シャーロック・ホームズがこのステージのお助けキャラだと踏んだ俺達は、彼とワトスン博士の下宿先「ベイカー街221B」を目的地とし、休む間もなく足を動かしていた。ホワイトチャペル地区から下宿のあるベイカーストリートまで宛もなく歩くのかと思いきや、このハイスペックな少年にとって百年前のロンドンなんてなんの痛痒もないらしい。いくら推理小説オタクとはいえど記憶力の良さにも程がある。感心を通り越して若干引き気味な俺には構わず、迷いのない足取りで先を往く名探偵の背中を各々が神妙な面持ちで追いかけていた。それもそうだ。数分前までは誰よりも先に世界初のゲーム機を体験できると浮かれていたのに、まさかこんな生命を掛けた危険なゲームになるだなんて誰も予期してはいなかったのだから。ましてや、妨害だとはいえあんな崩れる橋からの全力逃走を終えた後じゃ口数が減るのも無理はない。元気があるのは活き活きとしている探偵馬鹿と最年長だからと気丈に振舞っている毛利、冷静に周囲を伺っている哀ちゃんくらいだ。かくいう俺もおかげ様で眠気は吹き飛んだが、未だ痺れの取れぬ腕と憔悴しきった躰に鞭を打ってのろのろと重い足を動かせど、じわりじわりと消耗する体力に着いていくのがやっとだったりする。チラチラと此方を伺う眼鏡の視線すら煩わしい。持久戦が苦手なのは元々だ、ほっとけ。

「おい、あの時計おかしくねーか?」

歩けど歩けど先の見えない道のりと歩きすぎて棒のように変貌した痛む足にそろそろ限界だと嫌気がさした頃、突如、怪訝な声を発した色黒少年に促され、ぽつんと街のど真ん中に佇んでは堂々とその姿を主張する程の一際目立つ大きな時計塔を全員で仰ぎ見上げた。別に至って普通の時計塔だけどと眉を寄せた直後、タイミングを見計らったかのように50分を指していた針が49分、48分と逆回りに時を刻み始めたことに子供達が驚愕の声を上げる。

「針が戻ったぞ!」
「あっ!また戻りましたよ!」
「50分から49分...そして48分...そうか!あれはゲームに参加している子供の数だ!」
「ええ〜!」
「2分戻ったってことは...」
「誰か2人、別のステージでゲームオーバーになったってことね」

ふーんなるほどね、50人いたゲーム参加者の子供達が脱落したことを態々数で示して教えてくれるなんて随分親切なこった。驚愕に叫ぶ少年探偵団に向けて淡々と推理を披露する名探偵、そしてその推理を綴じる毛利の会話を耳に入れながら、ちらりと色黒少年に視線を向ける。ゲーム参加者が50人しかいないのは間違いない。針が50分を指していたのも此処にいる全員が確認していることだ。じゃあなんでこの時計塔がおかしいなんて気が付いたんだろうなーーーなぁ、親切なゲーム進行者さん?どうやら少しは楽しめそうだなと緩む口許をそのままにわしゃわしゃと硬い髪を撫でまわす。これでノアズ・アークの意図も段々と読めてきた。手中でころころと転がされるのは癪に触るが、もう少しこの戯言に付き合ってやろーじゃねぇの。歩みを再開させた一行の最後尾でひっそりとニヒルな笑みを浮かべた。

