「これが霧の都ロンドン?ロマンチックというより不気味ね...」 「なんか空気も汚れてるみたい」 「臭いもするぞ?」 ゲートを潜り、百年前のロンドンに足を踏み入れてすぐに感じたつんと鼻腔を刺す臭いや辺り一面を覆うスモッグに眉を顰める。本来、石炭や石油を燃やした煤煙や硫黄酸化物が霧と複合してできた、汚染された大気のことを表すスモッグ。いくら身体は現実世界にあるからといって体内に取り入れるのはあまりいい気はしない。まあそのスモッグについてただのいち小学生が嬉々と説明していることが俺にとっては驚愕だけど。博識な名探偵に「へーこんな時代からスモッグってあるんだー!」と関心する歩美ちゃんの純粋さには敬意を払いたいところだ。今時そんなこと高校生でも知らねーよと呆れを滲ませて見やっていた時、きゃーと女性の甲高い劈くような悲鳴が辺り一体に木霊した。ジャック・ザ・リッパー!と持ち前の反射神経で駆け出した眼鏡に釣られて全員が後を追う姿を、ぼんやりと見送った俺はさてどうするかと思考を捻る。このまま別行動でもいいんだが、どうせ目的は同じだ。厄介ごとを持ち込むこいつらの傍にいて巻き込まれるのはごめんだが、凡庸な俺の頭脳が優作さんの考案したこのゲームにどこまで通用するか...考えるのも億劫だ。めんどくさい。とりあえず危なくなるまでは着いてくかとひとつ欠伸をこぼしてのろのろと重い足を動かした。 「へー、ご丁寧に日本語で話してくれんのな」 「なまえ!もう、遅いわよ!」 「さっきまで英語だったんですけど、急に日本語に変わったんですよ」 漸く追い付いた頃、俺を置いて話はどんどん先に進んでいた。どうやらジャック・ザ・リッパーが逃亡した後のようだ。ジャック・ザ・リッパーが現れた!すぐにレストレード警部に連絡だ!と騒ぐ民衆とロンドン警察の一喝に目を細めて呟いた俺を毛利が気づくや叱咤する。餌を頬張るリスのようにむくれた毛利に、遅くなってごめんと締りのなく笑って誤魔化した。着いてくか迷ってただなんて言えるわけがない。仰ぎ見て応えてくれた光彦の頭に顎を乗せてへーと呟く俺の緊張感の無さに全員から白い目を向けられた。ようはジャック・ザ・リッパーの情報を集めて追い詰めればいいだけだ。誰もリタイアせずにだなんてそんな甘いこと思ってはいない。必要とあればひとりに自分の命を託して犠牲を厭わないこいつらのことなんか簡単に予想できる。なんて面倒な信頼関係だと胸中で嘲笑った。生憎、俺は自分の命を軽くみるほど出来た人間ではない。「とりあえずここを離れよう」と告げた小さな背中に哀愁を込めた視線を送っていただなんて自分でも気づいてやしなかった。 「...ったく、犯人を捕まえるって言ったってどこを探せばいいんだよ」 「朝になるまで待つしかありませんね」 騒々しい辺りとは一変、静寂に包まれた橋の上で歩みを止めた俺達。これからどうすりゃいいんだとごちる色黒少年を横目に煉瓦を何重にも重ねてできた橋の柵に凭れて空を仰ぎみた。とうに日は沈んでいて、ただえさえスモッグで視界の悪いロンドンの不気味さに拍車がかかっている。胸ポケットから取り出した愛用の煙草に火をつけて深く息を吐いた俺に「なまえ、未成年が煙草吸っちゃダメだってあれほど言ったじゃない!」と毛利が憤慨した。ぐるぐると巡らせる思考に息詰まった時や気疲れした時、煙草に頼るのは俺の悪い癖だ。お前は俺の母親かとぼやいた俺の手から煙草を取り上げ捻り潰した毛利の濁った笑みに、すぐさま両手を上げて白旗を振る。これじゃあ可愛い顔も台無しだ。はいはい、もう吸いませんよと肩をすくめてぽっきりと無残にも変貌した亡骸を携帯していた灰皿に投げ入れる。これ買うのにどんだけ俺が頭を悩ませるか知らねーだろちくしょう。