ああ、失敗した。そう後悔したのは常盤美緒さんに会うまで仕切りに伺うような視線を寄越す彼のせい。彼女が待ちわびているのは貴方だとありのままの事実を伝えたつもりだけれど、洞察力に長けている彼にはどう捉えられたのか。元の姿にもどることを諦めていると思われたのかもしれない。蘭ちゃんのことが嫌いになったと思われたのかもしれない。欲しいものを強請る子供のように、あるいは好きな人を取られた女性のように惨めに聞こえたかもしれないなんてネガティブな考えだろうか。どちらにせよ、マイナスに捉えられる言葉だったと後悔したって遅いのに。脳内にべっとりとこびりついて拭えない悲しげな笑みを払い落とすように頭を振る。答えのでない不毛さに叫びたい気分だ。ずんっと重く足枷のついた鉛の足を引き摺るようにあるく。ああいやだいやだ。
「ねぇ、博士。先に車戻っててもいい?」
「それはよいが...どうしたんじゃ、具合でも悪くなったのかね」
「違うの、まだ少しねむくて」
ずるずると埃ひとつ落ちていない綺麗な床を擦るように脚を動かす機械の私と彼等との距離はだんだんと遠くなる。視界の端でひらひらと靡く白いそれに手を伸ばし指先を引っ掛ければ、怪訝そうな博士と交差した。子供のように純粋なその円な瞳を見れなくて指の腹で瞼をこするフリ。滑らかに吐いた嘘に目尻を下げた博士は小さな掌にころんと銀を乗せてくれる。胸を痛めていたのはいつまでだったのかなんて、そんな不要なものはもう忘れてしまった。ありがとう、へらりと笑った私に博士の隣で傍観していた哀ちゃんがその綺麗な目を細めたけれどそれにすら気付かないフリ。いつだって逃げてばかりの弱いじぶんに哀ちゃんはきっと呆れてるんだろう。彼女にはほど遠いなぁなんて羨望するだけで伸ばせやしない手のひらをぎゅっと握って背を向ける。くい込んだ鍵がちくちくと痛かった。
「...そういえば、なんでエラーになったんだろう」
閑散とした廊下をするすると引き返す足取りは水を得た魚のようにふわりと軽い。まるで独りぼっちになったような音もない空間はネガティブな私には丁度よく、詰まっていた呼吸もやっと吸えるような気さえしてくる。漸く、通常の思考を巡らせはじめた脳内がふと好奇心を擽った。だれにも捕らわれない独言が空気に溶けて消えていく。ああこれは少年探偵団の皆を責められないぞ。うずうずとした足踏みに抗うことなくくるりと方向転換。彼等ほどとはいかないが私にもまだまだ好奇心か残っていたらしい。そういえば倒れている工藤くんを発見できたのも危険を察知した褒め讃えたいほどの嗅覚と僅かばかりの好奇心のおかげ。そう考えると好奇心もなかなか侮れないな、なんて小さくボヤく。
辿り着いた先は最初に案内を受けたショールーム。10年後を写し出す憎い機械と対峙して、配列したコードに目を向ける。どうやらあの後、有能な原さんの手によって無事に繋ぎなおされたらしい。きょろきょろと目を配らせて誰もいないのを確認する。理由は分からずとも同じ境遇の彼等がエラーになったのだ。私もきっとそうなるだろう。それでも機械に乗っていないから確信はできない。たまたまなのか、若しくは本来高校生の私達の姿に混乱しショートを起こしただけなのか。恐る恐ると近づきふたつある座席の内右側に腰を据える。硬いと思っていた座席は思いの外ふわりとこの身を受け止めてくれた。居住いを正し座席を人撫でしたあと、はたと気づく。彼等は座った後でプログラマーである彼に機械の前にある液晶画面から操作を受けていた。当然、私の他にはだれもいない。生殺しのような気持ちに内心で舌を鳴らすも、打つ手はなくお手上げ状態だ。ぶらぶらと所在なさげに双脚を揺らしてぐるぐる脳みそを巡らせる。ポケットに詰め込んだ博士から預かった鍵がそろそろ戻ろうよと促すように指先に触れた。潔く帰ろう、そう分別を付けた時ギィと頭上が悲鳴をあげる。あ。思ったのは一瞬、下りてきたヘルメットを彷彿させる機械が覆いかぶさりカシャと写真を撮る音が重く響く。心臓を掴まれたような感覚にひやりとした汗が背中を伝った。
