バケツをひっくり返したかのような大粒の雨に打たれながら、静寂に包まれた住宅街を私達は必死に駆け抜けていた。
それもこれも、ひとりの警官の「仕方ないから本部に連絡して、警察の託児所に預けよう」というなんともありがた迷惑な提案のお陰だ。託児所だなんて冗談じゃない。おろおろと戸惑う私を連れて医務室の窓から飛び出した工藤くんに引っ張られるがままトロピカルランドを抜け、見慣れた道へ出た頃には脚が限界を飛び越えて感覚が麻痺していた。私というお荷物を抱えながらも持ち前の運動神経で撒ききった工藤くんはさすがである。「も、う、走れな、い」と息も絶え絶えに伝えた私に漸く工藤くんが足を止めてくれた。そのまま外壁に背を預けてずるずると座り込む。園内を抜けた後からぐずりだした天候にパンツまでびしょ濡れだ。元々運動が得意ではないのと小さくなって余計にか、荒い呼吸はなかなか静まりそうもない。ガクガクと痙攣する脚にかかる雫が溜まった熱を冷ましてくれて心地よかった。
「...おめーさ、あん時...」
「あの時?」
「いや、なんでもねぇよ」
濡れて額に張り付いた前髪を鬱陶しいとばかりに払えば、僅かに息の上がった工藤くんの青い瞳と目が合った。好奇心旺盛で気になる事はとことん追求する工藤くんにしては珍しいほど歯切れが悪い。視線を左右にさ迷わせては口を開閉する工藤くんの煮えきらない態度に首を傾げるも「ほら、行くぜ」と繋がれた手を引っ張られてしまえば、口を噛むほかなかった。一歩一歩、地面の感触を確かめるようにゆっくりと歩みを進める。先だけを見据えて真っ直ぐと歩む彼の纏う空気はピリピリと刺すように重く、詰まる息に溜息が零れそうになった。そりゃそうだ。誰だってこんな躯が縮むだなんて突飛もないこと予想できるはずがない。工藤くんの事だ。黒ずくめの男を捕らえる算段をその頭脳を駆使して思慮しているのだろう。手を繋がれて、置いて行かれずに連れ出してくれて。こんな事態に陥っても尚、高鳴る自分の愚直な心臓が恨めしい。だからこそ、工藤くんから与えられる速度に何度も蹈鞴を踏んでは転びそうになる私を、僅かでもいいから振り返って欲しいだなんて我が儘、彼に伝えられる訳がないのだ。
「やっと着いたぜ...」
「...え?」
身の丈よりも随分と大きい衣服をずるずると引き摺りながら着いた家。足元に注意を払っていた私は慌てて顔を上げて感嘆の息を吐いた。なにこのお屋敷。小学生の身長ではお城かと見間違う程大きい家にぽかんと口を開けて固まる。「俺ん家だ」と呟いた工藤くんに慌てて彼を見やると、きまりの悪い顔をして此方を見ている視線とぶつかった。「いや、ほらおめーの家知らねーし。だからつい連れてきちまったんだけど...」頭をかいて申し訳なさそうに吃る工藤くんの気遣いに、現金な私の心は簡単に浮上する。言葉一つでこうも左右される自分がなんとも情けない。何も答えない私を訝しげに見やる工藤くんに慌てて首を振ることで応えた。何も考えずぼんやりと工藤くんの後ろを雛鳥のように歩いていた私に非があるのに、工藤くんが気に病む必要は全く無い。むしろ託児所に放り込まれる前に連れ出してくれて感謝してるくらいだ。
「ううん、大丈夫。私の家少し遠いし」
「ならいーんだけどよ」
「というより、お邪魔していいの?」
「邪魔だと思ってたら連れてこねーって」
まさか工藤くんの家に足を踏み込む時が来ようとは思ってもみなかった。そもそもいつも眺めているだけだった私がこうして彼と関わりを持つなんて考えてやしなかったのだ。平行線を辿っていた私が、彼と同じ境遇に立たされた事でやっと交差した関係に、嘆けばいいのか喜べばいいのか感情がぐるぐると渦を巻く。ただ1つ分かる事といえば、たとえ未来を予知できる超人じみた能力を持っていたとしても、同じ結末を辿るだろう自分だけ。どう足掻いても躯が縮まるという事実が変わることはないのだ。それがなんだか可笑しかった。
「あ、阿笠博士...!」
ひとり悶々と考え込んでいた私の耳に突如、爆発音が聞こえて思わず身を竦めた。工藤くんは慣れているのか呆れた様子で、爆発した外壁から現れた人物に近づいていく。立ち込める煙や埃が鼻に通ってむず痒い。阿笠博士と呼ばれた人物に工藤くんが身振り手振りで事情を語るも全くもって聞き入れてはくれず、しまいには警察に連れていくとまで言い出した彼の様子に、改めて自分の身に起こった事の重大さに気づいてこれは面倒臭いことになったと頭を抱えた。漠然と蘭ちゃんや快斗くんなら信用してくれるだろうと甘い考えをしていた自分の稚拙さを呪いたい。はいそうですかと受け入れてもらうには己の癖や特徴を見抜いてもらい、根拠を示さなければならないのだ。幼馴染みの工藤くんなら簡単にできても平々凡々で蘭ちゃん達との関わりも浅い私には到底時間が必要となる。なんとか阿笠博士を言いくるめた工藤くんは彼に届かなかった門扉を開けてもらい、渋る私の背を押して無理矢理中へと誘った。