ぶつぶつと心内で悪態を吐いていた俺の耳にくしゅんと小さく、遠慮した様なくしゃみが聞こえて緩慢に毛利を伺い見た。そういえば少し肌寒いなと肩を震わせる毛利の顔面にジャケットを投げつけてやる。 「え、いいの?」 「よくなかったら渡してねーよ」 「...ありがとう」 「煙草臭いだろーけど、ないよりかましだろ」 「なまえって...意外と優しいよね」 「いますぐ脱げ」 意外は余計だと眉を寄せた俺に、いやよと舌を向ける毛利。どうやら憎まれ口を叩く余裕はあるようだ。良いように解釈してくれた毛利には悪いが、風邪を引いて困るのはこちらだし体調を気にしてしまうのも医者の性。倒れられたところで毛利を運ぶのは背丈も同じな俺わけで。足手まといになられたらそれこそ厄介。巡り巡って俺のところに面倒ごとが回ってくるのならそれを未然に防ぐのは至極当然のことなだけ。ありがとうと綺麗に微笑む毛利に今回だけだからなと背を向けて、照れる顔を隠すかの様に口元を掌で覆う。やっぱ慣れないことはするもんじゃないなと頭をかいた俺の背後で「なまえっていい匂いするよね」とけろりと吐いた毛利にお前な...とじと目を向けた。あーもう。こいつまじでいやだ。 「...さむい」 「これ着とけよ」 「灰原さん上着をどうぞ!」 「あら、ありがとう」 やっぱ貸すんじゃなかったと項垂れた俺の視界の端で、同じく上着を脱いで女の子に差し出す眼鏡と光彦。「俺も貸してやったほうがいいのか?」と眉を寄せた元太に「ばーか。子供のくせに気ぃ使うなっつーの」そう言って肌触りの良い頭皮をぐりぐりと撫で付ける。うん、子供は素直が1番だ。誰かさんみたいに素直すぎるのも時には厄介だけど。いまだ消化できず、ぐるぐると脳内で燻っている毛利の言葉に内心でごちる。普段、女の子に言うだろう台詞を女から吐かれるなんて思ってもいなかった。なんとも複雑。匂いなんて今までちっとも気にしていなかったが、面と向かって言われると気になるわけで。目の前を過ぎる小さな背中の首根っこを捕まえて、その折れそうなほど細い首筋に鼻を寄せた。 「なっ...!」 「ばか、暴れんな」 突然のことに狼狽えて、じたばたと腕の中で暴れる小さな身体。すっぽりと収まるその身体をなんとか押さえ付け、小ぶりの耳元でそっと囁くように告げれば逃げだそうと藻掻いていた身体がぴしりと固まった。素直でよろしい。大人しいうちにと首筋に顔を埋め、すんと嗅いだ匂いはシャンプーの甘い匂いと毛利の家にお邪魔したときのそれ。あ、そうか。こいつ毛利の家に居候してんだっけ。女の家に住んでるんだったらそりゃ甘い匂いもするよなーと僅かな羨望には目をつぶって呆気なく解放した。 「なーに赤くなってんだよ」 「...無自覚でそういうことするのやめたほうがいいよ、なまえ兄ちゃん」 「お前だからやってんだけど」 「...そういうとこもだよ」 慌てて距離をとった名探偵の耳まで赤く染めた表情に、食べられるとでも思ったのかよマセガキとにやついた笑みを浮かべればじと目で凄まれた。俺としては男に抱き竦められて羞恥で赤くなるほうが理解に苦しむ。見た目も高校生だったらこちらこそ遠慮願いたいところだ。毛利にやらなかっただけ褒めて欲しい。弁解したところでご立腹な様子の名探偵は聞いてはくれないだろうが「毛利がさ、いい匂いするって言ったから他の奴らはどうなんだろーなって」とへらりと口元を緩めて笑顔を向ける。要は好奇心には勝てなかったわけだと豪語する俺の顔をみて心外にもはぁと溜息を吐いた眼鏡は「...なまえ兄ちゃんって馬鹿でしょ」と宣いやがった。この推理オタクめ。失礼にもほどがある。ひくりと口角を歪めた俺には気付かずに「そんなことより...それ、」と指で俺を指し示し、口を開いた名探偵の言葉は頭上から響いた阿笠博士の声により遮られたことで続かなかった。 |