「...ど、うして」
「小さな女の子がひとりじゃ迷うかなと思って追いかけて来たんだけど...この機械がやりたかったのかい?」
「...動かなかった、のに」
「ああ、それはたぶんお嬢ちゃんが転んだときに繋いでいたコードが外れたからだと思うよ」
どうして、なんで。動揺ではくはくと唇が開閉するだけで上手く声が紡げない。蒼白する私に微笑んだ原さんはああ、ほら写真出てきたよと視線を機械にもどす。百パーセント、それに近い数値できっとシャッターはおりないだろうと鷹をくくっていた。彼等の時に機械が故障したのは私のドジが功を奏したからで、突きつけられた現実にくらりと目の前が眩む。みたくないみたくない。大切な人に忘れられたじぶんを、じぶんですら隅っこに追いやって忘れてしまいたかった。臆病で弱くて好きな人にも近寄れない、上っ面だけで接して友達だと笑顔を浮かべ、向けられる笑顔に安堵するそんな矛盾したみょうじなまえを消してしまいたかった。「...そんときはおめーも一緒だよ」彼の伏せた笑顔が脳裏を過ぎる。私は戻りたくないのかもしれない。このまま彼と彼女と離れることを心根では望んでいたのかもしれないと今更になって気づいた。小さいままだと不憫だ、それでも見たくないものには目を塞げる。彼女達に忘れられたのが悲しい寂しい忘れて欲しくない、それでも忘れて幸せになって欲しいちぐはぐでぐちゃぐちゃだ。「お嬢ちゃん、すごく綺麗になるんだね。お兄さん今から唾つけとこうかな、なんて!」原さんのお世辞もどこか遠くにかんじる。ふらりと立ち上がった私は原さんの手から写真を奪うように抜き取ってくしゃりと握りつぶした。困惑しおろおろと右往左往する原さんには申し訳ないけれどごめんなさい、胸中で呟いて扉をくぐる。いつの間に外に出ていたのだろう。ドンッと受けた衝撃に私の小さい身体は呆気なく地面に転がった。ぶつかった拍子、自己防衛の為に顔と固いコンクリートの間に入れた腕や掌の皮をころころと可愛らしくも鋭利な小石が容赦なくえぐる。痛手を負ったのは私であるが爪先ばかりをみて前方不注意だった自分の非なのは明白だ。「...ご、ごめんなさい」慌てて身を起こすと、髪が乱れるのも構わずに空気を切るように頭を下げる。黒い靴。それだけを視界に捉えてもう一度深く謝罪を吐くと、擦りむけて血が滲む掌でひらひらと風に遊ばれ落とされた写真を拾いあげ、逃げるように踵を返した。ぶつかるなんて、予期していなかった心臓がどきどき嫌な鼓動で胸骨をうつ。顔は見ていないが、きっと体格から男の人だろう。呼び止める罵声が奇しくも解答を提示し、小心者の心臓がぎゅっと縮こまる。「追わなくていいんですかい、兄貴」「いい、ほっとけ」仄かに鼻腔を擽った煙草のにおいも暗闇を連想させる黒もすこし苦手だ。ああ、痛い。ぎゅっと右手に握った捨てられないゴミを無造作にポケットに捻じ込んでただ走る。博士の車の前ではあはあと荒い息を鎮める滑稽な姿が、綺麗に磨かれた車に反射して酷いかおを写すのを払うように鍵をねじ込んだ。
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「彼女ならいないわよ」
「は、なんで」
「さぁね、誰かさんの怖い視線に耐えきれなくなったのかも」
「なんでそれを俺に言ってくんだよ」
