『聞こえるかコナンくん!阿笠じゃ!』

突如、ステージ内に響き渡る阿笠博士の声に全員がはっと顔を上げた。現実世界からの通信に子供達が期待の眼差しで空を仰ぎみる。「聞こえるよ、博士!」声高に応える眼鏡のガキの呼号が閑散とした空間に反響して轟いた。阿笠博士の助言で解したことは、このオールド・タイム・ロンドンのステージでは傷を負ったり警官に捕まるとアウト。そして現在地はイーストエンドのホワイトチャペル地区だということくらいだ。肝心のお助けキャラについてはノアズ・アークの電波妨害により聞き取れやしない。「どうしたの博士!聞こえないよ!」焦燥に叫ぶ名探偵の声に耳を傾けていた時、まるで図ったかのようなタイミングでガラガラと橋が崩れだした。落ちれば即ゲームオーバーだ。行け!走れ!と迫る恐怖に哮る名探偵に促され、だんだんと崩れ落ちる足場から逃れるべく、転がるように前へと足を動かす面々の最後尾で小さく舌を打つ。そう簡単にはクリアさせてくれないってわけね。これじゃあ優作さんが考案したシナリオもまんまとはいかなさそうだ。

「うわぁーー!」

面倒だとばかりに眉を潜め走る俺の隣で必死に駆けていた色黒少年の友人が、瓦礫に足を取られて視界から消えた。咄嗟、振り返り様に伸ばした手は宙を掴む。スローモーションの様に目の前で落ちていく、恐怖と悲痛が織り交ざったその表情にくそっと小さく毒づいた。この距離ではもう手を伸ばしたところで届きそうにない。だったらーー。

「なまえ兄ちゃん!」
「なまえ!菊川くん!」

一瞬の浮遊感の後、俺よりも幾らか小さい身体を片腕で抱きとめ、崩れて突起した橋の残骸に利き手かける。全体重と少年の体重が伸し掛った腕がビキッと軋む音がした。あ、あの...!と声を掛ける少年に応える余裕もない。風に煽られて揺れる体も、不安定な手の持ち場も全てが悪条件だ。じわじわと汗で滑る指はそろそろ限界に近い。指だけで自分の体重と小学生を支えるだなんて俺がそんな無謀なこと長時間できると思うのか。理系の医者志望なめんなよちくしょう。くっ...と歯を食いしばって耐えていた視界に、焦燥を滲ませて駆け寄ってきた眼鏡と毛利の姿を捉えるや、苦痛に顔を歪めたままとりあえずこいつを!と腕の中にいる少年を言葉で示す。目一杯伸ばした掌が繋がる様、少しだけ抱えていた腕をなんとか持ちあげてやると、漸く少年を掴んだ毛利にほっと安堵して思わず力が抜けた。「なまえ!」するりと指が橋から離れそうなる俺の手首を小さな手が掴む。名探偵が上げた、悲鳴にも近い呼び声に慌てて少年を抱えていた片方の手も橋にかけた。危うく川にどぼんと落ちるところだった。気が抜けたことが敗因だなんて、そんな情けなさすぎるゲームオーバーだけは遠慮したい。ふぅと小さく息を吐いて、未だ掴んだままの眼鏡を仰ぎ見ればその表情に思わず面食う。なんでそんなに泣きそうなんだ。必死に腕を掴む小さな手が、僅かに振動しているのが触れている箇所から伝わってくる。ぽかんと驚愕で見上げていた俺の掴まれていない手首を、少年を引き上げ終えた毛利が掴んで力の限り引き上げてくれた。さすが空手部主将。その逞しさを少し分けてほしいくらいだ。

「もう、なまえ!心配させないでよ!」
「なまえ兄ちゃんすっげーかっこよかったぜ!」
「僕、見直しました!」
「なまえお兄さんヒーローみたいだったよ!」

ながいながい浮遊感から解放され、漸く地に足が着いたことで張っていた気がゆるゆると萎む。どさりと地面に腰を下ろし柵に背を預けて、肺に溜め込んだ空気を盛大に吐き出した。これが元太だったら俺は迷うことなく諦めてただろうなと痺れる腕に目を下ろして苦笑を零す。だらりと投げ出した利き腕は当分使いたくない。泣きそうに顔を歪めて執拗に安否を確認してくる毛利にひらひらと無事な手を振って応える傍で、キラキラとした眼差しと賞賛を投げてくる少年探偵団の面々。こいつら俺の命が危うく消えかけたことわかってんのかよ。光彦に至っては今まで俺のことどんな風にみてたんだおい。

