしっかり残っているというのもまた面白い。
 とにかく江澄には目に見えるものすべてが目新しいことだったから、ここまで足跡を伸ばしたぞと達成感もあって。
 ──だけれど、目を背けた。足跡はひとつ。当然だ。他の者がはしゃぐ様子に混ざる気も起きなくてひとりでここまで来たのだから。
 だからこれは江澄のものだけだ。きゅっと唇を引き結び、前を向きなおして、更に足跡を伸ばしていく。感じた寒さを振り切るように。

 雪も常緑樹の葉を搔い潜って地面に敷くことはできなかったようで、常緑樹ばかりが立ち並べば一面はすっかりただの土……とも言えない。
 とうとう雪景色を抜けたと思いながら江澄が踏んだその先で、ざくりと音がした。雪を踏んだのでもなければ土の音でもない。
 驚いて見れば、そこには土を被った氷の柱があった。雪ではない。

「……氷柱、ではない?」
「その通り。それは霜柱というのですよ、江公子」
「なっ!?」

 不覚だとか恥だとかの単語が脳裏をよぎり、江澄が身構える一方で、声をかけた彼はそんなことを気にせずに江澄と同じように霜柱を踏んでざくざくと音を鳴らす。

「地中の水分が地表へしみだして凍ったものを霜柱といいます。氷柱は水滴が垂れて凍ったものを指すので、別物ですね」
「藍公子!」

 藍曦臣だった。見慣れた真っ白な校服姿で、だがその上に暖かそうな外套を羽織っている。

「こちらでは毎年雪が降りますが、蓮花塢ではどうですか?」
「あ、ええと……蓮花塢は、暑い地域なので」

 慌てて拱手をしながら江澄は答える。
 いつの間にやってきていたのだろうか。気づかなかった。

「なるほど、それでは今朝は驚いたことでしょう」
「ええ……」
「私もここまで降り積もるとは思ってもみなかったので驚きました。後で屋根から雪を下ろさなければいけませんね」
「雪を下ろす?」

 どういう意味か分からず江澄が聞き返せば、藍曦臣はええ、と頷いた。
 指先で手招かれて自分と同じ目線の高さにある常緑樹の枝葉を江澄は見つめた。藍曦臣の声色はどことなくひそやかで、江澄もつられて声をひそめる。

「雪の重みで垂れ下がってしまっているでしょう。屋根も同じですよ。雪は水で出来ていますから、下ろしてやらなければ家が潰れてしまいます」
「……たしかに潰れてしまうくらい積もっていましたね」
「そうでしょう? 今日は総出で雪下ろしになります」

 先ほど雪を重たがる枝葉を解放してやったばかりだ。確かに屋根もそうしてやらなければ、いくら丈夫に出来ていても潰れかねない。
 必要性を理解した江澄に藍曦臣はそうでしょうと頷いて葉に積もった雪を払い落とした。

「そうだ、それでは江公子は雪遊びをご存知ないでしょう」
「は? 雪遊び?」
「ええ、雪遊びですよ」

 規則正しく過ごす藍家の公子に似つかわしくない単語が聞こえてきたので江澄は耳を疑った。
 まさか遊びだなんて言うはずもないという江澄の認識を裏切って、藍曦臣は大真面目に頷いている。
 それから屈んで、足元のまっさらな雪を手のひらですくい取り、軽く握って形作る。手のひら大の丸い形に固めたら、それを江澄に持たせてまた屈んでふたつめを作り始めた。

「……藍公子?」
「はい、雪だるま」

 丸い塊がふたつ、江澄の手に積み重なっている。

「転がしてもっと大きくするものなのですが、もうあまり時間がありませんから。大きな雪だるまの作り方は懐桑に聞いてみてはいかがでしょう」
「はあ……」
「さあ、すっかり冷えてしまったね。戻って暖まってから朝餉になさい」

 微笑んだ藍曦臣が、江澄の額を指先でつつく。
 雪に触れた末端だ。冷たくないわけがない。江澄は驚き一歩下がって、目を見開いて藍曦臣を見上げた。

「つ、つめたっ、藍公子!?」

 なんてことをするんだとその表情が何より訴えかけている。鼻の頭が赤くなるほど外で過ごしていたらしい江澄へ、微笑みを湛えたまま藍曦臣は彼の付けてきた足跡のほうへ向けさせた。
 江澄は声をかけられるまで気付いていなかったが、ひとつだけ逸れるように山奥に伸びていたのは後を追うのにぴったりな痕跡である。
 だからこそもう一対、江澄よりも足の大きく、それから一歩も大きなそれが隣に並んでいた。

「帰り道は分かるだろう?」
「……はい。失礼します、藍公子」
「ええ、江公子」

 拱手をして、江澄は駆けていく。
 並んだ二人分の足跡を踏み荒らしながら。

「……ああ、持ったまま行ってしまわれた」

 目もつけていなければ手になる枝もさしていない。こういうものを作るのだと形状だけ形作ってはみたものの。
 完成させるために使えそうなものは余っていただろうか、と藍曦臣はぼやき、ゆったりとした足取りで来た道を戻っていく。
 次は、並んで歩けたらいいのだけれど。

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