「あら?視線を配らせる名探偵さんには余計なお世話だったかしら」
富士山を一望できるビルの最上階、パーティー会場で社長自ら腕を拡げ歓迎を顕にした常盤美緒さんはパーティーの出席者である日本画の巨匠、如月峰水さんと市議会議員の大木岩松さん。そしてビルの設計者である風間英彦さんを紹介してくれた。でれでれと鼻の下を伸ばしきったおっちゃんを、後ろから般若のような冷え冷えとする微笑みで抑制する蘭を視界の端に入れつつも、見当たらない華奢な背中をきょろきょろと探るように視線を這わす。どこいったんだあいつ。喉奥での独言をまさか拾われるなんて予期すらできず、背中にかかった凛とした声音に罰の悪さからかびくりと肩が跳ね上がった。富士山を一望できると豪語するほど、身の丈の五倍以上はある窓ガラスから豆粒となった景色を見下ろしている灰原と視線が交わることは無い。心情を悟られたからか、または彼女はいないとの指摘にかどちらなのか区別がつかず、けれど機嫌は降下して唇は尖る。そっぽを向いた俺と反してこちらを振り返った灰原の嫌らしくも口角を上げたその表情が、絡まったコードに埋もれ、いつもと変わらぬふわりとした笑みを浮かべて脳を揺さぶるほどの衝撃を放った少女の姿を思い起こさせてますます降下する一方だ。ぐつぐつと煮えきらない憤りを、かと言って彼女に伝えきれるほど自身も理解しておらず正確な言葉も持ち合わせていない。それでも脳を占めるのはいつも通りの人形のような微笑みで、処理できない心境にくそっと胸中で毒を吐く。「なまえなら車に戻ったわよ」だから、なんでんなこと俺に教えんだ。そう反論するつもりで見返した灰原の瞳に、喉元まで出かかった言葉は音にはならず押し込められる。冷静で人に関心も関与も干渉もせず、独りがいいと背を向ける天邪鬼。灰原を形成する性格は、洞察力に長けていると自負する俺の中ではそう分析されていた。心根ではぽっかりと穴が空いているはずなのに、誰にも頼らず弱音をみせない灰原は彼女のこととなるとたまに本音が瞳に揺らぐ。みょうじを通して姉を見ているのかと思っていた時期もあったが、むしろ妹のようにひとりの友人として歩み寄っていると慈愛に満ちた口調や仕草からそれは一瞬にして消失していた。これもそうだ。真っ直ぐ突き刺さる瞳の色が怒りと憂いを浮かべている。「ったく、わーったよ」唇から漏れたのはさも不本意だとばかりの物言いではあるが、心配なのはなにも灰原だけではない。先程のことも一件して、そわそわと心許ないのは散々過保護だと彼女が文句を垂れる俺もなわけで。
「いやぁ、今時あんな車を見るなんてな。なんてったっけ?」
「ポルシェ356Aだよ」
「ねぇ!その車どこで見たの、色は?!」
「ああ、このビルの前に止まってたんだよ。色は黒だよ」
渋々と踵を返しエレベーターへと向かった俺は、タイミング良くもエレベーターから下りてきた社員である男性の会話に割り込むように声を放つ。男性の口から解答を全て聞き留める前に迷わず地を蹴った。突然の奇行に「ちょっとコナンくん!」と呼び止める声も耳に入っては来ない。まさか。機械のように貼り付けられた笑顔で占めていた脳内が、車に連れ込まれる少女のビジョンに塗り替えられる。嘲笑うようにゆっくりと稼働するエレベーターの中、焦燥を駆り立てるひやりと冷たい汗が背中を伝った。はやくはやく。じわりと滲む汗も拭わず張り付くように窓に齧り付いて下を見下ろす。ビルの前、ぽつんと停車する一台の車が視界に入ったと同時に発車してしまった。くそっ!エレベーターから滑るように飛び出して外に着いた頃にはなにもない。激昂を散らそうと蹴った地面に吸着した、見落としそうなほど点々と生えた染みに、身体中を巡る血液がごっそりと奪われたような感覚がした。