「あ、あの、ありがとうございました...」
「ん...?ああ、菊川...だっけ?いーてべつに。俺は大きい落し物拾っただけだし」
「私、このままゲームオーバーになるかと思って...」
「結果、お互い生きてるわけだし気にすんな。それに、礼をゆーなら俺じゃなくてあいつら。俺はお前を抱えてただけで、悔しいけどひとりじゃ死んでたわけだしなー」

ぱたぱたと掛けてくる足音に顔を上げれば、俺が体を張って拾った菊川が走り寄ってくるのを捉えた。眼前まで来るとぺたりと地面に腰を落として項垂れた菊川の頭をぽんぽんと撫でる。見て分かるほど身体が震えているお坊ちゃまな菊川には、どうやら相当こたえたようだ。そりゃそうだ。俺だってあんな芸当もう頼まれたってやりたくない。

「なまえ兄ちゃん」

吃りながらぽつりぽつりと心情を吐露する菊川の背後で、顔を俯かせ表情を隠した名探偵の有無を言わさぬ呼びかけにびくりと身体が硬直した。如何にも怒ってますというオーラを全面に醸し出した眼鏡のガキに緩めていた口元を引き結ぶ。「じゃ、じゃあお礼はいいましたから!」と眼鏡のオーラを浴びせられて背を向けた菊川に、あ、おい!と伸ばした手は小さな掌によって包まれた。恐る恐ると見上げた瞳は曇った眼鏡に隠されて合わさることはない。ご機嫌を損ねた名探偵が厄介な性質なのは身をもって体験済みだ。だらりだらりと流れた汗が背中を伝って気持ちが悪い。ゆっくりと緩慢に近づいてくる小さな掌に思わずぎゅと目を閉じた。

「心配、かけんじゃねーよ...バーロー」
「...そーおもうんならもうちょっと労わってくれませんかね」
「おめーが危ないことすっからだろ」

危険なことに振り回す口がよく言うよ。小さな手に加減なく摘まれた頬がひりひりと痛い。囁くように吐いた名探偵の心境が手にとるように読み取れて、お人好しすぎる彼にやれやれと息をついた。自分の手の届く範囲で大切なものだけ守っていけばいいのに、その小さな背中に何人の命を背負うつもりだ。勝手に危難に飛び込んで、勝手に息絶える奴のことなんかに一々気を病むなんて馬鹿じゃねーの。開いた瞼にほっと安堵を浮かべた名探偵が映って眉を寄せる。俺なんかの心配までするなんてお人好しにも程がある。なんて面倒なガキだと胸中でごちた俺は「てーかお前さっき俺のこと呼び捨てにしたよな?」そう言ってお返しとばかりに頬を摘みかえした。

「しかもなーんか口調が工藤に似てたし?」
「え、いや...ちが...!」
「バーローとかコナンくんも使うんだ、へー」
「新一兄ちゃんのが移ったのかな...ははは...」

にやにやと嫌らしい笑みを顔面に貼り付けてずいっと顔を近づければ空を泳がせていた視線がばちりと交わる。俺の頬を掴んでいた手を離して後頭部をかくその姿に、「ま、そういうことにしといてやるよ」と潔く手を離した。感潜って正体を明かされても面倒だ。「心配してくれてありがとな、コナン」と胸をなで下ろす小さな名探偵の頭にぽんと手を置いて、重い腰を持ち上げる。哀ちゃんが云うとおり、小説を織り交ぜて作ったシナリオだとすれば、レストレード警部がいる様にあのシャーロック・ホームズも居るはずだ。現地点がホワイトチャペル地区ならベイカーストリートまでは歩くしか方法がない。身体を休める暇もなさそうだ。「あのシャーロック・ホームズがいるなら百人力だ!」と騒ぐ少年探偵団を横目に、無事にシャーロック・ホームズに会えたらいいけどなと暗夜に沈む空を仰いで小さく呟いた。