幸せには程遠く

 世界で一番平穏とは程遠いであろう街。ヘルサレムズ・ロット。
 住民の4割は異形、2割は得体が知れなくて、ただの人間は住民のうちの3分の1にも満たない。その人間だって大半はマフィアだったりヤクザだったり、そういうワケアリだ。
 それでもその中にだってごくごく普通の日常を送るものも、存在していたりする。
 たとえばカフェを営む親子。たとえばごく普通に会社に勤めるサラリーマン。
 人間だって異形のものだって、睡眠は取るし食事もするし働いて金銭を得て生活をしようとする。ただ異形のものはあまりにも種族のなかで差がありすぎて、常識と非常識、平常と異常、魑魅魍魎の入り混じる混沌となっているけれど。
 ともかく、元紐育-ニューヨーク-であったHL-ヘルサレムズロット-。一晩で崩落、再構成された霧に包まれた都市は異界と交差し、超常現象が起こることなんて日常茶飯事なのである。


***



 意識が浮上する。心地良いまどろみのなかにいつまでもいたい欲求はあれど、暫くぼうっとしている間に目覚ましが控えめに主張をし始めた。
 片手を伸ばして枕元の目覚ましの頭を叩き、先ほどまでの静寂さに戻った部屋のなかでようやく意識を覚醒させて上半身を起こした。
 いつもの通り時間には余裕がある。今日も支度をしているうちにハウスキーパーのヴェデッドがやってくるだろう。今日は濃い目のブラックで、と思いながらスリッパに足を突っ込んだ。
 そう寝汚いほうではないしさっくりと起きるタイプだが、けれども昨日はバタバタしていて疲れていたのだ。欠伸を噛み殺しつつ顔を洗ったりスーツに着替えたりしているうちにヴェデッドがやってきた。おはようと声をかけ、早速コーヒーを淹れてくれるよう頼む。
 自分でもコーヒーは淹れられるしキッチンにだって立つが、ヴェデッドのほうがずっと美味い。

「あ、ヴェデッド、今日は遅くなるだろうからいつもの通りに時間になったら帰って大丈夫だよ」
「はい」

 そういえば今日は遅くなるのだった、と思い出すと途端に気が重くなる。今日中に済ませておきたいことを思い返しつつ声をかけると、イカにも似た異種族の彼女はうなずいて、食事を終えたばかりのテーブルから空の皿を取り上げた。片付けのほうはヴェデッドに任せてコーヒーの残りを飲み干すと、部屋の片隅にかけていたハンガーからネクタイを取って締める。同じハンガーに一緒にしていたスーツのジャケットも取って羽織り、あとは任せるよと言って玄関へ向かった。

「行ってらっしゃいませ」
「行ってきます」

 いつものやり取りだ。元々家に仕事関係のものを置くこともないし、ヴェデッドは家事のほうは安心して任せられる。裏に十字の彫られた革靴は硬く歩くたびにコツコツと音を鳴らして、セキュリティの厳重なアパートを出た。
 僕は本来の仕事の内容を誤魔化していた。ごく普通の会社員として表向き振舞っているが、ライブラの一員であること、所謂吸血鬼を退治する為の能力があること、そういったことは一切隠し通して過ごしている。家政婦のヴェデッドにも、ライブラや牙狩りの関係者以外の友人にも。
 時折遭遇する近所に住まう彼女に対しても、それは同じだった。

「あ、スティーブンさん、おはようございます」

 声をかけられて振り返ると、出勤時間の被っている彼女が手を振っていた。
 今日はタイミングが合ったらしい。

「やあ、なまえ。おはよう」

 軽く手を上げて応え、足を止めてなまえが隣に並ぶまで待ってやる。へらりとした笑みは見慣れたもので、出会えば会話する程度には仲が良い彼女とは足並みを揃えて歩き出した。足音にヒールのかつんとした音が混ざる。

「昨日久々にハンバーガー食べたんですよー。そういえば最近食べてないなと思って」
「言われてみると僕も食べてないな」
「スティーブンさんはサブウェイ派じゃないですか」
「まあね」