暑くもないのにくらりと視界が歪む。慎重に、震える指先で触れてみれば肌色に赤がしっかりと付着した。まだだ、まだ可能性はある。そうと決まったわけじゃねーだろ。嫌な予感ほどよく当たる、以前事件に巻き込まれた俺達に向けて表情を曇らせ笑みを浮かべた少女の幼い顔が脳裏に過ぎる。明確な情報を集め、証拠を突きつける探偵として感なんて非科学的なもん信用してはいないがこれほど信じたくないと思ったのは初めてだ。駆け出した脚は地面を踏みしめ黄色い小さな車を目指す。針が刺さったようにひりひりと痛む喉でなんとか呼吸しながら着いた博士の車。腕で隠れて顔は見えないものの、窓から覗いた彼女の様子に身体から力が抜け落ちた。ずるずると車に預けた背中が滑り、ただただ身を委ねる。...心配かけんじゃねーよ。蚊の鳴くような、強さの無い声は風に紛れて消えていった。
「ったく、おめーは心配かけんなって言ったそばから心配かけやがって」
そっと開いたドアの向こう、頭をこちら側に呑気に眠る少女の外傷をしっかりと目で確認する。羽織っている上着に隠れた白い腕と掌以外に致命的なものは見当たらず、漸く安堵に胸を下ろすもこちらの心情もお構いなしに惰眠を貪る少女の態度はなんだか振り回されたようで癪に障った。でこぴんしてやろうか、なんて悪戯心から彼女の腕を退けてさらさらとした前髪を掻き分ける。前髪の間、垣間見えたその長い睫毛が縁取る目尻から薄らといまにも流れ落ちそうな滴の所在にぴたりと手が静止した。普段から笑顔を絶やさずにこにこと呆れ返るほど綺麗な笑みで受け止める少女の希な涙に目を見開く。流れてもいないそれを涙と呼ぶにはすこし語弊がある気もするが、殺人現場やはたまた殺人犯と対峙した時でさえ一粒とも浮かべなかった彼女の涙はそれほどまでに稀少で見てはいけないものを見てしまった罪悪感に苛まれる気分だった。その反面、こんな身体になってからも弱音を吐かず弱さを見せない彼女の人間らしい素行に安心している俺もいる。心配している奴もいる、彼女に吐いた言葉は蘭や園子、灰原や少年探偵団はもちろん俺だって含まれ虚偽のない真実だけを固めたことば。彼女がどう捉えたのかは知る余地もないが、良い方向でないのは彼女の言動から明らかだった。他人の顔色を伺って思ってることは内に隠す、いつだって自分のことを後回しにする彼女はふらふらと危なっかしくて過保護になるのも仕方が無い。事実彼女は巻き込まれた被害者であり、殺意を向けられることも真っ赤な血も本来なら縁がないはずで、蘭の隣を笑って歩く未来さえ俺が奪ったようなもの。いっそのこと責めてくれればいい。当初、悶々と抱いていたそれも今では冷えた瞳に射抜かれる自分を想像するだけで臆病になるのだから笑えない。するりと自然に馴染んだ彼女を見守り、事件から遠ざけることしかできない俺。彼女に吐露するつもりは微塵もないが、こんな境遇に立たしているのも彼女の人生を壊したのも自分のせいなんじゃないかと責めている無力な俺は、それでも罵声罵倒を浴びせない彼女の代わりに彼女を元の生活に戻すと誓っている。迷惑だと思われても、ふらふらと消えてしまいそうな彼女を蔑ろにする選択肢はなくてだからこそすこしでも頼りにしてほしいと思ってしまうのは我儘だろうか。さらさらと手に馴染むその髪を小さな掌で弄ぶ。ふと目に付いた彼女のポケットから突き出たくしゃくしゃに捻じ曲った用紙に目がいって起こさぬようにそっと抜き取った俺は、丁寧に折りたたんで自分のポケットに入れなおす。あの時、熱に浮かされたように霞む視界の中、ぽろぽろと綺麗な涙を流すその表情と激痛に侵され軋む身体を優しく包み込んだ掌の温度を忘れないために。