トロピカルランドで分かれた工藤くんを心配して工藤邸に訪れた蘭ちゃんに、咄嗟に江戸川コナンという架空の人物像を作り上げた彼は阿笠博士の助言で毛利探偵事務所に居候させて貰うことになった。なんでも蘭ちゃんのお父さんは探偵で、黒ずくめの男の情報や足取りが掴めるかもしれないから...らしい。出来ることならコナンくんのそばで彼の助けになれたらと思っていた私は「奴らのことがわかったらすぐ連絡してやっから、おめーは来んじゃねーぞ」と先に釘を打たれてしまい、喉から出かかった言葉を敢無く飲み込んだ。運動神経も頭脳も一般市民の私が事件に関してはどう足掻いたところで彼の役に立てるとは思わないが、息を吐く様な偽言とポーカーフェイスには少なからず自信はある。その面に関しては誠実で真っ直ぐな彼の方が不安だ。特に蘭ちゃんは工藤くんの事に対して感心するほど鋭敏になる。たとえ名前も年齢も異なる彼の姿であろうと、癖や言動から難なく工藤くんに繋げてしまいそうだ。「僕、姉ちゃん家がいー!」と精一杯の演技をして蘭ちゃんの足に張り付くコナンくんに、不安で胃が逆流しそうになった。

「ねぇ、コナン君」
「なーに?蘭姉ちゃん」
「好きな子、いる?」

阿笠博士に手を振って見送られた私達は蘭ちゃんを間に手を繋いで家路を辿る。思ったより時間が経過していたのか、あんなに険悪だった空模様も今やすっかり機嫌を直していて星や月が爛々と輝いているくらいだ。冷たい空気に首筋を擽られて思わずぶるりと身震いする。浴室に連行されて身体を温めたけれど、結局乾かさずに長い間話し込んでしまった為どうやら身体が冷えたようだ。蘭ちゃんと繋いでいない右手を口元に、少しでも暖をとろうと息を吹きかけていた私は、囁くような蘭ちゃんの問い掛けに思わず顔を持ち上げた。彼女は一体なにを。

「ほら、気になる子とかいるでしょ?学校に」
「い、いないよそんな子...」
「あ、じゃあなまえちゃんは?」
「ばっ...そ、そんなんじゃないよ...」
「えーこんなに可愛いのに、ねぇ?」

目を見開いて喫驚する私は置いてけぼりだ。そもそもコナンくんが好きなのは蘭ちゃんなのだから彼にとってはそんな勘違い、迷惑でしかない。私を伺い見た蘭ちゃんに「コナンくんは私なんかには勿体ないよ」と、痛烈な迄の憂いをひた隠して空笑う。私なんかでは釣り合わない。蘭ちゃんの隣こそが彼の居るべき場所だと重々理解している。分け隔てなく誰にでも優しくて、純真で。誰よりも強くて勇ましい蘭ちゃんになりたいと、どんなに焦がれて嘆いたところで彼女の真似すらできやしない。感傷に浸ったところで虚しいだけだ。彼女の無自覚な行為に心が引き裂かれようとも私は笑顔で見守り続けると決めたじゃないか。

「私は、いるよ。すっごく気になる奴」

ふたりを眺めているだけで満たされていた醜い欲望が、彼に触れて話して、笑顔を向けられたことでゆっくりと顔を出していたのも事実で。これ以上聞いては駄目だと頭の中で警報が高鳴る。ふたりで幸せになって欲しい、彼女に向ける笑顔が好きなんだと自分の感情を偽ってピンと張り続けていた糸がぷつりぷつりと千切れていく音がする。無垢な彼女の想いとは違うどろどろと汚い羨望に侵されそうになる自分自身を守っていた脆い糸。吐露してはいけないバレてはいけない。私のこの想いがゼロになるまでその言葉は聞きたくない。