 なまえの話はとりとめもない日常の話だ。ご飯の話、新しく買ったCDの話、ショーウィンドウにあった靴に一目惚れしてしまっただとか、異型の異界人は頑丈な人が多いのかな、だとか。
 そんな彼女の話を聞くことに対して日常を感じていた。ごくごく普通の、一般人が過ごす日常生活。
 楽しそうにあれこれと話す彼女に相槌を打ちながら、さくさくといつものように歩いていく。なまえとはいつも会うわけではない。朝、家を出たときだとか、夜に帰ってきたときだとか、休憩中に食事をとるべく街を歩いているときだとか。
 ライブラの一員として活動している最中に遭遇してしまうのは少しばかり困るが、そういう時に取り繕うことには慣れている。のほほんとした様子でいる彼女の日常が崩れたことは今のところ、HLならではの異界関連以外では、ない。
 歩いているうちに分かれ道にまで来て、なまえはまたひらひらと手を振った。同じように振り返す。

「それじゃ。気をつけて」
「はーい。スティーブンさんもお気をつけて!」

 物騒な街ですからね。そう言って笑ったなまえはHLに住んでいるわりに、物騒とは無縁に見えたのだ。


***



「そういえば流行ってるらしいすね、誘拐事件」
「んなモンしょっちゅうだろ」

 この神々の義眼を持つ少年は意外と耳聡いところがある。デスクで必要書類に書き付けつつ、ザップの返答に内心同意した。
 今日はテイクアウトで買って来たらしい。机越しに向かい合うレオナルドとザップ、ツェッドはバーガーを食べながら、中々に物騒な話をしていた。いや、このHLではいつものことだが。
 一方でこれだけは終わらせておきたいと俺のほうはまだ昼食にはありつけていない。買ってきましょうか、とレオナルドが気を利かせてくれたので手元にあることにはあるが、食べながら仕事、というのは御免である。

「いやあ、どうにも女性と子供ばっかり狙ってるらしいすよ。行方不明者続出」
「ああ、一応こっちでも調査はしているよ」

 その件か、と思い出して口を挟むとツェッドとレオナルドはこちらを向いて、そうだったんですか、と相槌を打った。後は尻尾さえ掴めれば片付けられる段階にあるから、近いうちに事態は収拾出きるだろう。

「早いうちに解決するといいですね」
「テメーも気を付けなきゃな」
「はあ?」

 レオナルドの頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜてからかうザップに少年は抗議をする。確かに僕らのなかで一番年下というか少年然としているのはレオナルドだから、一応気をつけたほうが良いかもしれない。

「いやー、こればっかりは魚野郎も同意見だと思うね、俺は」
「僕を巻き込まないでください。ですがレオくん、注意するに越したことはないと思いますよ」
「ツェッドさんまで!?」

 からかわれるのならまだしもツェッドの場合は純粋な好意と心配である。ショックを受けているところ悪いが右に同じく、と言うと流石に可哀想なので黙っておくのが彼にとって一番良いだろう。
 何かあれば携帯さえ持っていてくれればGPSで居所は突き止められるが、そうしてたどり着くまでのレオナルドの安全は保障出来ないわけだし。自力で脱出せんとする心意気はあるようだが。
 自分で淹れたコーヒーを啜る。ここ数日を思い返すとそういえばなまえと会っていないな。あの子は無事だろうか。たまに会えば話す程度だが、物騒なこともあれば気がかりにもなる。
 苦味が口の中に広がって心なし思考がクリアになった気になる。一区切りついたし俺も何か腹に入れようか、と思案したところでザップの悲鳴があがった。室内で、となるとチェインだろう。
 何かを踏み台に現れるのはもはや見慣れたことだ。今日は一度踏んで満足したのか、トンと軽く降りるとこちらにやってきてクリップボードを差し出してくる。

「スティーブンさん。いま分かってる被害者のリスト、更新されました」
「ああ、ありがとう」

 ひとまずの用事はそれだけだったのか、ザップの抗議をBGMにクリップボードに目を通す。生きていれば御の字、最悪もう既に死体となっているだろうな、と思いつつも新たに増えた被害者の名前をざっと見ていく。

「…………あ」

 おもわず声を出してしまったが、すっかりヒートアップしたザップとチェインの言い合いにかき消された。
 見覚えのある名前。最後に見たのは一週間ほど前だったか。物騒な街ですから気をつけて。そう言って笑った彼女の笑みが脳裏に浮かぶ。
 コーヒーの苦味なんて比較にならないほど、その報せはすべてを吹っ飛ばすほどの威力があって、頭が真っ白になる。
 HLではそんなこと日常茶飯事じゃないか。ありふれた名前だしきっと同姓同名の別人だ。どうか生きてさえいてくれたら。

 それからのことはあまり思い返したくはない。よくあることとはいえ、慣れるものじゃないなと心底思う。
 食べそびれた昼食には結局手をつけることはなかった。

 すべては、手遅れだった。

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