「風呂入ってこいよ」
「え、いいよ!大丈夫!工藤くんから入って」
「いいから入れって。おめーの服は母さんの見繕って準備しといてやっからよ」
「そんな...!」
工藤くんのペースに呑まれている気がする。お邪魔しますと恐る恐る足を踏み出した私の腕を捕まえて早々に連行した工藤くんに、抗う間もなくタオルを渡されぐいぐいと浴室まで連れていかれた。「じゃあな、ちゃんと温まれよ」と鼻先でピシャリと締められた扉に文句を垂れようとも届くことは無い。項垂れる私に拒否権なんて最初から存在していないのだ。流されるままのこのこ着いてきた私も私だけれど。ひとつ溜息をついて浴室と向き直る。彼が何時も汗を流す場所だと狼狽える変態臭い自分は置いておいて、冷えきった身体を温められるのは正直有難かった。優しさに甘えて出来うる限り早く上がった私は、ちょこんと置かれていたジャストサイズの衣服に身を包み、真っ平らな胸を見下ろして泣きたくなったのは言うまでもない。
「新一くん!小さくなった事はワシ以外に言ってはならんぞ!」
「なんで…」
お風呂から上がった事を伝える為に工藤くんの姿をうろうろと探していれば扉越しから聞こえる神妙な声に思わず息を潜めた。浴室で水気を絞ったお気に入りの洋服を持つ手が震える。私はすっかり蚊帳の外だ。工藤くんが元に戻りたいと望むなら私は彼の力になりたいと願うけれど、それすら叶わず見知らぬ振りをしなくてはいけないのだろうか。そんなのは嫌だ。倒れていた工藤くんを見つけた時の恐怖が蘇ってくる。探偵が危険と隣り合わせな事は身を持って体験した。どんなに危険だと遠ざけられようと彼を失う恐怖に勝るものはない。それに彼には待っててくれる人がいる。バンっと扉を勢いよく開け放った私に二つの視線が向けられた。
「君は...」
「あ、あの、私も工藤くんが工藤新一くんだということ知ってます」
「なんじゃと...!知り合いじゃったのか...!」
「いえ、私は工藤くんと同じクラスで...高校二年生です」
知り合いほどでは...声を窄めてぼそぼそと話す私に阿笠博士は工藤くんへと目を向ける。ふるふると首を横に振る工藤くんに、ふむとひとつ顎を擦ると彼は改めて私へと視線を向けた。
「君も自分の正体を証してはならんぞ!また奴らに命を狙われるじゃろうて!それに君達の周りの人間にも危害が及ぶ。いいか、君の正体が工藤新一である事はワシと君と彼女だけの秘密じゃ!決して誰にもいってはならん!もちろん蘭くんにもじゃぞ!」
阿笠博士の言葉に鈍器でガツンと頭を殴られた様な衝撃を受けた。私のせいで大切な人が危険な目に合うなんてそんな。あまりの衝撃にへなへなと腰が砕けそうになる。嘘や偽りで諂うのなんかとっくに慣れている筈だった。呼吸をするかのように自然に、堂々としていればいい。自分を欺くための狂言は幾度となく吐いてきたけれど、それは大切な人達の隣りに居たかったからだ。たとえ小さくなっても彼女達のそばで変わらず笑えているなんて浮かれていた浅慮な自分に喉を震わせる。彼女達と自分の存在を天秤にかけてどちらを選ぶかだなんてそんなの決まっているけれど、彼女達との濃い思い出にもう少し浸っていたかったと嘆く私は愚かだろうか。茫然とする私の耳に「新一、いるのー?」と脳裏に描いていた彼女の声がして身体がぴくりと動いた。
人に嘘を吐く際は胸を痛めてはいけない。悟られてはいけない。バレて謝る気でいるのなら元々吐く必要性もない。いるのはその身に一生背負って生きていく覚悟だけだ。彼女の為だというのならば罵声非難を浴びようと忌み嫌われようとも、たとえ、私の存在が消えようと笑顔を被って温かいこの罪を喜んで受け入れよう。瞬時に判断した私は彼女の純粋無垢な瞳を見つめてにっこりと笑う。
「こんにちは、はじめまして蘭お姉ちゃん!私、コナンくんのお友達でみょうじなまえて言います!」
嘘を嘘で塗り重ねた私はみょうじなまえであってみょうじなまえではない、虚像の偽物を作り上げ生きていくことをこの時、決断した。