「わたし新一が...だーいすき!」

お互いが顔を赤らめるその時を私はきっと見たくなかったのだ。嬉々として工藤くんを語る蘭ちゃんに頬を染める工藤くん。つーと一筋涙が頬を滑った。この想いを自覚してから涙したのははじめてだ。両想いだと気づいてはいたけれど、逃げ続けていた私は蘭ちゃんから直接聞くことも問い質すこともしなかった。恐れていたのだ。この感情を否定されることを。自分自身を保つために嘘と偽りを並べて、ただ必死に切な想いを守っていただなんて滑稽すぎる。純粋に幸せになって欲しいと願えてやしなかった。なにが諦めるだ。全然諦めきれていないじゃないか。現実に目を向けることがこんなにも悲痛だなんて思っていなかった。ぽっかりと穴の空いた虚無感を遣り過ごす余裕はないけれど、彼女達の前でみっともなく晒すわけにはいない。涙を拭って笑顔を作る。自分の想いすら大切に出来ない私には愛を伝える資格はない。

「でもね、私もう一人気になる人がいるの」
「え?」
「だ、だれ...?」

にっこりと優しく微笑んだ蘭ちゃんと視線がかち合う。女の私でも見惚れる程綺麗に笑った蘭ちゃんはなまえちゃんと同じ名前なんだけどね、と形の良い唇から紡がれた自白に押し留めた涙が溢れそうになった。蘭ちゃんは馬鹿だと心中でごちる。だってそうじゃないか。私はこんなにも貴女の幸せを羨んでいて、妬ましく思っているのに。貴女の傍は温かいけど、同時に醜い自分が顕になるのが嫌だった。それでも大好きで大切だから私は貴女を恨めないし、傍にいたいと叫ぶのだ。「わ、私こっちだからそれじゃあ、また明日ねコナンくん!蘭お姉ちゃんもさようなら」これ以上、顔を見ていられなくて慌てて踵を返した私は通った道を真っ直ぐ走る。どうやって家に着いたのかは覚えていない。

「可愛くて、いつも笑顔で...でも人にすごく気を使っていて、自分のことよりも私とか他人のことを優先に考える子なんだけど、時々悲しそうな顔してひとりで抱え込んでる姿がほっとけないくてついつい目で追っちゃって...頼ってくれたらいーのになーて...ちょっとなまえちゃんに似てるんだよね」

蘭ちゃんの言葉が脳内をぐわんぐわんと木霊する。こんなにも優しい彼女をどうやったら嫌いになれると云うのだ。彼女の思わぬ告白にどうしようもなく惨めになる。違うよ蘭ちゃん。貴女に吐く嘘も、貴女に隠す想いも全て、自身が壊れないように作り上げた偽物のわたし。私は誰よりも自分が大事で貴女が思っているような出来た人間ではない。それでも貴女に見せていた笑顔は偽りだけでは無かったと胸中だけで真実を吐露した私は、ベッドに突っ伏していた体を持ち上げてポケットを漁る。トロピカルランドの医務室から逃げだした際に返してもらった携帯が暗闇の中で新着を告げていた。快斗くんの名前で埋め尽くされる着信履歴やメール履歴に思わず苦笑する。

「快斗くん、携帯は無事に拾いました。心配かけてごめんね。あと、身勝手なのは分かっているんだけど別れよう」

数十分かけて打ち込んだ文面が相手に届いた事を確認して、連絡先の少ない無機質な携帯電話を躊躇なく折り曲げた。私に関わる全ての人に危害が加わる可能性があるというのなら、火種を残しておくべきではない。壊れた携帯電話を片手に空虚を見つめる。寂しくないといったら嘘になるが、大切な人を失うくらいなら独りのほうがよっぽどましだ。自分のせいで...なんてそれこそ自己嫌悪に陥って戻ってこれなくなる。どう藻掻いても自分の為に落ち着く私はどうしようもないなと独りになって漸く泣いた。