「あ、った...良かった...」

園内1周する覚悟で走り出したけれど、ひとつめに入ったトイレの洗面台に見覚えのある携帯電話を発見してほっと胸をなで下ろした。見つけたことに安心して張り詰めていた気がゆるゆると萎んでゆく。そのままタイルに座り込みそうになった腰をなんとか立たせて、快斗くんに連絡しておこうと携帯を開いて外に出た。

閉園間近なのもあってか人通りも少ないトロピカルランドはすこし不気味だ。昼間はあんなにも人の声が混じり合って、耳をそばだてなければ聞き取りづらかった園内も今は風でそよぐ木の葉の音も聞こえそうなほど、しーんと静寂が広がっている。肌寒さだけではない身震いに腕を擦って早く帰ろうと足を向けた時、どさりと何かが倒れる音が近くで聞こえた気がした。
今、なにか聞こえた...?空耳かと小首を傾げたけれど、耳をすませてみればここからではよく聞こえないが確かに誰かの話し声がする。だ、誰か倒れたのかな?心臓発作を起こしたとなれば大変だと、開いた携帯をそのままに一応は用心をしてゆっくりと音の聞こえた方へ歩みを進めた。

そろりそろりと細い通路を抜けてぴったりと壁に寄り添ったままほぅと息を吐く。今夜は月があって助かった。普段ならこんな暗くて細い通路、泣いて頼まれても通れやしない。いや、蘭ちゃんか園子ちゃんに頼まれたんだったら嬉しすぎて二つ返事で飛び出す自信はあるけれど。とにかく今は目の前のことだと脱線しかけた思考に軽くかぶりを振って、何時でも救急車を呼べる様に携帯電話に番号を入力する。勘違いだったら良いなと願ってそうっと覗いた光景に、声が出ないほど愕然とした。

「く、工藤くん...!」

血を流して倒れている彼の姿が目に入った瞬間、冷水を浴びせられたかの様な急激な冷えに身体が、脳が思考を止めた。力の入らない掌からぽとりと携帯滑り落ちたのにも構わずに我に返るや直ぐに彼に走り寄る。動揺して何度も転びそうになりながらも滑るように彼の隣に座り込んだ。頭から溢れるほど血を流して倒れる工藤くんに身体が震える。何度呼びかけても反応しないことから危険な状態であることが伺えた。どうしよう、どうすれば。ぐるぐると纏まらない脳内でとにかく止血しようと震える指でハンカチを取り出す。彼の患部を抑えても、蛇口を捻った様に止まらない血液は真っ白なハンカチを染めていくだけで何も出来ない無力な自分が情けなくて吐きそうになった。と、とりあえず警察と救急車...!カタカタと生まれたての子鹿の様に震えの収まらない身体を叱咤して、手から落ちた携帯を拾いに行くために立ち上がる。手から離したことを今更悔やんでも仕方が無い。工藤くんがこのまま死ぬんじゃないかと恐怖ばかりがぐるぐると支配していた私の鈍い脳みそは、他の人の気配なんて認識していなく、ましてや話し声がしていたことすらすっぽりと抜け落ちていて、首を絞められ、壁に身体を押し付けられるまで全く気が付かなかった。

「おいおい...見てねぇ間にネズミが1匹増えてるじゃねぇか」
「ア、アニキ、こいつらどうしやすかい?」
「そのガキもこの女もこいつを使おう...。この組織が新開発した毒薬をな」

首を絞める眼前の男、喉に通らない空気。突如降り掛かった現況に、元々容量の無かった脳みそはキャパオーバーもいいところだ。苦しいと訴える肺に生理的な涙が溢れ出す。軽々と片手で身体を持ち上げられて、足が地面から離された。ますます呼吸の出来なくなった格好に意識が遠のきかける。震える両手でどうにか外そうともがくも力の差は歴然としていて、更に呼吸を締められるだけに終わった。ヒューヒューと空気を欲した喉が、音にならない悲鳴をあげる。黒いスーツに黒のハットを被った全身黒ずくめの長髪の男。滲む視界をなんとか気力でこじ開けて男の風貌を叩き込む。一瞬交わった刺すような視線に、恐怖で身体が震えた。まるで蛇と蛙。捕食者と被食者。人を人とも思わないような冷たい目色に全身が凍りつく。
のうのうと暮らしてきた私は何も理解していなかったのだ。報道される事故、誌面に掲載される事件。憐れみや同情を向けつつ自分には関係のないことだと片付けて、素知らぬ存ぜぬを突き通して来た自分が、死が押し迫ってきてやっと畏怖に駆られる。探偵になりたいと純粋な瞳で語る彼がこんな危険と隣り合わせだったなんてこれっぽっちも考えてやいなかった。なんて愚か。浅薄。彼の上面しか見ていなかった自分に反吐がでる。

「おら、そのガキに飲ませろ」

毒薬といって取り出したケースから1粒だけ抜き取って、サングラスの男に投げやる。水まで用意している抜かりのなさにゾッとした。髪の毛を鷲掴まれて無理矢理毒薬を口に入れられる工藤くんに、やめて、とすら叫べない自分が不甲斐なくて唇を噛む。強く噛みすぎて口端から血が垂れたのがわかった。

「見られたからには全部消さなきゃならねぇ、存在自体な」
「...ぁ、...ッげほっ」

突如、絞めていた手を離されて入ってきた酸素に背中を丸めて激しく咳き込む。喉がヒリヒリと傷んで、回ってきた酸素に頭がくらくらした。とにかく工藤くんを、と彼のそばに這いずる様に動けば、グイッと髪の毛を引きちぎれんばかりに掴まれて痛みで顔を顰める。見上げた先に長髪の男の顔がみえた、と思った瞬間何も見えなくなった。見えなくなった訳では無い、近すぎて視界がぶれているのだ。唇に感じた生暖かい感触にキスされているのだと理解して付き飛ばそうと胸を押すも、髪の毛をぎゅっと握られてしまえば頭皮が引っ張られる痛みに力が抜ける。痛みに震えた唇の隙間をぬって、ぬるりとざらついた舌が口内に侵入した。乱暴に動く舌に痛みを忘れて顔を捻るも、後頭部に回った手が押さえつけるよう更に深くして許さない。舌と一緒に何かを押し込まれて、溜まる唾液と共に飲み込んでしまった。飲み込んだのを確認する為に探われた後ようやっと開放された口内にはぁはぁと荒い息をはく。

「あばよ、名探偵と不幸な女!」

不幸...?そうだろうか。立ち去る黒い姿には目もくれずに、死ぬほど熱い身体をなんとか引き摺って彼のそばに寄る。確かに慈悲活動なんて柄じゃないし、いつも自分のことで精一杯だ。これが知らない人なら不運な自分の人生を呪いたくもなるけれど、好きな人と一緒の運命を辿れるのならこんな幸せ他にない。それでもやっぱり死ぬのは怖いし、私にとっては至福でも彼は幸せにしないといけない人が他にいる。こんなところで死んでいい人なんかじゃない。お願いだから蘭ちゃんを泣かせないで、そんな思いも意識の無くなった彼に届く事は無い。一層どくりと高鳴る鼓動に身体が悲鳴をあげた。ぎゅっと握った彼の手もきっと熱いのだろうけれど、溶けそうなほどの熱さに意識が朦朧としてきてなにもわからない。脳裏に過ぎった蘭ちゃんと園子ちゃんの泣き顔と快斗くんの悲しそうな顔を最後に、ぷつりと意識が途切れた。