この時代には無い衣服を身にまとった俺達は、出来るだけ目立たない様に考慮して裏路地を選んでは進む。避けられる争いは避けて通るのが吉だ。そうこうしている間にも脱落者がどんどん出てきてはいるだろうがこればかりは仕方ない。地道な情報収集や現場の検証、そうして絡まりあった細い糸を一本一本丁寧に解き、ピースを繋ぎ合わせて犯人を捕まえるというのがこの探偵という職業を体感できるステージの特色。当初、子供でも遊べる体感ゲームだったのがノアズ・アークの介入により更に難易度も上がっていることだろう。まあ単に、優作さんが関与しているゲームのシナリオを気楽に堪能したかった俺にとっては迷惑でしかないが。
忍耐力や集中力、そして些細なことも見逃さない鋭い洞察力やその全てを導く為の優れた頭脳。どれを欠いても探偵は務まらない。そう容易に身に付くものではないし、凡人が好んでなれるほど簡単な職業ではないから就くことも、そして職してる者は尚更非常に厄介だ。紙面上ではあんなにスムーズに進むというのに常に思考はフル回転で脳みそが疲労を訴える上、視野を広げて神経を研ぎ澄ませた状態を維持するだなんて、たかだか推理小説が好きな俺にとったらそんな精神がぼろぼろに崩壊しそうな職業こっちから願い下げ。ミステリー小説好きとしてコナン・ドイルが手掛けたあの世界的有名なシャーロック・ホームズシリーズの世界観を味わえるだけで充分すぎるほどの手土産だ。頭脳戦は事件と聞けば身体が疼く本職さんに任せて一傍観者を決め込んだ俺は傷を負わないようこの身を守るだけに徹させて頂くことにする。折角参加したんだ、ジャック・ザ・リッパーをこの目で拝みたいじゃねーの。沈んでいた気が浮上し幾分足取りが軽やかになったのは、ノアズ・アークは本気で人質にした50人の子供達の脳みそをぐちゃぐちゃに破壊する気は無いのかもしれないと僅かにでも感じ取れたからだ。これで心置きなく堪能できる。やっぱり人間なんて単純な生き物だよ、ノアズ・アーク。

「ここにあのシャーロック・ホームズが住んでるのか?」
「ワトスン博士と一緒に借りている下宿よ」

さすがに地区をひとつ超えるのは大人の足でも無理があるのに、引き連れているのは子供ばかり。鉄道かせめて馬車くらいホームズが生きたこの時代にも交通手段はあるはずだが、誰ひとりと文句を零すこともなく黙々と歩みを勧めて数十時間。いや、文句を垂れる気力すら根こそぎ剥ぎ取られ、体力を無駄に消費したくないだけなんだけど。何度か休息を挟みつつ、遂に到着した「ベイカー街221B」とプレートを掲げた扉を前に、疲労で憔悴仕切っていた身体が急速に熱を循環させて心臓がばくばくと激しく胸骨を打ち出す。仮想現実とはいえ、シャーロック・ホームズとその助手ジョン・H・ワトスンに逢えるだなんてこんな待望の機会を目の前に、平常心でいられるはずがない。此処ね、とプレートを見上げた毛利がドアノッカーを数度を打ち鳴らして数分、ゆっくりと顔を覗かせた人物に汗で湿った掌をぎゅっと握り締める。緊張で身体が震えたのは一瞬、扉の向こうから姿を現したハドスン夫人に「ホームズさんとワトスン博士は出張でいませんよ?」と期待をばっさり切り捨てられて一気に脱力感に襲われた。ちくしょう、そんな予感はしてたけどさ!

「ダートムーアという田舎に...」
「すいませんけど、今日は何日ですか!?」
「9月30日よ」
「9月30日...そうか!バスカヴィル家の犬事件だ!」
「そうよ!丁度ふたりがロンドンを離れてる時だわ!」

日付だけでシャーロック・ホームズが携わった事件を解する眼鏡のガキは相当なシャーロキアンだと知ってはいたが、毛利もその推理小説オタクに中々毒されてんななんてどうでもいい事が頭を巡るくらいに参っているらしい。この期待だけを胸に重い足を引き摺って此処まで来たのになんて仕打ちだ。憤りをそのまま舌に込めるや、首元までしっかりと上げていたネクタイを雑に緩める。優作さんはなにも百年前のロンドンを体感させる為だけにバッチをくれた訳では無いだろう。三度の飯より悪戯が好物なあの人がそんな優しさだけで態々体感して来いだなんて俺にいうはずがない。想像もつかないほどの悪戯を仕掛けてはいるだろうことは予想済みだ。だが、推理小説家の彼が作中に登場する重要人物をお助けキャラに設定もせず、ましてや会遇すらさせてくれないなんてことあるのだろうか。どうせノアズ・アークの仕業なんだろう、余計なことしやがって。同じく落胆に肩を落とす子供達を尻目に、色黒少年に半目を向けるもじっと見返されて小さく息を吐く。はいはい、シナリオが書き換えられたのならそれに従うしかないって訳ね。今からダートムーアに向かったところで時間が掛かりすぎる上、入れ違いになったらたまったもんじゃない。結局は自分達の力でどうにかしろってことか。面倒なことこの上ない。俺達の事をベイカー・ストリート・イレギュラーズだと良いように解釈してくれたハドスン夫人に招き入れられ、あくまでも想像上だとは云えホームズの部屋へと足を踏み入れた頃には右肩上がりに気分が上昇を辿ったんだけど。